第十一話
「うう……っ!」
魔物の爪が、横腹に食い込む。壁に押さえつけられ、内臓を押しつぶされそうな圧力に、クルトは必死で抵抗する。
無意味な抵抗に、魔物が咆哮を上げた瞬間、その背中に軽々と飛び乗った影が、魔物の首元を剣で貫いた。魔物の体が力を失くすと同時に、影はひらりと地面に降り立つ。壁に押さえつけられた体は解放され、クルトはむせ込んだ。
「動けるか、クルト?」
鈴樹は問う。声は淡々としているが、息は荒い。
「だ、だい、じょうぶ、です……」
クルトは、横腹の傷がそう深くないことを確かめて、かすれ声で返事をした。
「……馬がいるな……」
左手で、剣を持った右の手首をさすって、鈴樹はつぶやいた。クルトはよろよろと立ち上がり、マントの裾を破って横腹の傷を押さえる。
「――ああ、くそっ、うざってえ!」
怒鳴りながら、エクトルが道向こうからやってくる。顔をしかめ、何度か首筋を叩く。
「生きていたか」
「ああ、すいませんね!生きてましたよ!」
よく嫌味を言い合う余裕があるものだとクルトは呆れる。しかし、二人の表情は緊迫したままだ。
「ずいぶん数が多いな……」
「普段と比べてもえらく多いですよ。夜中だったのがよかったのか悪かったのか……。住人は外には出ないが、火が出たのがどうにも。住人を教会に避難させられればよかったんでしょうが、こう魔物の数が多いとね」
「神代の魔物は巣から遠く離れることはないと聞くが、ステルラの外に出ることは?」
「今まではなかった、としか。まあ、もしものときに備えてステルラ領のあちこちに小隊を常駐させちゃあいますよ。おかげでステルラは人手が足りなくて、このザマですがね」
「嫌味を言わずに話せないのか、君は」
「お互いさまでしょうが!」
鈴樹は一つ、ため息をついた。そしてまた、左手で右手首をさする。クルトは耐え兼ねて言った。
「あの、おれ、騎士館に戻って馬を連れてきます!」
クルトの決断に、二人は呆れた顔でクルトを見やる。
「バカ言え。それなら全員で騎士館に戻るほうが早いわ」
「でも!」
「自分は足手まといだ」。そう言いかけて、クルトは口をつぐんだ。横腹の傷が、じわりと痛む。傷を負って、このまま一緒に行動しても、なおさら足を引っ張るだろう。それならば、せめて――。
鈴樹がまた、一つため息をついた。
「無駄死にしたいと言う手駒を、行かせるわけにはいくまいよ」
「無駄死にじゃありません!絶対に、馬を連れてきます!」
「戯け!」
「だって、手、痛いんでしょう!?」
鈴樹は少し驚いたような顔をして、無意識に右手を押さえていた左手を離す。
クルトはもう、涙目だった。鈴樹が自分よりもずっと強いことはわかるが、その細腕で、自分の何倍もある魔物の体を切り裂いて、負担にならないわけがない。
エクトルがニヤつきながら言う。
「ざまあないっすねえ。まあ、お命はお守りしますよ?」
鈴樹はきろりとエクトルを睨む。クルトは、唇を噛む。次の瞬間、エクトルの襟元をつかみ、引っ張った。
「い……っ!」
エクトルは思わず声を上げる。襟元をつかんだ手をさっと離し、クルトは怒鳴った。
「あんただって、どっか痛めてるんじゃないのかよ!」
エクトルは一瞬渋い顔をした。黒い丘の処刑場で、シンに打ちつけられた首元が、数日経った今もまだ、軋むように痛んだ。しかし、エクトルは思い出す。その人は、処刑されるその直前でさえ、ほんの少しの弱ささえ見せなかった。
エクトルはまた、ニヤリと笑む。
「なまってんだよ。牢屋に閉じ込められてたせいでな?」
「……っ」
クルトはうつむいた。その顔を覗き込むようにして、エクトルが言う。
「なんだよ、泣き虫ちゃん?」
「うるさいな!」
クルトが振り払った手を、エクトルはさっと避けて、またニヤニヤと笑う。
「……っ、バカだ……っ」
クルトはうつむいて、目元を拭った。
不意に、冷たい、声がした。
「おれも、そう思う」
「……下がれ!」
エクトルが、叫んだ。そして、鈴樹を後ろに突き飛ばし、再び振り返った瞬間に、右目を、剣先が引き裂いた。
「……っ」
視界を半分奪われながら、それでも振り払った一閃は、あっけなく空を切り、シンの白刃が、エクトルの剣を弾いた。剣が地面に落ちると同時に、鋭い痛みと出血に、エクトルはバランスを崩し、倒れ込んだ。
「……う……」
顔の右半分を手で押さえ、這いつくばるエクトルを、シンは見下ろす。
「……浅かったな」
エクトルは、荒く息をしながら、シンを見上げる。
「だが、それでは戦えないな……」
シンは、つぶやいた。そして、冷然と、言った。
「そのまま、魔物に食い殺される恐怖を味わっても、お前はそのままでいられるのか……」
エクトルは、息をのんだ。魔物の返り血で赤く染まった顔。ぞっとするような冷たい目。体温を奪われて、体が固まって、動けない。
シンは、するりと、エクトルの横を通り過ぎた。
クルトは、必死で体を動かそうとした。でも、指の一つも動かせない。
シンが、クルトの前にさしかかる。このまま行かせてしまえば、彼は鈴樹を殺すだろう。横顔のまま、シンの目が、クルトを見た。
「……副、騎士長……!」
震える声で、クルトは言った。
「シン=ウィーラント!」
鈴樹が叫ぶ。シンはゆっくりと、鈴樹の方を見やる。
次の瞬間、視線を鈴樹に向けたまま、シンはクルトの横腹を貫いた。クルトは、剣を取りこぼし、大きな目を見開いて、シンの横顔を見る。視線に応えることもなく、横腹を貫いた剣が引き抜かれると、クルトは喉の奥の悲鳴を口から出すことも叶わずに、ずるずると壁にもたれ、崩れ落ちた。
「……君は……!」
怒りに歪む鈴樹の顔を、シンは虚ろに見ている。
「お怒りですか、内親王殿下」
シンは言った。あまりにも不穏当な問いに、鈴樹は目を見開く。
「腹を立てるなとでも言うつもりか……!?」
「いいえ……」
シンは、ふと、空を仰ぐ。
「でも、これが悲劇だ。どれほど憤ろうとも、止まらない。なぜと叫んでも、虚しく響くだけ……」
「そう思うのなら、なぜ繰り返す……!」
問うと、シンは、ゆっくりと鈴樹に視線を戻し、柔らかく、笑んだ。
「さあ……、どうしてだったか――」
――どうして……?
――どうして、こんなことに……?
やがて、シンはゆっくりと足を踏み出した。蒼碧の瞳が、かすかに、怯えたように揺れる。一歩、一歩、シンが足を進めるごとに、歪む顔。
その顔が、ゆるんだ。
彼女の目は、シンではないなにかを見ていた。その視線を追って、シンは振りかえる。
赤い炎と、煤と、鼻をつく異臭、遠くで飛び交う呻り声。叫び声。
その中に、青年は立っていた。
その場に似つかわしくない、静寂を纏って。
銀色の細い髪が、風に揺れた。その隙間から覗く、薄く金色に光る目。神の光を抱くという、神輝石のように、ゆらゆらと、奇妙な光を宿した、目。
「……やあ……」
シンは、わずかに顔を歪めた。
「また、会うとは思っていなかった」
青年は、黙っている。悲しげに、シンの顔を見つめている。
その目に、苛立ちを覚えながら、しかし、シンは笑う。魔物の呻り声が、近くに聞こえた。
「優祈!」
鈴樹が叫ぶ。それは、青年の名だ。
魔物が、優祈の右手に現れる。優祈は、目を伏せて、魔物を見ることもない。
「バカ野郎!逃げろ!神官さん!」
エクトルが怒鳴る。
「優祈!」
鈴樹が再び叫ぶと、優祈はゆっくりと顔を上げて、優しく、ほほ笑んだ。
「……大丈夫」
そう告げると、右手を、魔物に向けた。その手には、鈴樹が渡した、ルニスピアの神輝石のペンダントが握られている。装飾が揺れ、澄んだ音が響き合う。
青銀の光に、魔物は怯んだ。上半身をかがめ、ずりずりと後ろに退く。優祈は目を閉じた。そうして、うつむき、掌を固く、閉じた。
魔物は、抗うように一声叫んだ。そして、叫んだかと思うと、よろめいて、地響きをたてて、倒れた。
――静寂。
誰もが、呆然とするしかなかった。ステルラの街から、もう魔物の呻る声も、咆哮も、聞こえない。
「……へえ」
シンが、苦々しげに言う。優祈は、ゆっくりと目を開ける。
「黒い丘でも思ったけど、君、そんなことまでできるのか。神官といっても、少々、行き過ぎてやしないか」
優祈は、黙っている。鈴樹はなにが起こったのかわからず、ただ優祈の無事に脱力し、その場にへたり込んだ。その瞬間、シンの目が鈴樹を捉える。
「――だが」
反応する間もなく、鈴樹の喉元に剣先がつきつけられる。優祈はわずかに眉を寄せ、それでも黙っている。
「その力でもって、おれを止められるのか?」
銀色の長い睫毛の下から、金色の光がシンを捉えたかと思うと、ゆっくりとした口調で、優祈は言った。
「いいえ……、それは、僕の役目じゃなかった」
石畳の上を、剣先が引っ掻く音がした。シンは、音のした方に即座に反応する。それは、最初の一閃を身をかがめて繰り出す、そのときの、「彼」の癖だった。
鈴樹の喉元に突き付けていた剣を、体の前に構える。
次の瞬間、鉄と鉄が打ち合う、重い音が、鳴り響いた。
シンは、その痺れるような重みに、その向こうに見えたとび色の目に、一瞬よろめき、後ずさる。
マントが風で膨れ上がり、地面に落ちる。
シンは、ひゅう、と音を立てて息を吸い込み、吐き出す。
もう、ずっと、呼吸を忘れていたようだった。シンは「彼」を見据えた。
「……迅……!」
迅は、いつものように、にやりと笑んだ。
「よう、ざまあねえな?シン」
焼けるような痛みに、シンは心臓の辺りを押さえた。汗を流し、肩で息をしながら、顔を歪めるシンを、迅はまっすぐと見ていた。シンも、目を離すことができないでいた。痛みで視界が霞んでいても、その姿だけは、はっきりと見える。
迅は、シンのそれよりもずっと重い剣で、軽々と風を切り、その剣先をシンに向けた。
「おれは生かせない、だったか?」
シンは息をのむ。その言葉にではなく、こうしてこの場に至ってもなお、淀むことも、濁ることもない、その、瞳に。
「いいぜ、かかってこいよ」
迅はもう、笑ってはいない。時を経るごとに、一層研ぎ澄まされ、気高い、その姿を前に、シンはうつむき、小さく、笑った。
笑うしか、なかった。
「止めてやるよ、シン=ウィーラント!」
迅は声を荒げる。
その声に、言葉に、シンは、ゆっくりと顔を上げる。
その目に、暗い夜に閃く青い、雷のような、光を宿して。