第十話
扉は、またただの本棚に戻る。それをしばらく眺めてから、シンはゆっくりと体を返した。薄暗い部屋の、絨毯の上を歩くくぐもった足音を、一音一音確かめるようにして歩いた。夜の青に縁どられた窓の格子、その向こうの銀色の月。耳元に、手を当てる。
――笑っている。
――あの人が、おれを。
ベッドルームから出ると、ダミアたちが、怯えたような目でシンを見た。床に倒れたトビーが、何度か小さくうめいた。それらを一瞥して、シンは黙ったまま、出口へと向かう。
「……シン」
ダミアが、かすれた声でシンの名を呼んだ。その声に、振りかえることも、立ち止まることもなく、シンは王の間を後にした。
「……私が……?」
ダミアは、どっと体の力が抜けるのを感じた。冷たい汗が、体中を濡らしている。
「私が、引き金を、引いたのか……?」
膝をついたまま、うなだれて、ダミアは力なく、言った。
「……ガルシア様……」
ザウルが物言いたげにダミアの顔を覗き込んだ。
遠くで、警鐘の音はまだ鳴り続けている。
ダミアは、絨毯の上に置いた手の平を、引っ掻くようにして、握りしめた。
「……街へ」
ダミアは言った。そして、握りしめた拳を、打ちつけて怒鳴った。
「街へ……!魔物を打ち滅ぼせ!ステルラを守れ!」
――燃えている。
――あのときと、同じに。
ステルラの街に、赤い炎が上がる。逃げきれず、戦えなかった騎士たちが手にしていた灯りが、亡骸を、家を、燃やしている。
北の洞窟の魔物は、黒い、獅子のような姿をしていた。しかし、獅子よりも遙かに大きく、ぼたぼたと涎を垂らし、異様な臭いを漂わせ、ひどく醜い。
広い通りに面した家に、一匹の魔物が、入り込んでいた。店屋であるために、広く作られた扉が災いしたのである。部屋の中央にある窯の前で、少年は立ち尽くしていた。警鐘の音に一人一階へ降り、そこに魔物が入り込んできたのだ。
居住スペースである二階に続く階段は狭く、魔物はその先へは進めない。すぐに二階に戻ろうとしたが、あっという間に魔物に道を塞がれてしまった。
「ケイ!ケイが下に!」
二階から、事態を察したらしい両親の叫び声が聞こえた。このままでは、身の危険も顧みず、彼らは自分を助けに階段を下りてしまうだろう。
ケイは、ちらりと壊された扉に目をやった。
――外へ逃げて、魔物が入ってこれない狭い道に逃げられれば……。
意を決して、ケイは走った。魔物は即座に反応し、唸りながら、あっという間に背中に迫る。両親は階段を下りきている。父親の後ろで、母親が悲鳴をあげる。
「あ……!」
――逃げ切れない。
しかし、扉を出た瞬間、ケイの腕は強く引かれ、雷のような一閃が、魔物の喉を突いた。魔物は唸るような、悲鳴のような奇妙な声を喉の奥から漏らし、剣が引き抜かれると同時に、石畳の上に倒れ込んだ。
声を震わせ、泣きながら母親はその場に座り込んだ。
「ケイ!」父親が、慌ててケイのもとに駆けよった。
ケイはへたり込み、父親に抱きしめられながら、自らの手を引いた、その後ろ姿を見上げた。
「シン、兄ちゃん……」
シンは振りかえらない。返り血が、ぽつり、ぽつりと滴り落ちる。
「二階へ……」
そう、細い声で言うと、シンはゆらりと歩き出した。不意に不安に駆られ、その背中を追うように、ケイは叫んだ。
「シン兄ちゃん!」
血にそまった手で顔を拭うと、視界が赤く染まる。
ケイの声は、遠く聞こえる。
その声に、振りかえりはしない。もう、決して。
ケイはまた叫ぶ。泣きながら。
「シン兄ちゃん!シン兄ちゃん――!」
――最初に失ったのは、母だった。
母を亡くし、初めて父の顔を知った。
コンルーメンの宗教家だった父は、ベジェトコルに訪れたときに、母と知り合ったのだという。母は、コンルーメンでの父の立場を慮り、子どもができたことを伝えなかった。しかし、病に倒れ、自らの死期を悟り、一人残される子どもの身を案じたのだろう。
母からの手紙でシンの存在を知り、父はすぐにコンルーメンからやって来た。母を看取ることは叶わず、ただ一人その前に立ったシンを、父は抱きしめて、泣いた。
――「一緒にコンルーメンへ行こう。ちゃんと家族になろう」
父はそう言った。これまで一度も姿を見せなかった反感よりも、母を失った喪失感の方が大きく、シンは父の手をとった。
それから、コンルーメンへ向かう旅路が、彼が父と、親子だった唯一の時間だった。シンがなにか言うたびに、父は、どこか憐れみを潜ませて、シンにほほ笑んだ。
コンルーメンの船着き場には、子どもを抱いた父の妻が出迎えに来ていた。やわらかく笑う、線の細い、美しい、人だった。幼い子どもが、父のもとに駆け寄る。父は、それを抱きとめ、抱きあげて、笑う。
そんな、家族の光景を、シンはただ、眺めているしかなかった。
――家族になど、なれるはずもない。
それはもう、完成された家族の姿。そこに入り込むことなど、彼にはできなかった。
コンルーメンでのシンの居場所は、街の片隅の、いつも無人の教会の地下。そこにはたくさんの本が並んでいて、朝から晩まで、そこに籠って本を読んだり、昼寝をしたりして過ごした。
父はいつも、行く先を告げないシンを叱ったが、父の妻は、ふらりと出ていこうとする彼の気配をすぐに察して、黙って昼食を持たせてくれた。お礼も言わない彼に、そっと、ほほ笑んで。
あるとき、教会の地下にいるところを、弟に見つかった。シンの姿を見つけると、弟は探していた宝物を見つけたような顔で笑って、駆け寄ってきた。そして、彼が手にしていた本と、彼の顔をかわるがわる見て、物言いたげにする。シンが人差し指を唇に当てると、両手で口を覆って、シンの横にぴったりとくっついて座った。それ以来、ずっと、そうして時を過ごした。
それから、しばらくの時間が過ぎた。父の妻と、弟は相変わらずだったが、父との関係はどんどん悪くなっていった。家族になじもうとしないシンに、父は苛立った。
そんなとき、本棚から、一冊の本を見つけた。
英雄の物語。
ベジェトコルで、母が聞かせてくれた、騎士の物語……。
突き上げるような衝動が、湧き起こった。
そんなふうに生きたかった。
きっと、そうだったのだ。
母を守ると誓った。
誓いは果たされないまま、母は死んだ。
次から次へと、涙があふれ出た。
そばにいた弟が、どうしていいかわからずに、彼の服の裾をつかんで、泣きそうな顔をしている。
――ベジェトコルに、帰ろう。
母を守ることは叶わなかったけれど、ベジェトコルで、騎士として、生きよう。今、守るものなどなにもない。でも、なにかを守るために。
家出も同然に、シンはコンルーメンを出た。
父は見送りにはこなかった。来たときと同じように、父の妻と、弟だけが彼を見送った。
船着き場で、弟は泣いた。
シンをなんと呼べばいいのかわからなかったのかもしれない。彼の名前を呼ぶことも、彼を「兄」と呼ぶこともできなかった幼い弟は、「行かないで」と、ただそう、泣いた。
――もし彼が、おれの名を呼んだとしたら、どうだっただろう。
でも、もうだめだ。
もう、この寂しさに、耐えられない――。
あてもなくコンルーメンを飛び出し、ベジェトコルへ向かう船の中で、一人の神官に会った。マルクという名のその神官は、ステルラの教会へ赴任するのだと言い、シンの手を引いた。
初めて見たステルラの街。空は、青く、澄んでいた。草木に彩られたレンガ造りの家々。にぎやかに並ぶ露店。英雄の像。黒い鉄柵に囲まれ、見る者を圧倒させる騎士館。そして、黒い馬にまたがり、街を闊歩する、灰色の髪の英雄……。
こみ上げる感情に、マルクがそっと、背を押した。ゆったりと、穏やかに笑んで。
英雄の背を追いかけて、シンは駆けだした。
呼び止めようにも、どう呼んでいいかわからない。英雄と呼ばれた騎士。それ以外に、その、煌々たる姿のほかに、なにも知らない。
駆けて、駆けて。英雄の前に、シンは手をついた。
――僕をここに、置いてください。ここ以外で、どう生きればいいのか、わからない……。
地面に置いた手に、涙が落ちた。
失くしたものが、大きくて、大きすぎて、ぽっかりと開いた穴を埋めるものを、持たなかった。穏やかに、儚く、笑う母の顔すら、どんどんと、遠くなるのに。
大きな、力強い手が、シンの腕をつかんだ。英雄はシンの体を引き上げ、立ち上がらせると、細い肩を、両手で包み、腰をかがめて、まっすぐと、シンの顔を見た。
とび色の瞳は、やがて笑った。そしてただ、一言、「よし」と、そう、言った。
心臓のあたりが、焼けるように痛む。シンはよろめいて、レンガ造りの壁にもたれた。
「……う……」
オレンジ色に揺らめく視界に、ステルラの街が映る。
炎。唸り声。鼻をつくような匂い。北の洞窟の魔物が、シンの周りを探るようにうろついている。
タグヒュームの森が、神代の森が燃えてから、幾度も幾度も、街を襲う魔物たちの目は、いつも、強い怒りを宿している。
「……復讐なのか……」
シンはつぶやく。
魔物はただ、唸るだけだ。
言葉もなく、ただ怒り、憤る、燃えるような獣の目。
――いいや……。
ただ、怒りに、突き動かされるだけ。
そんな獣を、知っている。
とび色の瞳の、獣を。
見習い騎士の日々は、コンルーメンの地下で、ただ延々本を読んでいた、線の細い少年にはあまりにもつらかった。何度も吐いて、目を回し、疲れ切って眠るのに、毎晩のように、夜中に目が覚める。
汗だくで、それなのに冷たい手の平を見つめ、やがて閉じる。唇を噛んで目元を拭って、もう一度ベッドにもぐる。もう眠りが訪れることはなく、夜が明けるのを、ただ待った。
そんな毎日のうちで、最初は、いつだったか。
それは、英雄と同じ、とび色の目をしていた。
ひどく退屈そうに、苛立って、部屋の隅に、剣を抱えて座っていた。
情報だけは、あちこちから入ってきた。
英雄の孫だということ。
同い年ということ。
恐ろしく強いということ。
まったく口をきかず、いつもああして、むっつりと黙っているということ。
それは、きっと自分たちを見下しているからだと、そんな声が聞こえるようになった頃だった。
いつものように目覚めた夜中に、もう一度眠る気になれず、ベッドから出て、夜の騎士館を歩いた。
ふと、風を切る音が聞こえて、音のする方へ、シンは歩いていった。
大きな銀色の月が浮かぶ、雲一つない、冷たい夜だった。
その中に、ただ一人、なにかと戦うように、剣を振るう、姿。
ひどく必死に、とび色の瞳を潤ませ、歯を食いしばって。
シンは、食い入るように、その姿を見つめた。そうするうちに、少しずつ、少しずつ、無力感が頭をもたげた。そして、それはやがて、えも言われぬ悔しさとなって、シンは拳を握った。
なにが悔しかったのか。わからないまま、シンは、一歩、足を踏み出した。自分のテリトリーに入り込んだ侵入者に、迅はぴたりと動きを止め、シンを睨んだ。
その鋭い光に、尚更に苛立って、シンは言った。
――うるさいな、眠れないんだよ。英雄の孫だかなんだか知らないけど、いい気になってんじゃねえよ!鬱陶しい!
言い終わると同時に、迅はシンをつかみ倒し、次の瞬間には、手加減のない拳が落ちてきた。
それからは、顔を合わせるたびに喧嘩になった。「拳で分かり合う」などというものではない。全く口をきこうとしない迅に、分かるも分からないもなかった。シンがなにも言わずにいれば、近づこうとしなければ、迅はシンを視界に入れることすらない。その拒絶が、英雄へと繋がる道を、断ち切るようにシンには思えた。
つかみ合い、押し倒され、シンを見下ろす、その一瞬の目。なにを介することもない、ただ憤る、冷たい目……。
迅=ウルブリヒトは獣だ。
言葉を持たず、その心のままに、気高い……、他に並ぶものはなく、唯一無二の、美しい、獣。
シンは言葉に支配される。
どこにでもいる、ちっぽけな、人間だ。
「……くっ」
シンは嗤う。もうなにも、怖くない。すべてを断ち切って、もうなにもない。
心の底に巣食う、絶望のままに。
咆哮。石畳を引っ掻く爪の音。魔物は、シンに向かって走り出した。
――ああ。きっと、英雄はこんなときに現れるんだろう。でももう、英雄はいない。おれが、断ち切ったのだから。
シンは笑う。一太刀に、魔物を引き裂く。その返り血を浴びながら、シンは笑う。声を上げて。銀色の丸い月が、赤く、赤く、炎の向こうに昇る、太陽のように。
シンは笑う。声を上げて。
――いやだ……。
―――いやだ、いやだ、いやだ!
こんなふうに、こんなふうには、生きたくない――!
――「本当に、迅を英雄の孫だと、そうだとしか思っていないのか?」
瞳真は、ただその一言しか言わなかった。
たった一粒こぼれ落ちる、その小さな音だけで、荒く、さざめき立つ水面を沈める、理知に支えられた、琥珀色の、人間の目。
シンは、唇を噛んだ。それでも震えは止まらず、目の奥にこみ上げる感情を、抑えることができない。
コンルーメンの地下で、英雄の物語に再会したときの、あの、衝動のままに。
ステルラの街を、駆けて、駆けて、英雄の背を追った、熱情のままに。
騎士になることを、騎士として生きることを、追い求めていたかった。
――いいえ……。
やっとのことで、シンは言った。言うと同時に、涙がこぼれた。
それ以上、なにも言うことができず、シンはうつむいた。床に落ちる涙を、ぼやけた視界で眺めながら、ただ、「いいえ」と、そう繰り返した。
――「それなら、いい」
瞳真は言った。そうして、視界から瞳真の足は去っていった。顔を上げて、瞳真の背を見た。大きな、大きな、背中だった――。
血だまりに、シンは手をつく。
息が苦しい。心臓のあたりが、燃えるように熱い。
このまま倒れてしまえたら、どれほど――。
――「でも、さあ?」
耳の奥で、濁った声が聞こえた。
白い髪、白い肌、透き通るように美しいその人は、声だけが淀み、濁っている。
――「思っても、いたでしょ?」
「……あ、あ、あ……」
シンは、うめいた。
――炎。赤く、燃える。タグヒュームの、炎。
あの炎の中を、恐れなど知らないかのように、駆けていく、迅の、背中。
―― 一体、どこで道は分かたれたのか。
言葉に支配され、理性に侵され、自由を求めながら、不自由を選んでしまう、この、性は。
迅のように生きることを選べない、理由はどこにあるのか。
遡っても、遡っても、突き詰めればどうしようもなかったとしか思えない、一つ一つの選択の結果だというのか。
それならば、生まれたそのときから、決まっていたも同然だ。
――その、理不尽を。
――「恨んでも、いたでしょう?」
赤い舌を覗かせながら、白い影は嗤う。
よろめきながら、シンは立ち上がる。体中が、地面に沈むように、重い。
夜。銀色の月。青い闇に散りばめられた星々。白い、影。
――わかっている。
シンは空を仰ぐ。
これで、終幕だ。