第七話
王の間を出たエクトルは、がっくりとうなだれていた。そのつむじを眺めながら、瞳真は言う。
「お前、完敗だな?」
「……情けねえ……」
「安心しろ。情けないのは今朝からずっとだ」
「……は~……」
深い深いため息をついて、首の後ろを掻きながら、エクトルは顔を上げた。
眉を寄せながら、目を伏せたその顔は、それでも随分とさっぱりしている。
瞳真はエクトルをまじまじと見て、言った。
「……エクトル」
「なんスか」
「斬りつけたのは、マリノか?」
エクトルは瞳真を一瞥し、目を伏せて、複雑そうに、小さく笑った。
「……おれ、寂しかったんですよ。たぶん」
「寂しかった?」
三年前、エクトルとマリノの間には、見えない壁のようなものができた。
タグヒュームをその目で見たエクトルと、見なかったマリノ。物言いたげにエクトルを見つめ、しかしなにも言えずに、うつむいて去っていく後ろ姿ばかりを、エクトルは思い出す。
「だっておれたち、気遣うような仲じゃなかったんですよ?それが急に、変に気遣われて、妙にイライラして、それで『お前になにがわかるんだよ!』なんて、ガキくせえ……」
「……後悔してるか?」
「してないように見えます?」
「さあ……、お前はすぐ意地を張るから」
エクトルは鼻で笑う。
「あんたには言われたくない」
王の間から伸びる、真っ直ぐと長い廊下を、エクトルは眺めた。薄暗い廊下の突き当たりに、小さな窓がある。薄緑の若葉は、オレンジ色に照らされて、風に揺られる。外から、夜を迎える準備を始める騎士たちの声が、遠く聞こえた。
「わかってますよ。おれのは本当に八つ当たりで、マリノはおれを大事にしようとしたんだ。後悔してますよ。バカだったと思ってる。でも、本当に情けなくていやになるけど……」
エクトルは額を押さえて、唇を噛んだ。
「マリノに怒鳴られて、ようやく、終わった気がしたんだ――」
三年前、マリノはエクトルを怒らなかった。理不尽に怒鳴られ、斬りつけられ、マリノが言ったのは、「ごめん」という一言だけだった。苦い悔恨を抱えたまま、三年が過ぎた。小さな言い合いはあっても、マリノがあれほどはっきりとエクトルに怒りをぶつけたのは、タグヒュームから、初めてのことだった。
「……情けないのは、たぶんおれも同じだな……」
瞳真はぼそりとつぶやいた。
「……なんスか、それ」
「理屈じゃなく、感情をぶつけられて目が覚めちゃったってことだよ」
ベルトの小袋から煙草を取り出して咥えると、エクトルに背を向けて、瞳真は廊下を歩き始めた。追いかけるように、エクトルが言った。
「でも、シンさんは違いますよ」
瞳真は足を止める。自分がどんな顔をしているのかがわかって、振り向けない。
「ずっと、なに考えてるかわからない人だったけど、言ったんですよ、黒い丘の処刑場で。『お前は生かせない』って……」
瞳真は、煙草に火を点けようとする。慣れた作業であるのに、なかなかうまくいかない。また、それが、シンと重なるものだということが頭をよぎって、ますます苦々しい思いがした。
「本心であるように、おれには聞こえた。あの人は、きっともう……」
「エクトル」
その先に続く言葉を、瞳真は遮った。ようやく火のついた煙草をふかして、瞳真は振りかえった。
「ちゃんと、働けよ」
そう言うのもやっとで、瞳真はその場を後にした。
――また、夜がくる。
迅さんはまだ目覚めない。マリノさんも疲れてしまったのだろう。椅子に腰かけたまま、眠ってしまっている。起こさないように毛織をかけて、僕は医院を出た。
「……満月だ」
空を仰いで、つぶやいた。丸い、銀色の月。雲一つない空に、星が光る。
夜の道を、僕は歩いた。こうして歩いていると、どこかとんでもないところに辿り着いてしまうような、一方で、どこにも辿り着けないような、そんな不思議な感覚があった。
僕はどこに行くのだろう。
どこに行けばいいのだろう。
僕は、唇を噛む。もどかしくて、もどかしくて、叫んでしまいたい。
「――また迷子かい?神官くん」
それは、体をすり抜けて、夜に溶けていくような声だった。
振り向くと、いつからそこにいたのだろう、牧場の柵に腰掛けて、その人は僕を見ていた。すぐ側を通ったはずなのに、空を見上げて歩いていたせいか、気が付かなかった。
紫色の細い髪が、風になびいて暗闇に混じる。そして、一瞬で引きこまれ、逸らせない、黒曜石の瞳――。
「妖、世……さん?」
おぼろげに、鈴樹がそう呼んでいたことを思い出す。一年前、マーンカンパーナの廃墟の中で。あのときもそうだった。不意に背後に現れた彼の目に、僕は一瞬、目を奪われた。
「名前を憶えてくれているとは意外だなあ」
ほほ笑んで、彼は言う。
「どうしてここに……?」
「さて、ちょっとした散歩だよ。夜の散歩が好きなんだ。昼はなにかとうるさいからね」
僕は、少し困ってしまう。夜の散歩が好きであるにしても、マーンカンパーナからはずいぶん離れている。一度出ていくと、もとの場所に帰るまでに常人の数倍は時間がかかる僕でも、それぐらいはわかる。
「そんなに僕がここにいることが不思議かい?君は結構な目立つことをしたと思うのだけれど」
「目立つ……?」
自分の行動を振りかえって、はっとする。黒い丘の処刑場で、神輝石の力を使って僕がしたこと――。
「見事な光の柱だったなあ……」
「す、すいません……」
「なぜ謝るのかな?」
「だって、それでここにいらしたんでしょう?」
「やだな。散歩だよ。散歩ついでに光の柱の正体をつきとめようと思っただけさ」
僕はまた少し困ってしまう。この人がどういう立場なのかは知らないが、国政に関わる人であるなら、なにかしらの苦情があってもよさそうなものだ。不意に空に昇った金色の光。見た者がどう思うかは想像に難くない。三年前の悲劇を引きずっているこの国の人ならばなおさらだ。
「それで君は、また迷子なの?」
妖世さんは、にっこりと笑って言う。そういえば、マーンカンパーナでは結局、この人が僕を宿に送り届けてくれたのだった。
「あ、いえ、まだ……、来た道を戻れば、一本道ですから」
「へえ……」
妖世さんは、僕が歩いてきた道をちらりと見て、そうして言った。
「それで、行きたいところに行けるのかな?」
僕は思わず固まってしまった。
妖世さんは、笑っている。黒曜石の目が、見透かすように僕を見ている。
行きたいところは、どこだろう。
どこへ行けばいいんだろう。
コルファスを出たとき、僕はどこにも行く場所を定めなかった。
ただ歩き出して、それだけだったのに。
「迷子というのはね、神官くん」
結んだ唇が、震える。妖世さんは慈愛に満ちた顔で、僕を見つめていた。
「目的地があるから迷うのだよ。つまり君は今、どこかに行きたいのさ」
どこかに……。
首から提げたペンダントの青銀の光が、月の光を吸いとったようにゆらめく。
服の上からそれを押さえて、僕はうつむく。
「……僕は――」
一年前、マーンカンパーナで、また会おうと、約束した。
そんなこと、初めてだったんだ。
コルファスにあるものだけが僕の世界で、そこに訪れる人は、訪れて、そして去っていく人ばかりだ。
僕の世界は変わらなかった。ずっと、あのときまで。
「僕は……」
そして、ステルラで、再会した。
彼女は笑った。僕のことを、覚えていた。
また、約束をした。
スタウィアノクトに行く。彼女と一緒に。
「僕は……!」
――もう、わかっているんだ。
僕の望み。僕が行きたい場所。
ルドビルの宿で、彼女の望みを聞いたときから。
彼女が僕に伸ばした手を、とったときから。
「口に、出せない?」
妖世さんが言う。裾の長い服が、するりと暗闇を滑る。彼は柵の上から降りると、ゆっくりと近づいてくる。足音はしない。
「口に出せない理由はわからなくもないよ。君は悔やんでいるんだろう。シン=ウィーラントを見抜けなかったこと……」
ぼんやりと暗闇の中に白い手が浮かぶ。それは僕の髪を一束手に取って、そっと撫ぜる。
シンさんを見抜けなかった。それは、安易な期待だった。三年前の悲劇を知る人には、誰の背にも、それが重くのしかかっている。知らなかったわけじゃない。教会に佇む瞳真さんの後ろ姿を、忘れていたわけじゃない。
それでも、……それなのに。
――いつになったらわかるんだろう。
優しい記憶に、明るい記憶に、僕はすぐすがってしまう。悲しい記憶に、苦しい記憶にこそ、足を引かれて戻れないことを、知っているのに。
「でも、君がシン=ウィーラントを見抜けたとしても、おそらく結果は変わらない。迅=ウルブリヒトを断ち切ることは、彼の望みなのだよ」
その言葉に、僕は凍りついた。
――望み?
「生かせない」と、そう言った。そうして剣を振り下ろしたあの一瞬が、シンさんの、望み――。
「迅さんを殺すことを、シンさんが、望んでた……?」
自分の呼吸が、乱れていくのがわかる。目の奥が熱い。
妖世さんは、困ったように眉を下げた。
「そんな泣きそうな顔をしないでほしいな。これはね、例えばこうなったら楽しいなあとか、嬉しいなあとか、そういう類の望みとは別物だよ」
黒い、黒い瞳をすうっと細めて、彼は笑う。それは、それまでとは全く違う、冷たい、笑みだった。
「――君の心の内に、押し隠された昏い、望みのような、ね」
僕は目を見開く。僕の髪を取った手が、離れる。青ざめた僕の顔を、満足そうに眺めて、妖世さんは僕の横を通り過ぎる。
「どう、して……?」
そう言うのが、やっとだった。体が固まって、動けない。誰にも、華月にも、言わなかった。目的のない僕の旅の、行きつく先――。
「『どうして?』」
妖世さんは僕の問いを繰り返し、そして笑う。
「それは僕が何者であるのかという問いと同じくらい意味がない。夜がくることを、あるいは朝がくることを、どれだけ問おうが、結果は変わらないのと同じさ。君の望みを僕が知っていようが、なにも意味はないよ。僕はただ通り過ぎるだけのものだ。シン=ウィーラントにとって、君がそうであったのと同じように」
その声は、冷たい夜と同化して流れていく。僕は、空を仰ぐその人の背中を見ていた。夜の中に佇むその姿が、何百年も、何千年も生きた怪物のように思えた。でも、不思議と恐ろしさは感じない。
――既視感……?
同じ感覚を、前にも感じたことがある。それがいつだったのか、思い出せないけれど。
僕は、妖世さんの後について、ゆっくりと歩いた。
「……シンさんにとっての、迅さんも、そうだっていうんですか……?」
「まさか!迅=ウルブリヒトこそ彼の望みの内にある。それが彼を断ち切ろうとする所以なのだよ」
少し、考えた。僕がコルファスを出たことは、あるいは断ち切ろうとすることだったのかもしれない。
――誰を?
――華月を。
ただ一人、この世界で、「僕」を知る人を。
「だけどね、神官くん」
ひらりと舞うように、妖世さんは振りかえった。そうして、両手で僕の頬をつかんで、言った。
「君の旅は終わったのだよ。君は望みを得た。その心が向かうままに、望むままに、旅の終わりに、君は帰らなくては」
そう、優しく笑う黒曜石の向こうに、銀色の月が見えた。
「旅の、終わり……?」
僕は問い返す。
「そうだよ」
妖世さんは穏やかに言った。
旅の終わり。帰りたい場所。約束をした。じりじりと痛み続ける心臓を癒すように、青銀の光が、温かい。
――ああ。誰にも言わなかった、昏い、ただ一つの、僕の望み。それはもう、叶わない。
「……帰りたい」
頬を、涙が伝う。
「そうだね」
妖世さんは笑う。
「……鈴樹のところに、帰りたい……!」
それが、僕の新しい望み。涙は次から次へとこぼれる。悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、満たされているのか、なんの涙か、わからない。ただ感情があふれ出て、止まらない。
――でも、ただ彼女のそばにいるのは嫌だ。泣いている彼女の手を、とることしかできないなんて嫌だ。泣かないでいてほしい。笑っていてほしい。
「どうしたら、いいんですか……!」
妖世さんの胸元をつかんで、叫ぶように、僕は言った。
「悲劇を、終わらせたい……!」
時間が傷を癒すなんて、嘘だ。痛みを隠すことに、慣れるだけだ。
僕になにができるかなんて、考えるのはもう嫌だ。できることだけを選んだって、もう、どこにも辿り着けない。
「……そうだね」
小さく、妖世さんが言った。
「起こったことを失くすことはできないけれど、この夜に思うなら」
そうして、空を仰ぐ。銀の光が、青白いその横顔を、うっすらと照らしている。
「――滅びの時を恐れるな。また生まれ出づるのだ――」
妖世さんは僕の顔を見下ろして、ゆるやかに笑う。青銀のペンダントの裏に刻み込まれた文字。夜の世界に佇む神、「死と再生」を司る、ルニスピアの言葉。
「『死と再生』が意味するものはただ新しく生まれ変わることではないのだよ。より強く、しなやかに、一つの死を呑みこんで、再び生まれる。そういうことさ」
―― 一つの死を呑みこんで、より強く、しなやかに。
僕は繰り返す。いつの間にか、涙は止まっていた。




