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白い花の歌  作者: タク
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第五話

 どんなに長い、長い夜でも、夜明けはくる。

 あの一瞬を思い出すのが怖くて、目を閉じることができなくて、眠りが訪れない夜にも。地平線に青白い光の筋が横たわって、でも見上げる空はまだ、透き通るように深く、暗い。

 僕は、マルクさんの家を出て、医院に向かった。

 真っ白いベッドに、迅さんは横たわって、頼りなく呼吸をしている。顔は青白く、閉じられたまぶたに、あの力強い、とび色の光は、気配を失くしている。

 しばらくの間、僕は迅さんのベッドの横に立ち尽くしていた。不意に、小さな物音がして、入口の方を見やると、マリノさんが立っていた。明け方の薄闇が、彼の目の下の影を、いっそう濃くする。疲れ切った顔で、マリノさんはほほ笑んだ。

「神官さん、ひどい顔してるよ」

 そう言って、彼は後頭部を掻きながら病室に入ると、ベッドの際に腰掛けた。

「なんてな……、お前こそって思ったでしょ?」

 マリノさんはため息をついて、肩を落とす。ほとんど無意識に、僕はこぼした。

「……なんでこんなことに、なったんでしょうね」

 問いかけにもなっていないようなつぶやきに、マリノさんは小さく反応した。しばらく返事はなかったが、やがて、ため息交じりにほんの少し笑って、言った。

「さあねえ。でもおれは、なんだかこんな日が来るんじゃないかって思ってたよ。迅さんって人は、きっと、嵐みたいにあっという間に、でっかい傷跡だけ残して、いなくなるような気がしてた」

 それは、明るい声だった。でも、喉の奥が震えていて、無理をしているのがわかる。彼は顔を上げて、僕の顔をちらりと見た。僕はマリノさんの言葉を、どう理解していいのかわからなくて、うつむくしかない。

「おれたちはさ、戦いに出ればいつ死んでもおかしくないし、自分が死ぬとか、仲間が死ぬとか、そういうことは普通に、『ある』もんだと思ってるからさ」

 その言葉が、全く違う世界に生きる僕を傷付けるかもしれないと、マリノさんは危惧しているようだった。彼の表情からは、僕を気遣う様子が見てとれた。

「でもさ、例えばおれは、自分が死ぬとしたらさ、きっといろんなことを考える。ああしとけばよかったとか、伝えたかったこととか、ああ、あいつらおれがいなくて大丈夫かなとか、そういうこと……」

 無理に笑顔を形作った唇の端が、震える。目が赤く、うるんでいって、マリノさんは、うつむいた。

「だけど、団長は、そんなふうには思わないんだよな……」

 小さく震える体を抑えるように、マリノさんは片方の腕を強く握った。僕は、そうして背中を丸めるマリノさんの側で、静かに目を閉じている迅さんを見た。繰り返し、僕の頭に浮かぶのは、迷いのない、とび色の瞳。朝焼けの空に飛び込んでいく、恐れを知らない背中だ。

「迅さんを尊敬してる……。この人の芯の強さが、支えだったんだ。でも、だからさ、だからずっと、ずっと思ってた。ずっと怖かった。こんなことになるんじゃないかって、そう思ってたから、頼むからやめてくれ、頼むからもっと、あんたがいなくなったらどうなるか、考えてくれって、ずっと、そう思ってた……」

 ぽつぽつと、小さな滴が、マリノさんの腕に落ちる。僕が、まだ彼を関わりの薄い、別の世界に生きてきた人間だったからこそ、言えたのかもしれない。震える声で、彼は言った。

「これから、どうすりゃあいいんだろう……」

 窓の向こうは、もう明るくなっている。かすかに、馬のいななく声が聞こえた気がした。

 次の瞬間、乱暴な物音を立てて、エクトルさんが廊下から顔をのぞかせた。マリノさんは、慌てて涙を拭いながらそちらを見やる。

「瞳真さんだ」

 エクトルさんは、目を赤くしたマリノさんの顔を一瞥して、一瞬表情を険しくしたが、そのまま何も言わずに出ていった。マリノさんは、額に手を当てて鼻をすすり、一つ深呼吸をして立ち上がり、その後に続く。

 僕は、二人の後ろ姿を見送ってから、もう一度、迅さんの顔を見た。

 一体、なにを願えばいいのか、祈ればいいのか、なにも浮かんではこない。

 でも、この人がこのまま死んでしまったら……、そう思った瞬間、心臓が握り締められるように痛んだ。僕は一度、固く目を閉じて、そうしてから、二人の後を追った。




 僕が出ていくと、瞳真さんは、安堵したように小さくほほ笑んだ。いろいろと尋ねたいことがあるように思えたが、整理がつかず、側に駆け寄ることはできないまま、遠巻きに立ちすくんでしまった。

「おれを連れ戻しに来たんですね」

 エクトルさんが言った。黒い丘の処刑場で出会ったときとは、随分と様子が違う。敵意すら思わせる、険しい声だ。

「そういうことだ……。迅の反逆について、お前がどう思っているのか、聞きたいそうだ」

「おれがどう思ってるかって、聞かなくてもあんたにはわかってるんじゃないですか?」

「結論だけではどうにもならん。迅を反逆者とする者と、そうでないとする者とで、多数決でもとるか?」

 エクトルさんは、瞳真さんを睨んだまま、応答をしない。マリノさんは、瞳真さんとエクトルさんの顔を行ったり来たり見ていたが、たまりかねたように言った。

「じゃあ、おれも戻ります」

 その声に、瞳真さんの視線がマリノさんに移りきるよりも早く、エクトルさんは冷たく言った。

「お前は残れ」

 マリノさんは、目を見開いてエクトルさんを見た。瞳真さんは、エクトルさんの発言に一瞬驚いたようだったが、特に口を挟むことなく、二人の様子を見守っている。

「残れって、どういうことだよ……?」

 マリノさんは、振り絞るようにして言った。その声の震えは、先ほどとは異なるものだ。

「話すのはおれだけで十分だ。お前はここで、迅さんを見てろ」

「見てろって、そんなのおれじゃなくたってできるだろ!」

「……おれは、内親王を信用してない」

 唐突に矛先を向けられて、瞳真さんは肩をすくめた。

「おれが話して、それでも迅さんを反逆者だっていうなら、お前はここから、迅さんを連れて逃げろ」

 エクトルさんは、瞳真さんをずっと睨みつけている。マリノさんの方を見ないのだ。瞳真さんは、呆れたようにエクトルさんを眺めていたが、やはりなにも言わず、黙っている。

 マリノさんの背中が強張って、握り締められた拳が震えている。

「……ざけんな、ふざけんな!ふざけんな!」

 マリノさんは叫んだ。そこで初めて、面倒そうに、エクトルさんはマリノさんの方を見た。

「迅さんが反逆者だってことになれば、おれもお前も同じだ!なにが逃げろだよ!今の迅さんを連れてどこに行けるって言うんだ!」

「わあっかんねえだろ?もしかしたらもうすぐ目が覚めるかも?」

 マリノさんの憤りをあしらうように、エクトルさんはケロリと言った。でもそれは、マリノさんの怒りを倍増させることにしかならない。そして次には、笑顔を浮かべて、エクトルさんはマリノさんの肩を叩く。

「まあまあ、安心しろって。内親王が信用に足るお人だってことがわかれば、それで解決、なにも問題なしだ。おれだって別に、一から十まで疑ってるわけじゃねえよ?ただ念のためにっつーか……」

 次の瞬間、マリノさんは、エクトルさんの手を振り払った。一瞬、空に浮いた手を、ゆっくりと戻してから、エクトルさんは、ひどく冷たい顔で、マリノさんを睨む。

「……なんだよ」

「正直に、言えよ……!」

「なにをだよ?」

 次の瞬間、マリノさんはエクトルさんの襟首をつかんだ。二人の間に立っていた瞳真さんが、一歩後ずさる。エクトルさんは一瞬驚いたようだったが、また、鋭い目でマリノさんをねめつける。

「……離せ、ぶっ飛ばすぞ」

「……そうしろよ」

「ああ?」

「そうしろっつってんだ!三年前にやったみたいにそうしろよ!お前は結局、なにも変わっちゃいないんだから!お前と迅さんだけが特別なんだろ!おれはタグヒュームに行かなかったから!」

 その言葉に、エクトルさんは意表をつかれたようだった。そして、なぜか、彼の目線は不自然にマリノさんの左腕の辺りに向かう。

「そんなこと言ってねえだろ!」

「迅さんを逃がしたいならお前が残れよ!どこへでも行っちまえ!どうせおれにはなにもわからないって言うんだろ!切り捨てて、振りかえりもしないで消えちまえ!クソ喰らえ!」

 一息に言いきって、エクトルさんを突き飛ばし、マリノさんは医院に戻っていった。エクトルさんは、尻もちをついたまま呆然としている。腕を組んで、悠然とエクトルさんを見下ろす瞳真さんが、言った。

「クソ喰らえだと」

 苦虫をかみつぶしたような顔で、エクトルさんは瞳真さんを見上げる。

「仕方ねえだろ!実際もう、あいついっぱいいっぱいになってんじゃねえか!だいたいなんだよ、あんたも!今更戻ってきやがって!」

 エクトルさんが瞳真さんを睨みつけていた理由はどうやらそれらしい。

「戻ってきてほしかったんならそう言えよ」瞳真さんは事もなげに言う。

「はあ!?」

「エクトル」

「なんだよ!」

「マリノの限界を、お前が決めるな」

「なんだよそれ!」

「お前に見えるもんも、たかが知れてるってことだ。クソ喰らえ」

「~~っああ!」

 エクトルさんは、がしがしと頭を掻くと、医院へと向かった。

「……クソガキめ」

 ぼそりとつぶやいた瞳真さんの低い声に、僕は恐る恐る彼の様子を窺う。僕の視線に気付くと、瞳真さんは、眉を下げて笑った。

 僕には、マリノさんとエクトルさんのやりとりの意味はよくわからない。でも、やはり「タグヒューム」なのだ。三年という時間が過ぎても、悲劇はまだ、終わっていないのだ――。

「優祈くん?」

 瞳真さんは、両手を広げてポーズをとって見せる。僕は首を傾げる。

「おれは、鈴樹の使者としてここに立っているのだけど」

 そう言われて、僕は初めて瞳真さんの服装をまじまじと見た。かっちりとした仕立ての服で、襟や袖に、繊細な装飾が施されている。滑らかな生地の黒のマントは、瞳真さんの肩から足元にかけて、するりと落ちている。

 僕は、瞳真さんの顔を改めて見た。

「……鈴樹に、会ったんですか……?」

 瞳真さんは、ずっと困ったように眉を下げて笑っている。

「国王陛下のご命令でね。君には悪いと思ったけれど、一足先にスタウィアノクトにも行ってきた。ひどい嵐だったけど……、鈴樹らしい、力強い、美しい街だった」

 僕は、どんな顔をしていいのかわからなくて、まごまごと問いかける。

「鈴樹、きっと、驚いたんでしょう……?」

「そうだね。驚かせてしまったようだった。そして怒られたよ。マロリー卿が、なんだか楽しげにしていたな」

「マロリーさん……」

 ずっと、ずっと前のことのようだ。穏やかそうに見えて、体中に武器を隠しもつ食えない老人。別れ際に、「鈴樹を頼む」と、しっかりと握られたしわだらけの手の感触、ぎらぎらと光っていた、恐ろしい目。

「これを、君に渡すように預かってきた」

 瞳真さんは、懐から光沢のある濃紺の生地で作られた小袋を取り出した。差し出されたその中から、なにかひどく懐かしい、温かい気配がして、なぜだか僕は戸惑った。瞳真さんの顔をちらりと見ると、彼は眉を下げてほほ笑んだ。

 おずおずと、僕は小袋を受け取り、口を結ぶ紐をほどく。

 出てきたのは、ペンダントだ。幾重にも円を描く、金色の細い細工の中心に、青銀の石が埋め込まれている。

「――神輝石……」

 そうつぶやくと、瞳真さんも僕の手の平を覗き込む。

「神輝石?へえ……そんな色の神輝石もあるんだね」

「……ルニスピアの神輝石です。滅多に、見られない……」

 そっと、よく磨かれた青銀の石の肌に指を滑らせる。透き通った石の向こうに、刻まれた文字があった。それは、神話の一節だ。

 ――「滅びのときを恐れるな、また生まれづるのだ」

 夜の世界に佇むという、死と再生を司る神の石。

 教会のリナムクロスや、バクルスに埋め込まれた昼の世界の神、マグニソルの石が放つ金色の光が、僕にはずっとひどくまぶしくて、きしむように、体が痛んだ。

 青銀の光は、その痛みに、そっと手を当てるようだ。冷たい石の表面に指を置くと、じんわりと温かくなってくる。柔らかく揺らめく、月の光。

「よくわからないけど、鈴樹がスタウィアノクトの領主となったときに、授かったものらしいよ」

「……ルニスピアの祭壇があるって、言ってました」

「……そうらしいね」

「見せてくれるって、一緒に、スタウィアノクトに、連れて行ってくれるって、約束……」

「……ああ」

 目の奥が熱くて、たまらない。約束をしたとき、鈴樹は笑っていた。からからと、見惚れるような、笑顔だった……。

「……ふ」

 ペンダントを握りしめて、それを額に当てて、僕は泣いた。シンさんの、凍りつくような、あの笑顔を見てから、ずっと、悲しくて、怖くて、心細かった……。瞳真さんはそっと、僕の頭を引き寄せて、肩を貸してくれた。

「ごめん、こんなことになってしまって……」

 瞳真さんはそう言った。

 僕は、鈴樹の望みを叶えたかった。彼女が喜ぶところを見たかった。それはきっと叶ったはずだ。瞳真さんはこうしてここにいる。

 でも、どうしてだろう。次から次に、悲しいことが起こる。明るかったステルラの街が、子どもたちが、暗く、沈む姿を見たくなかった。あんなふうに、倒れる迅さんを見たくなかった。

 シンさんを、信じたかった?そうじゃない、きっと、迅さんが語った、シンさんと、迅さんと、瞳真さんの話。その時を見ていたかったのだ。タグヒュームの、その時ではなくて。絶望の時が、今のシンさんを作り上げたなんて、そんなことを、思いたくなかった。

 ――でも、そんなことは、許されるはずもなかったのだ。


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