第十三話
――三年前。
空っぽになった部屋で、ただ一つ、残されたままになった指輪を、迅は拾った。
奥歯を噛みしめていなければ、堪えていた感情が、あふれ出てしまいそうだった。
「……行ったのか」
ふと、背後から声がした。
迅は振り向かない。顔を見られたくなくて、振り向けなかった。
「……だよな」
声の主は続けて言った。頼りを失くした子どものような、細い、細い声だった。
「シン……」
迅は、言いかけた。言いかけてすぐ、言葉をつぐんだ。
しばらくの沈黙の後、シンはつぶやく。
「……バカか、お前」
そうして、足音が遠ざかっていく。
その音を聞きながら、迅は目元を手で覆った。
――シン……。
――あのとき、おれがなにを言おうとしたのか、お前はわかってたんじゃないのか……?
「……傷が……」
ナツが、つぶやいた。
剣を受けるたび、青白い迅の顔が、痛みに歪む。
傷を受けてから、数日しか経ってはいない。ふさがっているはずはないのだ。
ナツは、唇を噛む。
「止めなきゃ、いけないのに……!」
重く、命を削り合うように、二人は剣を重ねる。
止められない、歯がゆさに歯を食いしばりながら、沸き立つような熱に、うかされる。ひとときも目を逸らせず、握りしめた拳を震わせながら、二人の姿を、食い入るように見ている。
「止められるわけ、ねーだろ……」
エクトルが、言った。
誰も、何も言わない。
曙の金の光が、騎士館を照らす。暗闇を赤く染めた炎は、勢いをなくし、くすぶるだけだ……。
「……くっ……」
押す力と、押し返す力とがぶつかって、剣はチリチリと音を立てる。迅は奥歯を噛みしめ、足を踏みしめて、さらに力を込める。シンは目を眇め、一瞬、息を吸い込んだ。その刹那、剣は弾かれ、よろめき、尻もちをついた。
剣を拾い、立ち上がろうとするが、手も、足も、震えて力が入らない。
シンは、小さく笑った。
「……終わりだな」
「立て」
迅は即座に言う。シンが困ったように迅の顔を見上げると、さらに、怒鳴った。
「立て!」
シンは眉を寄せ、目を伏せて、うつむく。
「お前じゃないんだ、無茶言うな……」
「うるせえ!」
「もう、ボロボロだ……」
「うるせえって言ってんだろ!立てよ!」
迅は剣を投げ捨てた。そして、シンの胸ぐらをつかみ、引き上げる。
シンは顔を歪め、黙ったまま、迅を見ている。
「『お前じゃないんだ』って、なんだよ……!」
冷ややかに自分を見下ろす水色の目に、迅は歯を食いしばる。
迅は胸ぐらを掴んでいた手をゆるめ、シンの首元に、顔を伏せた。
「おれは、同じだと思ってた……!」
そう言うと、迅はシンを突き飛ばす。そして、仰向けに倒れたその上に馬乗りになり、拳を振り上げた。
シンは咄嗟に、目を閉じる。
しかし、拳は落ちてこなかった。
ゆっくりと目を開けると、獣の顔が、歪んでいた。
「でも、違ったんだろ!笑えよ!そんなわけねーだろって、いつもみたいに、バカにして、笑えばいいだろ!」
どっと、体の力が抜けるようだった。
目元を手で覆い、震える唇を噛みしめて、やがて、吐き出すように、迅は言った。
「タグヒュームでのことが、忘れられない……!」
シンは、眉を寄せる。
迅は、一度も言わなかった。タグヒュームで起きたことを、どう思っているのか。
ただの、一度も。
「ステルラに帰っても、何も元通りにならない……!どうやって忘れりゃいいんだ!」
「じいさんみたいになりたい」、そう言うたびに、「百年早い」とからかわれ、憤慨した。
振りかえると、そこには瞳真がいて、呆れ顔で繰り返す。「百年早い」。
地団太を踏んで怒る迅を、シンが笑う。
笑っているシンに、迅はつかみかかる。
つかみ合って、子どものような悪口を言い合って、それが笑えるほど、バカバカしくて……、何度、繰り返しただろう。
飽きるほど、退屈するほど、繰り返した日々。
……かえりたいと、幾度、思っただろう。
「苦しかった……!でも、お前は、どこにも行かなかったじゃねえか!ステルラで、騎士団にいて、ガキどもと遊んで、おれとお前は、同じだと思ってたんだよ!」
――同じな、ものか。
シンは唇を噛む。
ずっと、忘れられない光景があった。
三年前、タグヒューム……、瞳真に退却を命じられ、あの地獄のような光景に、飛び込んでいった迅の背中。
それ以来、足元はいつも、底なし沼に浸かっているようなものだった。
恐ろしくて、恐ろしくて、もう前に、進めない……。
「バカバカしすぎて笑えねえよ……」
そう言う声が、震える。
とても、言えない。
いつからか、ずっと、頭を支配し続けた。
――おれはもう、舞台を降りたい……。
「……シン」
そっと、穏やかな声がした。シンは、虚ろな目で、声の主を見やる。
瞳真は、厳しい顔で、シンを見ていた。
その顔が、ぼやける。
食いしばった奥歯が、震える。
「……お前、言ったな?メルウィル卿が襲われたとき、もし、ダミアが騎士団の内部に目を向けるなら、その場で名乗り出るつもりだったと……」
声は、遠ざかる。
ずぶずぶと、体が呑み込まれていく。
恐ろしい。悲しい。寂しい。苦しい――。
「……そんなこと、言いましたかね……」
小さく笑って、シンは言った。
「遅かれ早かれ、お前は自分を反逆者にするつもりだったんじゃないのか……!」
シンは、笑ったまま、微かに顔を歪める。
クレイグの問いが、甦る。
――「君は、誰を思った……?」
誰を?
そう問われて、目の奥で、閃光が走るように、思い浮かんだもの――。
青い夜。
月のわずかな光を集めて、自分を見つめる、とび色の瞳……。
英雄の背を、追いかけた。
追いかけて、追いかけて、見続けたのは、迅の背中だった。
――いつから?
――いつ、から?
それが、この世界で、ただ一つの、光になったのは。
シンは、迅を見上げた。
話に全くついてこれていないらしい獣は、情けない顔で、シンを見つめている。
シンは、笑った。
――だから、決して許さない。
この美しく、気高く、愚かな獣を、英雄の名で飾ることも、反逆者の名で貶めることも、許さない。
「シン……!」
瞳真が、叫ぶ。
「自分が反逆者だと言うことで、迅の反逆の疑いも、何もかも、自分が引き被るつもりでいたんじゃないのか――!」
シンは、目を閉じる。
気が付いたとき、もう幕は上がっていた。
――ああ、きっと、愉快だろう。
迅を反逆者に貶めようとする者は、より明らかな罪でもって、自分が反逆者だと告げたら、どんな顔をするだろう?
迅を英雄と讃え、そして死地へ送った裏切り者が、反逆者は別にいたと知ったらどんな顔をするだろう?
悲劇を味わった者と、そうでない者とがいることが、さらなる悲劇を生むのだとしたら、もう一度、繰り返そう。赤い炎と、舞い散る煤と、叫び声の、舞台を。
誰も傍観者になど、しない。
誰もが舞台の上。うつむき、嘆息して、終わるだけ。
アンコールを叫ぶ者は、誰もいない……。
これほど滑稽で、愉快な幕引きはないだろう。
「シン……?」
窺うように、迅が言った。シンは、閉じた目を、ゆっくりと開く。
「……なんだよ?その顔は。忘れたのか?おれはお前を殺そうとした……」
袈裟懸けに斬られた傷が、じくりと痛んだ。
黒い丘の処刑場で、振り下ろされた一閃。
「生かせない」と、その言葉のままに、迷いなく。
「……お前の命なんか、おれにはどうでもよかったんだよ」
水色の目から、一粒、涙がこぼれた。
「……どうでも……」
シンは自嘲する。
「本当に、バカバカしい……」
明け方の光が、影を長くする。
ぽつりと、迅が、言った。
「……でも、殺しそこなったんだろ」
シンは、目を見開く。
顔を上げれば、そこにはいつもの、迅の顔がある。
とび色の、迷いない、真っ直ぐな光を宿した目が。
迅は、ゆっくりと立ち上がる。そして、シンに手を差し出した。
「立てよ、シン」
シンは歯を食いしばる。
「冗談じゃない……!」
「シン!」
「おれはお前とは違う……!」
「違わねえ!」
「違うんだよ!」
そして、立ち上がり、再び剣を手に取った。
――恨んでも、いた。
光を追い求めながら、でも、追いかけることに疲れて。
羨むことに、妬むことに、醜く、とりつかれて――。
迅の向こうに、白い影が、嗤うのが見えた。
シンは目を見開いた。
足元が、また揺らぐ。
白い影は、淀んだ声で、嗤った。
迅を斬りつける寸前で、シンは脱力した。
剣を取りこぼし、膝から崩れ落ちる。
「……う……」
心臓の辺りを握り締め、喘ぐように息をしながら、うずくまった。
「シン……!?」
「さわ……るな……!」
体を支えようとする迅の手を、シンは振りはらう。しかし、振りはらったその手を取られ、心臓を押さえるもう片方の手も引きはがさる。
「見せろ!」
「……っ」
乱暴に胸元を引きはいで、迅は顔を歪めた。
瞳真が迅の肩を掴む。迅は何か言おうと口を動かすが、どう説明すればいいのかわからない。
「見せろ……」
瞳真は眉を寄せた。シンの心臓の辺りにあるものは、何かの印のように見えた。それが、焼印を押したかのように、皮膚を焼いている。
「な、んだ?これ……?」
「う……、あ、あ……」
迅の掴む手が、焼けつく痛みにひきつる。
「シン!」
シンは体をのけぞらせ、のどの奥から、うめき声をもらす。
瞳真は振りかえって、優祈を呼んだ。
「優祈くん!」
鈴樹に支えられたまま、優祈は、ゆっくりと目を開けた。
そして、瞳真たちの方を見たかと思うと、その先に何か違うものを見るように、怪訝な顔をした。
「優祈?」
鈴樹が問うと、青白い顔で、よろよろと立ち上がって、シンのもとに向かう。鈴樹もその後を追いかける。
「なんだ、これは……?」
鈴樹が言う。
「……トルトニスの、御印……」
優祈が小さくつぶやいた。
「御印?」
瞳真が聞き返す。優祈は唇を噛みしめ、シンに覆いかぶさるようにして叫んだ。
「シンさん!トルトニスの神輝石を持ってるんですか……!?どうして……!」
シンは応答しない。ぐったりと、覚束なく息をしながら、目はどこか遠くを見たまま、動かない。優祈は、シンの胸元に手を伸ばした。しかし、その手は、なにかに反応するように、刻印に触れる直前で止まった。優祈は顔を歪める。
「優祈!どういうことだよ?どうなってんだ、これ……!」
尋常でない様子に、迅が優祈を横から揺さぶる。優祈はしばらく唇を噛んで黙っていたが、やがて意を決したように、胸元の印を、両手で覆った。手には、ルニスピアの神輝石のペンダントが、まだ握られている。
そして、目を閉じた。