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白い花の歌  作者: タク
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第八話

 ――透き通るような声で、母が語った物語を覚えている。

 それは英雄の物語。

 騎士としての魂を尽くし、生きた男の物語。

 主がただの屍になったとしても、それを守り抜こうとする。

 その忠義心は、どこから生まれたのだろう?

 そんなふうに生きたかった。

 きっと、そうだったのだ。

 最初は母だった。

 勝気で、明るい人だったけれど、どこか寂しく、儚い人。

 母を守ると誓った。

 そう――。

 最初は母だった。

 母は死んだ。

 最初に失くしたのは、母だった――。



 夜、瞳真はその扉の前にいた。そうして、扉の前でしばらくの間考えていた。三年間の空白の時間のこと。それよりも前のこと。冷たい目でにらみ合い、つかみ合う二人のこと。やがて、彼の前で、小突きあいながら笑っていた二人のこと。そして、ステルラを去った日のこと。

 それ以外に、どうすればよかったのかなど、わからない。どうしようもなかったのだ。今、この時に悔やんでいるとしても。

 エクトルがやってきてから、瞳真の仕事は少しだけ楽になった。時間が空くたびに、思わずにはいられなかった。

 そこにいるのは瞳真だけだ。見張りに立っていた見習い騎士には、外してもらっていた。瞳真は、一つ、深呼吸をして、扉を叩いた。

「――どうぞ」

 くぐもった返事が聞こえる。そっと、扉を開く。

 シンは、椅子の背に沈み込み、ゆっくりとこちらを向いた。眠っていたのか、ぼんやりとした目で、二、三度ゆるやかに瞬きをすると、ふと、笑んだ。

「――ああ」

 その笑みに、瞳真は眉を寄せる。シンは言った。

「いらっしゃい、隊長」

 瞳真はシンの顔を見た。その笑みには、変わらず温度がない。

「……おれはもう隊長じゃない」

 瞳真は言った。シンは、言っている意味がわからないとでもいうように、首を傾げる。

 そして、のろりと立ち上がると、両手で顔を撫ぜて、ため息をついた。

「なにか、飲みますか?酒しかないんですけど」

「……話をしに来たんだ」

「へえ……」

 シンは、瞳真に背を向けて、ベッドのそばのチェストに向かう。その上には、いくつかの酒瓶と、銀色のグラスが置かれている。シンは、ワインをグラスに注いで、それを一気に飲み干した。

「椅子、どうぞ?」

 そう言って、シンはベッドに腰掛けた。

 石造りの部屋は、蝋燭の朱い光で灯されていた。雨戸が空いていて、冷たい風が入ってくる。窓の前には小さなテーブルがあり、その側に、ベッドと向き合うようにして椅子が置かれていた。

「……ここでいい」

 シンは、ベッドの背もたれに肘をついて、まどろむような目で瞳真を見ている。

「へえ……なんだか怖いですねえ。昔の記憶がよみがえって」

「俺がお前を呼びだしたときのことか?」

 瞳真が尋ねると、シンはにっこりと笑った。

「呼び出されて、瞳真さんの部屋に行くまでにね。なんだか難しいことをいろいろ考えてました。なんでしょうね。子どもって、とにかく難しい言葉を並べて言い訳すれば、それが正当な理由になる気がしてる。でも、部屋に入ってあなたと向き合ったら、なんにも思い浮かばなくなっちゃったんですよねえ」

「……おれは、そんなに怖かったか?」

 シンは、両手で目の端を引っ張ってみせる。瞳真が顔をしかめると、その手をそのまま「降参」という形で開いて、またベッドの背に肘をつく。

 懐かしさがこみ上げる。こういうやりとりを、何度もした。しかし今、それはまるで、疲れた舞台のようだ。

瞳真はうつむく。閉じられた拳に力が入る。やがてもう一度シンのほうを向く。シンは、ふ、と小さく笑った。

「メルウィル卿を襲った犯人のことだ」

「ああ……」

「ずっと思っていた……。反逆軍のしたことだとすると、なぜステルラ公ではなく、メルウィル卿だったのかと」

「ステルラの統治は、実際問題、ステルラ公ではなくメルウィル伯によって支えられていましたからね。まあそうなると、それを知る者のしたことだということにもなりますが」

 抑揚のない、乾いた声だった。シンは、退屈そうに目を伏せる。

「ステルラ公は、王妃の甥だ……。それだけで、反逆軍が襲う意味はある」

「ステルラの混乱を目的にしているとしたら?」

「そうだとすれば、本当の目的はその後にあるんだろう……。だが、鈴樹の着任が西の嵐の影響で遅れたにも関わらず、なんの動きもなかった」

 瞳真は、ルドビルの街で出会ったランクの話を、シンにはしなかった。雷羅の忠臣であり、今も反逆軍の一員であるその男は、「反逆軍はしばらく地下に潜る」と、そう言った。シンはランクを知っている。出会ったのは、タグヒュームだ。

「なるほど……。そうすると、反逆軍にはメルウィル伯を襲う理由はないと、そういうことになりますね」

 シンは、小さく笑んだ。しかし、薄い色の睫毛の下で、ガラス玉のような目は虚ろなままだ。

「じゃあ、誰がメルウィル伯を襲ったんでしょう?」

 シンが問う。その明るい、乾いた声に、瞳真は歯を食いしばる。腹の底からこみ上げる、怒りとも悲しみともつかない感情に、吐きそうになる。

「メルウィル卿が襲われ、事態がどう動いたか……」

 かすれた声で、瞳真は言った。シンは、眉を下げて、困ったように笑った。

「そうですね。よそ者に怪しい者はいない、では内部はどうか。しかし騎士団ではない。街の者を取り調べよ、と」

「そうだ……。街の人々は追い詰められ、そして、迅の処刑を見せしめとすることで事態の収束を図った……!メルウィル卿が襲われたことは、迅の処刑とつながるんだ……!」

「ええ、それで?」

 蝋燭の炎が、揺れた。震える声で、瞳真はやっと、言った。

「……メルウィル卿を襲ったのは、お前か?シン……!」

 ほんの一瞬、その顔から、笑みが消えた。しかしまた、シンは笑う。冷たく、歪に。

「ええ、そうです」

 黒い丘で再会したとき、それは形のない、直感のようなものでしかなかった。それが少しずつ形となって、確信に近づいていくのを、瞳真は心臓を握りつぶされるような思いで感じていた。

「一応……、どう転ぶかはわからない部分もあったんですよ?もし、よそ者が犯人ではないとなったときに、騎士団の内部に目が向けられたなら、そこで名乗り出るつもりだったんですけどね」

 シンは、ゆっくりと立ち上がり、瞳真と向き合った。虚ろな目に、奇妙な陰がうつろう。

「なんのために……?」

 瞳真は聞いた。シンは、人形のようにガクンと首を傾げる。

「迅を殺すためですよ?そうでしょう」

 シンはもう笑っていない。冷たく、色を失くしたその顔は、これまで見たことのないものだった。

「殺したいと思うほど迅を憎んでいたのか?お前が……?」

「さあ……」

 シンは一歩、足を進めた。思わず、瞳真は後ずさり、扉にぶつかった。眼前にいる彼が、自分の知らない者であるように思える。

「ダミアに、引きずられたのか?」

 瞳真は尋ねた。シンはまた、首を傾げる。

「さあ、どうだったか……。でも、隊長、あの人は、迅を殺したいほど憎んだとしても、そのために誰かを斬りつけるほど狂ってはいない。もしあの人がタグヒュームに行っていたとしたら、たぶん斬りつけたのは自分で、今頃この世にはいないでしょうね」

 ゆっくりと、シンは瞳真に近づく。

 ――辿り、着けない。

 瞳真は、そう思った。空白の三年間。その間に、シンが辿り着いたところはどこだったのか。瞳真は、苦々しく笑んだ。

「お前が、もともと狂っていたような言い草だ……」

「そうじゃないと思います?」

 いよいよ、シンは瞳真の目の前までやって来た。ガラス玉のような目に移る自分の顔に、瞳真は歯を食いしばった。

「さあな。少なくとも、八年前のお前に、そう思ったことはない」

 一瞬、幼い、子どものような顔をした。やがて、泣きそうに、シンは笑った。

 次の瞬間、瞳真の体に激痛が走った。ベルトの背から抜かれた短剣は、深く、根元まで瞳真の腹部を貫いた。

「……う……っ」

 床に、ポツポツと赤い点が落ちる。体の力が抜ける。脱力する瞳真の体を、シンが受け止める。

「あいつは英雄の孫なんかじゃない……。そうでしょう……?」

 耳元で、シンは言った。

「……シ、ン……?」

 その言葉の意味を問おうとした瞬間、瞳真の体から短剣が引き抜かれた。部屋に血しぶきが舞う。瞳真はしばらくの間、シンにすがるようにして立っていた。シンは、迷い果て、泣き疲れた、幼い子どものような顔で、瞳真を見ていた。荒く息を吐き出すのがやっとで、言葉が出てこない。

「……シ、……っ」

 やがて、瞳真は膝をつき、床に倒れた。赤い染みが、石畳に広がっていく。シンは、それをじっと見ていた。荒い息が細くなり、部屋が静寂に包まれると、ぽつりと、零すように、シンは言った。

「……ああ……」

 その声を、遠くなる意識の中で、瞳真は聞いた。

「もう、どこへもかえれない……」


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