第九話
夜。銀色の月。青い闇に散りばめられた星々。白い影。美しい人。
――わかっている。
シンは空を仰ぐ。
――もう……。
深夜、錠を外す物音でダミアは目を覚ました。すぐに、ベッドのそばに置いた剣に手を伸ばす。扉は、ギイ、と音を立てて、ゆっくりと開いた。廊下の突出し燭台の明かりが、風に揺れながら、暗い部屋に入り込む。
「――ガルシア様」
それは、よく知った声だった。
「……ザウル、か?」
「はい、ガルシア様。入っても構いませんか」
「一人か?」
「いいえ、皆おります」
ダミアは眉を寄せた。ザウルが言う「皆」とは、「ダミアに近しい者たち」という意味だ。しかし、その誰もが自室に閉じ込められているか、動きを制限されている。そもそも、ザウルもそうであるはずなのだ。
「ガルシア様」
ザウルは再び呼びかける。
ダミアは起き上がり、椅子に掛けてあった黒いガウンを手に取る。
「入ってこい」
雨戸は閉じてある。外に光が漏れないよう、手燭に小さな灯りを灯した。黒い人影がぞろぞろと、ダミアの部屋に入ってきた。
「閉めろ」
ザウルが小声で言う。扉が閉められると、廊下からわずかに入る光と、手燭の明かりだけが頼りになる。ダミアは一つ一つ、人影の顔を確認する。
「シン?」
ダミアは怪訝な顔をした。シンは、扉に寄りかかって立っていた。副騎士長という立場ではあるが、リヒャルトに心酔していたその男は、ザウルが言う「皆」には入っていない。
「われらは皆、シンに助け出されたのです」
忌々しさをにじませながら、ザウルが言った。ダミアはシンの顔をまじまじと見た。真意の読めない水色の瞳は、ガラス玉のように、ダミアの姿を映すだけだ。
「……総騎士長」
シンは言う。
「あんたが始めたことだ。最後まで全うしてください」
王の間には、鈴樹の他、トビー、クルト、エクトルの三人がいた。椅子に腰かけたまま、疲れ切って眠ってしまったクルトに、トビーがそっと毛織をかける。
「そいつ、後で部屋に放り込んどくんでいいっスよ」
左手で首の付け根あたりをさすりながら、エクトルが言った。
「そうですか。ではお願いします」
トビーはにっこりとほほ笑んで言う。端然としたその様子に渋い顔をして、エクトルは一つ、あくびをする。
「疲れているなら君も寝たまえ」
執務机に頬杖をついて鈴樹が言う。
「いや……、お姫さんも爺さんもいつ寝てんの」
そう言った次の瞬間、廊下から聞こえた声と物音に、エクトルの目の色が変わる。
「今の」
「ええ、姫様。そこを動かないでくださいませ」
鈴樹は頬杖をついたまま、扉を見ている。トビーは執務机の前に出た。空気が変わったことを察したのか、クルトは体を起こし、目をしぱしぱとさせた。
廊下から聞こえたのは、叫び声のようだった。そして何かが倒れるような物音。
まだ眠りから覚めきっていないクルトを除く三人が、扉に注視する。
やがて、ゆっくりと扉が開く。その動きに従って、扉の前で番をしていた騎士が、倒れ込んできた。
「な、内親王、殿下……!お、お逃げ……くださ……!」
ヒュウヒュウと息を漏らしながら、苦しそうに騎士は叫ぶ。
鈴樹は眉をひそめた。床に転がった騎士の顔を見て、その奥に立つ人影に目線を移した。
水色の目。氷のような目をしたその男は、もう作り笑顔を浮かべてはいない。
「……なんの真似だ」
シンは反応しない。虚ろな目をして、ただ鈴樹を見ているだけだ。エクトルが、腰の剣に手を伸ばすと、その目はエクトルの方を向いた。剣の柄を掴む直前で、エクトルは手を止めた。
「――失礼、内親王殿下」
廊下の奥から、粘るような声がした。扉の前に姿を現したダミアは、ゆっくりと礼をして、王の間へと踏み込んだ。その後に、腰に提げた剣をカチカチと鳴らしながら、ぞろぞろと騎士たちが続く。最後に、シンがのろりと歩を進め、扉を閉めた。
鈴樹は黙って、騎士たちを見た。胸元に騎士団のマークが描かれたチュニック。黒いマントの裏地が、燃えるように赤い。騎士団の正装だ。彼らの血走った目には、奇妙な高揚感が見える。
「どうやって」という問いは浮かばなかった。シンがそこにいるのだ。静かに、鈴樹は問う。
「……瞳真をどうした。シン=ウィーラント」
「殺しました」
事もなげに、シンは答えた。背筋を駆けあがるような怒りに、鈴樹は机の上に置いた左手を握りしめた。
「内親王殿下、聞いていただきたい」
ダミアが言う。鈴樹は鋭い目でダミアを睨む。
「お怒りはわかります。瞳真=ウルストンクラフトのことを含め、今日までに起こったことのすべては、私が責任をとります」
「……責任、だと?」
「ええ。その代わり、聞いていただきたいのだ。この街を、ステルラを、騎士たちの下に預けて欲しい」
「どういう意味だ?」
「この街は、英雄の伝説に溺れている。しかし三年前、ステルラ公、マリア=ウェルグローリア内親王、すなわち王族の決断によって、かの悲劇を目の当たりにした騎士たちは、もはや英雄を夢見ることはできない。それでも誉れ高き、誇り高き騎士として生きよなど、言えるはずもない……!」
蒼碧の目は、刺すようにダミアを見ている。その眼光に怯みそうになる心を握りつぶすように、ダミアは掌を固く閉じる。
「だがこの街にやってくる領主は、リヒャルトに代わる英雄を作り出そうとする。そうして領民たちも皆、英雄の幻想に惑う。癒えぬ傷を負わされた騎士たちの重荷など知りもしない……!だから、この街を騎士団に預けていただきたいのだ。国王陛下への忠誠は偽らない。これまで通り、領地は全力でお守りする。ただ、この街は騎士の街。騎士だけの街にして欲しい。せめて、騎士たちの傷が癒えるまでは――」
ダミアの言葉は、鈴樹の拳が机に振り落される音で打ち切られた。エクトルの指が微かに反応する。なにが引き金になるかわからない緊迫感の中で、鈴樹はゆっくりと立ち上がる。
「マリア公の決断によって、と言ったな?ではタグヒューム出兵は、マリア公の独断だったと君は言うのか」
「それは……」ダミアは言いかけて、口をつぐんだ。
彼自身がよくわかっていた。止める機会は確かにあった。少なくとも、彼には。しかし、タグヒュームへ行くことは、定められていたかのように抗う術がなかった。
「私の目を見ろ、ダミア=ガルシア!」
目を伏せるダミアに、鈴樹は怒鳴った。その声に、ダミアは反射的に顔を上げる。王者の目は、鋭く、憤り、彼をただの弱者にする。
ダミアは一歩、後ずさった。
――どうすれば、よかったのだ?
その問いを、誰もが抱えた。答えられる者はない。
それを、悲劇と呼ぶのだ。
「三年――、傷が癒えるに足りぬというなら、五年待てばいいのか。それとも十年か。騎士として誉れ高く、誇り高く生きたいと望む若い騎士たちが、君たちのすぐ後ろにいるとしても!」
ダミアは、押し黙る。
ステルラは、騎士団を抱える他のどの街よりも、見習い騎士の数が多い。騎士を夢見る子どもたちは、英雄の伝説への憧れを胸に、騎士の街へ集まってくるのだ。
――わかっている。
畏れ、震える手を、ダミアは握り締める。
五年、十年、もはや夢を見ることを許されない騎士たちのために、ステルラを、騎士の街を閉じてしまえば、悲劇を抱えたまま、ステルラは終わるだろう。リヒャルト=ウルブリヒトという、伝説から抜け出たような英雄によって、力強く、栄華を極めたステルラは、もう戻ることもなく、死を待つだけの老いた街になるだろう。
だが、ダミアには、どうしても認められない。
震える唇から、悲鳴のように、ダミアは叫んだ。
「……それでは、抗いようもなく悲劇を味わった騎士たちに、なんと言ってやればいいのだ!未来の騎士たちのために、未来のステルラのために、苦しみに耐え、その術もわからないのに、乗り越えよと!?代わりに傷を背負えるならそうしよう!だが、できないのだ!あまりにも、あまりにも、重すぎる――!」
エクトルは、初めてはっきりと、ダミア=ガルシアという男の声を聞いた気がした。今まで聞くことのなかった声。聞くことを、しなかった声。
クルトは、ダミアの姿から、目を離すことができずにいた。肩をいからせ、荒く息をしながら、どれほどか、彼には知ることもない時間、抱え続けた苦しみを、吐き出す姿――。
鈴樹は、静かに言った。
「それでも、このベジェトコルの、未来の騎士を育てることは、君たちにしかできまい。悲劇をなかったことにはできないのだから」
体中の力が抜けるのを、ダミアは感じた。膝から崩れ落ちたダミアを、ザウルが慌てて支えた。
「ガルシア様……!」
「……私は」
ダミアは、両の手で顔を覆う。
「私は……、私は……!」
――どうすれば、よかったのだ?
そうしてまた、同じ問いに行きつく。
「……くっ」
不意に、笑い声が漏れた。
「姫様!」
一瞬のうちに、閃光のようにひらめく白刃が、応戦したトビーの黒刀をはじいた。エクトルが剣の柄に手を置くよりも早く、次の一閃が、トビーの体を横薙ぎに切り捨てた。
「爺!」
「お姫さん!」
トビーは床に倒れ込み、エクトルが剣の柄をつかみ、刀身を鞘から抜こうとすると同時に、鈴樹の首元に、剣先がつきつけられる。
冷たく、凍る目で、シンは鈴樹を見ていた。
「……シン=ウィーラント……」
鈴樹は、確かめるようにその名を呼ぶ。目の前に立っているはずのその男は、虚ろな亡霊のようだ。青白い顔に、一筋、赤い線が浮かぶ。
「こんな幕切れは、つまらない……」
赤い舌を覗かせて、シンは細く、笑んだ。
「おれの結論はこうです、内親王殿下。騎士の街はもう戻らない。貴方を殺して、この街を終わらせる」
「終わらせる……?」
「もう、英雄はいない……」
その時、夜のステルラの街に、警鐘が鳴り響いた。
ナツとナコル、フレンの三人は、騎士館の外にいた。万が一、反逆軍の襲撃があったときのことを考えて、夜の警備は強化されていた。
夜の静寂に鳴り響く警鐘の音に、警備に出回っていた若い騎士や、見習いたちは騒然とする。遠くの見張り台から、危険を知らせる声が聞こえる。
「北の洞窟の魔物だ……!」
ナコルがつぶやいた。側にいた見習い騎士たちの表情が固まる。前線に立つことのない見習いでも、この三年の度重なる魔物の襲来に、その恐ろしさはよくわかっている。しかも、中心となる騎士たちの長が、そろって謹慎となっている。
見習いの一人が、一歩後ずさる。その足音に、ナコルは怒鳴った。
「下がるな!」
「で、でも、おれたち、魔物と戦うなんて……!」
「戦えなんて言わねえよ。でもお前らは見習いっつっても騎士だろうが!お前らがビビって逃げたら混乱をあおる!」
見習いたちは泣きそうになりながら顔を見合わせる。
「でも、じゃあ、おれたち、どうしたら……」
それまで黙って見張り台の方を見つめていたナツが、一つ、大きく深呼吸をした。くるりと見習いたちの方を振りかえり、そして、にぱっと笑った。
「おれたちの仕事はステルラを守ることっス!だから魔物が通れない狭い道を通って、お家を回るっス!外に出たり、窓に近づいたりしないで、できるだけ二階より上にいるようにって、言って回ってくださいっス!」
その横で、フレンが人差し指を左右に振りながら言った。
「魔物に出くわしたら、ビビらず焦らず近くの家にお邪魔しろよ?決まり文句は『魔物が近くにいます!でもおれたちがいるんで大丈夫です!』だな!」
「よーし、行ってこい!おれたちも戦うぞ!」
ナコルが大きく息を吸い込んで、剣を抜く。それに従って、フレンとナツも剣を抜く。
見習いたちは、口をヘの字に曲げて、うなずき合う。そして、三人の背に頭を下げて、家々に向かって走り出した。
「クルト!奥へ!」
一瞬の隙を狙ってエクトルが叫んだ。クルトは咄嗟に走り出し、鈴樹を抱えて王の間の奥、ベッドルームに駆け込んだ。
「なにをする!下ろせ!」
鈴樹が叫ぶ。シンがそちらに目を向けた瞬間、エクトルはシンに斬りかかる。その一閃をかわし、今度はシンがエクトルに剣を突き出す。エクトルは後ろに飛びのく。
「引く頭があるとは知らなかった」
嘲るように、シンは言った。
「場合によっちゃあそういうこともありますよ!」
エクトルはシンに向かって再び走り出す。
「結局向かってくるなら同じだろう!」
「――は!」
エクトルに向けて、払われた剣は空を舞った。エクトルは執務机に足をかけて跳びあがり、シンの横を抜き去った。
「力の差はわかってるんでね!」
そう叫んで、クルトの後に続いてベッドルームに入る。
「どういうつもりだ!エクトル!」鈴樹は叫ぶ。
「クルト、そこの本棚押せ!」エクトルは叫ぶ。
クルトは目を回しながら本棚を強く押した。やがて、ミシミシと音を立てて、地下に続く扉が開く。
「入れ!」
「はい!」
わけもわからないまま、クルトは鈴樹を抱えたまま階段を走り下りた。エクトルが続き、重い扉を、全身を使って押す。
「ぐ……!」
視界の端に、ベッドルームに入るシンの姿が映る。水色の目と、一瞬、目が合ったように感じた。その刹那、土埃を上げて扉が閉まる。
階段を下りた先で、クルトは扉が閉まる音に立ち止まった。そして振りかえった瞬間、猛烈な膝蹴りを喰らった。
「げっ……!」
クルトはうずくまり、ゲホゲホとむせかえる。
「下ろせと言っただろう、無礼者!」
鈴樹は叫んだ。そんなことを言われてもと、クルトは心底思ったが、うまく息が吸えず、反論も出来ない。
エクトルは、釈然としない思いで階段を下りた。
――笑ったような気がした。
黒い丘の処刑場で、シンに剣の柄を振り下ろされた首の付け根が微かに痛んだ。そこを撫ぜながら階段を降りきると、せき込みながらしゃがみ込むクルトと、肩で息をしている鈴樹が立っていた。
「……なにしてんスか」
エクトルが尋ねると、鈴樹は鋭くエクトルを睨んだ。
「なにをしているとはこっちの台詞だ!どういうつもりだ!爺が、瞳真が――」
堪えていた感情が溢れだしたように、鈴樹は叫んだ。蒼碧の目が、涙に滲んでいる。エクトルはため息をついて、鈴樹の顎を取り、顔を引き寄せた。
「あんたが言ったんだろ、迅さんがすると思うことをしろって。そんでこれもあんたが言った。迅さんがあんたを守るって言ったってな。悪いが、シンさんと戦っても勝ち目がない」
鈴樹は口を結んで、エクトルを睨み続けている。エクトルは目を眇めて笑って言った。
「あの警鐘は北の洞窟の魔物が出たってことだ。このまま尻尾巻いて逃げるなら、マーンカンパーナまでお送りしても構いませんよ?お姫サマ」
次の瞬間、エクトルの右頬に強烈な平手が見舞われた。
「いっ……、あんたなあ!」
よろめきながらエクトルが怒鳴る。鈴樹はうつむいて、目元をぬぐう。
「街に出る。案内しろ」
エクトルは頬を押さえたまま、口をぱくぱくとさせる。お腹を押さえたまま涙目になっているクルトに、鈴樹は手を差し出した。
「……悪かった。大丈夫か」
クルトはまた縮み上がり、目をぐるぐると回し、鈴樹の手を借りずにすっくと立ち上がり、立ち上がったと同時によろめいた。
「あ、だ、大丈夫です」
鈴樹はエクトルを見る。その顔に、エクトルはまたため息をついた。
「ハイハイ、案内します。北の洞窟の魔物、めちゃめちゃ怖いけどいーんスね」
鈴樹は返事をすることなく、背中を向けた。




