第十二話
事態の急変に、ナツとフレンの二人は、呆然として、お互いの顔を見合わせる。ナコルは、しばらく真顔で考え込んだかと思うと、ナツの顔をじっと見つめ、頬を遠慮なく引っ張った。
「痛いっス!なにするんスか!」
ナツがその手を振り払うと、ナコルは真顔のまま、辺りを見回した。
そこには、なんの前触れもなく倒れ、ピクリとも動かない魔物たちが転がっている。
「……どゆこと?」
「知らないっスよ!つねるなら自分の頬にしてください!」
首を傾げるナコルに、ナツは怒鳴る。
「助かったけど……、これ、死んでんの……?」
フレンは魔物の口元を覗き込む。
「死んでなかったらお前そのまま顔面食われるぞ」
ナコルの一言に、フレンはザッと後ずさる。
「……死んでる、みたい、ッスねえ……」
頬をさすりながら、ナツは魔物の尻尾をつついている。
「とにかく、一旦騎士館に戻ったほうがいいのかね?わけがわからないけど、お姫さんに報告したほうがいいよな」
フレンが言う。ナツとナコルの二人は、コクリと頷いた。
「お前たち!」
騎士館に向かおうとした三人は、背後からの呼び止める声に立ち止まった。振りかえると同時に、声の主を指さし、叫んだ。
「ああああ!」
「なんでここにいるんスか!」
「混乱に乗じて脱獄かー!」
いちいち気の抜ける反応に、声の主、ザウルは青筋を浮かべた。
「そもそも獄になど入っていない!お前らじゃあるまいし!」
「入れたのお前らだろ!なに言ってんだー!」
「だから、それどころじゃ……!」
「……ザウル」
空は、夜明けを前に、青白い。
もうどこにも、ぎらぎらとした怒りを残していない、静かな声に、ナコルとフレンは眉を寄せ、顔を見合わせた。
「……総騎士長」
ナツがつぶやく。ダミアはゆっくりと歩み寄ってくる。血にまみれた右手は、力を失くしてぶら下がっているだけのように見えた。
「怪我、してるんスか……?」
困惑した顔を一瞥して、ダミアは言った。
「……気にするな。もう、戦うこともない……」
「ガルシア様」
案じるような声に、ダミアはザウルの肩にそっと左手を置いた。ザウルはなにか言いたげにしたが、のみ込むようにして、改めて三人に目線を向けると、言った。
「シンを見なかったか?」
「は?」
ナコルは首を傾げる。そもそも、ザウルの姿を見て驚く三人が、シンを見ているはずがない。
「シンさんが、どうかしたんですか」
フレンが尋ねる。ナツはきょときょとと、両者の顔を窺う。
ダミアが、苦々しく言った。
「シンを探せ……。あいつは内親王殿下を、弑逆するつもりかもしれない……」
じわりと、温かい光を感じた。青銀の光。
それからしばらくして、自分の名を呼ぶ声に気が付いた。
「瞳真さん!」
瞳真は、ゆっくりと目を開けた。
「瞳真さん……。よかった……」
まだぼやける視界を動かすと、腹に痛みが走る。側にいたのは、マリノだった。
「……っ……、マリ、ノ……?」
「はい」
ジーネ村にいるはずの彼が、なぜかここにいる。問おうとして、瞳真は起き上がろうとした。全身に激痛が走り、自分の身に起こったことを、改めて自覚する。
マリノがそっと手を貸す。起き上がり、壁に凭れると、瞳真は大きく息をついた。
青白い、シンの顔。そして、ほんの一瞬の、泣きそうな、子どものような顔……。
――「もう、どこにもかえれない……」
最後に、そう言った。その言葉の向かう先を、瞳真は考えた。シンがかえりたかったのは、どこなのだろう。
傷の具合を確かめて、マリノは手際よく手当てを始める。
「……お前、どうしてここに?」
思い出したように、青白い顔で、瞳真は尋ねる。
「優祈くんと一緒に来ました。迅さんの、目が覚めたから……」
「迅の?」
聞き返す声に力が入り、また傷が痛む。マリノが傷口をそっと押さえる。瞳真は痛みが落ち着くのを待ってから、言った。
「まさか、迅のやつ、来てるのか……?」
問うと、マリノは、複雑そうに笑った。
「……来ないわけ、ないじゃないですか……」
「……ああ……」
瞳真は額を押さえた。全くだ。「お前は生かせない」と、シンはそう言ったという。その言葉を聞いていたとすれば、じっとしているはずはない。
小突きあいながら、並んで歩く二人の後ろ姿が浮かんだ。
――「迅を殺すためですよ?そうでしょう」
クレイグを襲った理由を、シンはそう言った。
憎んでいたのかと問われて、シンははっきりと答えなかった。
――憎んでいたのでは、ない?
何かが、つながった気がした。
手当てが終わると、瞳真は、マリノをじっと見て言った。
「……肩、貸してくれるか」
マリノは、また複雑そうに笑んで、頷いた。
シンは言った。
――「あいつは英雄の孫なんかじゃない……。そうでしょう……?」
重たい金属音が、繰り返し、繰り返し、鳴り響く。
鈴樹は、クルトの傷口をしばる。そして、うなだれた首に右手をそっと添えて、言った。
「クルト、絶対に死んではいけない。死んではいけないぞ……!」
クルトは、目を潤ませながら、息を震わせてなにか言おうとしたが、唇を噛んで、ぎこちなくうなずいた。
鈴樹は歯がゆさを押し殺し、クルトの頭を抱き寄せた。茶色い髪を撫ぜて、そっと壁にもたせ、立ち上がる。
エクトルは、すぐ側に立っている優祈を見ていた。もともとよくない顔色が、一層悪く見える。普段の彼ならば、エクトルの傷に慌てふためきそうなものだが、立っているのもやっとという様子で、うつむいたまま、動かない。
「エクトル!」
鈴樹が駆け寄ってきて、エクトルの側にしゃがみこむ。
「傷を見せろ」
「ああ、ああ、触んないでくださいよ。悪化する」
「黙っていろ!」
こんなときですら悪態をつくエクトルを、鈴樹は真顔で怒鳴りつける。傷口を押さえるエクトルの手を引きはがすと、一瞬、顔をしかめ、への字に結んだ唇を震わせる。
それを左目で見て、エクトルはため息をつく。手当ては随分と乱暴だった。
「……優祈」
エクトルの手当てを終えてから、鈴樹は優祈の顔を見た。優祈はその声に反応したが、顔を上げると同時に、膝から崩れ落ちた。鈴樹とエクトルがそれを慌てて支える。
「優祈!」
優祈の体は、汗でじんわりと湿っている。抱きかかえられたまま、体を起こすこともできないというのに、「大丈夫」とでも言うように、優祈はそっと、鈴樹の背中を叩いた。
「……戯けめ……。なにをした?優祈……」
優祈は答えない。
鈴樹は、優祈と初めて出会ったときのことを思い出していた。マーンカンパーナ。かつての王都の残骸の中で、神輝石の力を使うという武器を向けられたときのこと。
あのとき、優祈は笑って言った。
――「それが君の大事なものなら、捨てることなんかない」
そうして、金色の光は放たれなかった。
今もまた、優祈は笑って、「大丈夫」と、そう言った。
そしてなんの前触れもなく、神代の魔物は動かなくなった……。
「鈴樹……」
か細い声で、優祈は言った。
「うん……?」
「僕、わかったんだ……」
鈴樹は首を傾げる。腕の中で、優祈は目を閉じている。閉じられた目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
「わかったんだ……」
重たい金属音が、鳴り響く。
様子が変わったことに気が付いた街の人々や、騎士たちが、少しずつ、集まってきている。
一つ一つ、鳴り響く、その音は、咆哮のように、泣き叫ぶ声のように、ステルラの街に響き渡る。
空は、少しずつ、白んでいく……。
――望みの先に、幸福があるとは限らない……。
雨の夜。シンは、クレイグの執務室にいた。シンが剣を抜いたとき、クレイグは一瞬驚いたようだったが、すぐに平静を取り戻し、執務机に腰を置いた。
「君がその剣を私に向けるというのなら、それから逃れる術はないのだろうな」
シンは困ったようにほほ笑み、「すみません」と一言、謝った。
「理由は教えてもらえるのだろうな」
「お聞きになりたいのであれば、答えないわけにもいきません」
個人的な恨みはない。それどころか、シンは比較的、クレイグを好ましく思っていた。冷静さが、時に冷たく映ることはあっても、それすらも、人間らしい、彼の不器用さだろう。
シンは言った。
「おれは、迅の処刑を望んでいます」
クレイグは首を傾げる。
「別に脅すつもりではありませんよ。脅して説得するのであれば、ステルラ公にする方が効果的でしょうし。でも、それでは意味がない」
「……どういう意味だ?」
「貴方を殺して、それを反逆軍の仕業にする。おれは別になにを隠すつもりもありません。ダミア=ガルシアが騎士団の内部に反逆者がいると、そう判断すれば、すぐに名乗り出ます」
クレイグは怪訝な顔をして言った。
「……あの男の性格上、そうはならないだろう」
「……そうなれば、犯人は捕まらない。正体の見えない反逆者の存在に、街中が怯えるでしょうね」
クレイグは、しばらくじっとシンの顔を見ていたが、やがてなにかを察したように、眉を寄せた。
「街の人間に、迅=ウルブリヒトを殺させるつもりか……?」
クレイグは言った。シンは笑い顔を作ったまま、目を伏せ、うつむいた。
「なんのために……?」
「メルウィル伯……、マリア内親王が貴方を選ばなかったことに、理不尽を感じたことは?」
唐突な問いに、クレイグは、ピクリと眉を動かして、小さくため息をついた。
「随分なことを聞くものだ」
シンは、小さく笑い声をこぼす。ゆっくりと顔を上げる。クレイグの立っている向こうに、窓がある。雲に覆われて、窓の向こうに、月は見えない。しとしとと、雨粒が落ちる音だけが聞こえる。
「だって、そうでしょう?貴方がマリア内親王と共に過ごした時間は、瞳真さんよりもずっとずっと長かった。積み重ねた時間の分だけ、募った思いがあるとするなら……。マリア内親王が、あっという間に瞳真さんと恋に落ちるのを、素直に祝福したはずもないでしょうに」
水色の目を、探るようにしてクレイグはシンを見る。馬鹿にするでも、からかうでもなく、シンは純粋に、答えを欲しているように見えた。
「理不尽と思おうが、どうだろうが、理屈ではないと、思うほかはないだろう」
クレイグは言った。シンは、わずかに眉を寄せる。
「理屈ではない……。ええ、そうでしょう。そうなんでしょうね。でも、理屈ではないということは、メルウィル伯。貴方がマリア内親王をどれだけ思おうが、その思いの上になにをしようが、意味はなかったってことだ。マリア内親王が瞳真さんと出会ったことで、貴方の思いが叶わなかったのだとすれば、あの二人が出会う運命にあった時点で、もう結果は決まっているということですよ。それならばなぜ、思わなければならなかったのか……」
ゆったりとした口調は、次第に急いていく。
――なぜ、思わなければならなかったのか。
シンは母を、守りたいと思った。母は死んだ。
家族になるために、父の手を取った。父との距離は、離れていくばかりだった。
英雄の背を、追いかけた。
追いかけて、追いかけて、追いかけて……。
見続けたのは、迅の背中だった。届くことは、なかった。
それでも、前を向かせてくれる人がいた。その人は最愛の人を亡くし、いなくなった。
赤く、黒く、燃えあがる炎が、なにもかもを、燃やし尽くした……。
――理屈では、ない。
理由など、ないのだ。
失い、失い続けた、おれの、この。
これはもう、天命ではないのか。
「シン=ウィーラント……」
クレイグは窺うように、シンの名を呼んだ。いつのまにか、床に落ちていた目線を、ゆっくりと元に戻す。クレイグは、どことなく、憐れむような目で、シンを見ていた。
「それは、君の話か……?」
シンは、目を見開く。
「君は、誰を思った……?」
その問いに、シンは答えられなかった。
――答えるわけに、いかなかった。
「ああっ!いたっス!あそこ!」
ナツとフレンとナコルの三人が、エクトルのもとに駆けてくる。
「隊長!隊長がいる……!」
「なんで?なにこれどうなってんの!?」
「あっ、エクトル怪我してる!」
口々に言う三人に、エクトルは苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「うるせえなあ……」
その場には、二人を囲むように、街の人々や騎士たちが集まっていた。誰も、なにも言うことなく、ただ、二人が戦うその様を、見ている。
「……シン……」
力ない声に、エクトルは振りかえる。マリノに支えられて、瞳真がゆっくりと歩いてくる。エクトルはかすかに眉を寄せたが、黙ったまま、視線を元に戻した。
「瞳真……」
鈴樹は、何か言いたげにしたが、すぐに口を結んだ。その顔に、瞳真は小さく笑むが、目を閉じて、うつむいた。
「……こう、なってしまった……」
――袈裟懸けに斬られた傷が、熱い。
汗なのか、傷が開いたのか、体が湿って、気持ちが悪い。腕に、足に、腰に、力を込めるたびに、剣を振るうたびに、体は、どんどんと、バラバラに崩れていくような気がした。
――でも、きっと、同じだ。
迅は歯を食いしばる。カチカチと音を鳴らしながら、剣と剣は、重なりあって軋む。その間から覗く目は、ただ、お互いを映すだけ。
剣を弾き、後ろに2、3歩下がる。肩で息をしながら、決して、目は逸らさない。
「……いつからだ?」
迅がぼそりと、つぶやいた。
「おれを、生かせないって、そう……いつから思ってた?」
シンはじっと、迅を見ていた。その目が、一瞬、揺らめいて、シンは、こぼすように言った。
「……どうして、帰ってきた……?」
その問いの意味がわからず、迅は眉を寄せる。
シンは、うつむき、唇を噛んだ。
そうして、再び顔を上げたとき、それはひどく禍々しく、歪んでいた。
「お前が死ななければ、誰も、わからない……!」
その顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見える。
「もう、誰も……!誰も傍観者になどしない!お前を英雄の孫と讃えた誰もが、お前を死地に送り込んだ裏切り者だ!そして、誰もが味わう……!この炎、鼻をつく臭い、血だまり、怒り、嘆き、叫んでも、何も変わらない!」
とび色の瞳が、シンを見ていた。美しく、気高い、獣の目が。
――なぜ繰り返すのかと、誰かが問うた。
答えなど、誰が知るだろう。
でも、終わらないのだ。三年の月日をもってしても。
終わらないなら、終われないなら、もう一度、始めるしかなかった。
たとえそれが、悲劇の舞台であるとしても。
終わりなど、初めから決まっているのだと、しても……。
――それが、望み。
あの、地獄のような光景から生まれた、昏い、昏い、望み……。
シンは、歯を食いしばり、そして、叫ぶ。
「これが、悲劇だ――!」




