2.旅立ち
ゆらゆらと、暖炉で燃える火の影が揺れる。
彼は笑っている。その裏に数々の感情を隠し、呑みこみ、それはやがて混沌と暗闇となって、瞳から覗いている。
青碧の瞳に、もはや光は映らない。
「ローク=グラブレンタス=ウェルグローリア、私の子、継君、王太子……、どう呼べばいいのだ」
長い沈黙の後、彼に問うのは父であり、騎士の国ベジェトコルの王である。
「どうとでも。いっそ、逆賊めと仰っていただいても構いませんよ、陛下」
「ローク!」
彼の言葉にはじかれるように、父は彼の名を呼んだ。彼は目を伏せ、困ったように笑う。
もはや何にも引き留められはしない。自分が敗北したことを、魂の底から尊敬した父の声にすら響かない自分自身を以て、改めて実感する。
――そう、敗北だ。
空へ向けて目線が動くほんのわずかな瞬間、ロークの口元から笑みが消える。
ここは東方の堺、タグヒューム。かつての悲劇の舞台である。
ロークはその悲劇の後、母方の祖父にあたる人物に代わり、この地を王から預かった。
「タグヒューム公」と初めてそう呼ばれた頃、その以前から、彼は「継君」の称号のままに、絶対的な王位継承者だった。
知識に富み、行動力を備え、洗練された思考力とそれに伴う決断力を持ち、故に国民の多くが、やがて訪れる彼の治世の安寧を、疑いもしなかった。
――しかし、今。
変わり果て、瞳を暗闇にして自らを笑っている。
「数か月前、王都で反逆軍の者が捕まった。その者たちを探るうちに、お前の名が浮かび上がった。どういうことか説明してくれ」
王都で反逆軍を捕まえたのは、リリー=ウェルグローリア、彼の妹である。彼女は王都に反逆軍が潜伏しているという噂を聞き、止める兵士を打ち倒して王城を抜け出し、神輝石を持った十数人を相手に立回りを演じたのだという。
幼い頃から変わらないお転婆な妹、その顔を思い出し、ロークは柔らかく笑う。彼女に最後に会ったのは、いつだっただろうか。幾度も手紙が来たが、返事は出さなかった。
――出せなかった。
「説明――。そこにある事実以上に、何をお聞きになりたいのか。私は反逆軍なのですよ」
まるで明日の天気を問われたかのように、ロークはさっぱりと答えた。国王は拳を握りしめ、怒りに震える。
「それはつまり私を裏切ったということだ!なぜこの父を裏切った!」
「なぜ?」
ロークはしばらく考えるように間を置いて、そして答える。
「それは、そう、貴方ではない。ウォルド=ウェルスパテル=ウェルグローリア、国王陛下、偉大なるベジェトコルの剣、賢王たる、名君たる貴方を裏切る理由などありません。だけど、ねえ、父上。私は、このタグヒュームでかつて流された、血と、涙、炎、怒り――。私はあの日ここにはいなかった。でもマーンカンパーナで見た赤い、赤い東の空を、……」
そこまで言って、彼は顔を伏せ、片手で口を覆う。言葉は、端から崩れていくようだった。
ウォルドの後ろに佇むグリゼルダが、わずかに顔を歪ませる。
「……ふ」
しばらくの沈黙の後、ロークは顔を上げた。
「そう、ここは悲劇の地。あの悲劇を目の当たりにした者は、誰一人として忘れはしない。そして何が最も悲しく、悔しく、恐ろしいのかといえば、それを慰めるものが何もないということですよ!私も、貴方も!救いは何だ?騎士としての信義か?英雄か?それとも神か?救いなど!待つ内に魂は朽ち果てるというのに!」
彼は両手を大きく広げ、混濁した声で叫ぶ。
「ローク!」
父が、その名を呼ぶ。彼は、その声にほんの一瞬表情をなくし、しかしまた、細く、笑んだ。
「……そう、時間です。時間がなかった。だからね。もういっそ、悲劇の土台を壊して、何もかも無に還してしまおうと思ったのです。この地が、国が、人が、何もかもなくなって、ただ荒涼たる大地が広がる――。何ともすっきりした情景じゃあないですか。ねえ?」
言い終えると同時に、ロークの右頬に痛みが走った。しかし、彼の頬を打ち据えた父は、遥かに鋭い痛みを堪えるように彼の前に立っていた。その瞳も、手も、足も、体中が、言いようのない悲しみと怒りに震えていた。
「国も、お前を信じた者も、こんなことになってもまだ、お前を愛してやまない私を、全てを捨てようというのだな!」
彼は父の顔を見つめた。もう考えはしない。考える時間は、これまでに山ほどあったのだ。
「ええ」
ウォルドの顔が歪む。
「そうです、父上。私はもう何もいらない」
穏やかに笑んで、ロークはウォルドに告げる。彼の頬を、堪えきれなかった涙が伝った。母が死んだときですら、見ることのなかった涙。
彼は立ち上がり、両手でウォルドの体を抱いた。
「なぜ、私にお前を裁かせる」
もはや王のものではないその声に、ロークはうつむき、目を閉じ、口元に笑みをたたえて沈黙した。
言うべきことはもう、何もない。今、かつて意志を、力を持った声も、言葉も、ローク=ウェルグローリアという名の彼を形作った全ては潰えた。
それでいい。彼はもう、どこまでもぼろぼろだった。
グリゼルダは、その様子をただ眺めていた。炎に照らされた黒檀の瞳は、ほんの少しの歪みを抱えたまま、冷たく動かない。
これは、かつて結ばれた約束の終着だった。
*****
騎士の国ベジェトコル――、かの国では、立て続けに大きな不幸があった。
一つは、絶対的継君であったローク=ウェルグローリアが、反逆の罪によって北の最果てアブディエスに幽閉されたこと。
もう一つは、王国騎士団の英雄、リヒャルト=ウルブリヒトの死である。
「どうにも暗い話が続くねえ」
ジェロームが紫煙をくゆらせながら、いつもの調子で言う。僕は黙ったまま、朝の掃除をしていた。
「で、お前はなんでそんな恰好なのかね」
僕は一瞬手を止めた。白いアルバを着ているが、その上に重ねて着るはずの金色のローブを着ていない。着替えを途中でやめてきたような姿だった。
ローブは、教会を掃除した後に洗おうと、水を張ったタライに投げ込んである。
答えないまま黙々と掃除を続けていると、不意に煙草の香りがした。振り返ると、ジェロームが音もなく背後に距離をつめて立っていた。
「スープくさいなあ、お前」
ジェロームはにやりと笑う。
「マザーの機嫌も悪かった。ぶちまけられたのか、朝のスープ」
僕はうつむいたまま、極力彼の顔を見ないようにする。
「まあ、出来はよくなかったがね」
言いながら、ジェロームは僕の頭を撫でた。ほぼ身長が並んだ今も、彼は僕を小さな弟のように扱った。
「遠くへ行きたいなって、言ったんだ」
「ほお」
「つい、口から出てた」
「ふうん」
そうこぼして、後ろを向くとそこにマザーがいたのだった。青い顔をして。そして、なんだかヒステリックに叫び、怒鳴り、最終的にスープが鍋ごと飛んできた。それで僕のローブは台無しになったというわけだ。
そもそも気に入っているわけでもないから構わないが、鍋つきでスープを投げつけられた衝撃はなかなか堪えた。
「何も言わないの?ジェローム」
彼はふうっと煙を吐き出した。教会内で吸うなとマザーに何度も叱られているが、どこ吹く風だ。
「何て言ってほしい?」
そう問われて、僕はつい顔を上げてしまった。目が合った。菫色の二つの目。その片方は、ほとんど視力を失っている。
「お前の言ってほしい言葉を言ってやる」
感情が、こみ上げてくる。ジェロームはいつもこうだ。こちらが叱られると思って黙っているのをあっさりと見破るくせに、叱らない。そしてこの切り返しだ。堪らない。
僕は歯を食いしばり、顔をそむけてしばらく耐えていたが、ショックを引きずったままの気持ちは、抗いも虚しくあふれだした。
「もう十分だって、言ってほしい……」
言葉とともに、涙が出た。この泣き虫だけはどうしても治らない。十九にもなって情けないと思ってはいるのだが、どうにも感情の振れ幅が大きくて、我慢がきかない。
「もう十分だって、もういいよって、言ってほしい。このまま、ここにいたらもう――」
ぼろぼろと涙はこぼれ落ちる。うつむき、顔を隠すようにして涙を袖で拭う。
返ってくる言葉が恐ろしい。今度こそ、怒られるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。
「……ああ、もういいよ」
しかしジェロームは、またあっさりとそう言った。
顔を上げると、彼は柔らかく、優しく笑っている。亜麻色のくせ毛の下の、視力を失った右目までもが、優しい光を帯びている。
「……十分だ」
あまりにも穏やかなその声に、どうしようもなく泣けてくる。どこまでも、どこまでも優しい人だった。
その晩、僕はコルファスを旅立った。ジェロームは教会の前で僕を見送った。まるですぐ近くにお使いに行くときのように。
「気をつけてなあ」
そう言って、片手をひらひらと振った。
*****
「どちらへ行かれます?内親王殿下」
マーンカンパーナの城門前で、不意に背後に現れた男の問いに、リリーは苦虫を噛んですりつぶしたような顔をした。
表情を整えてから振り返り、言った。
「私に与えられた名を、正しく言っていただけるか」
「スタウィアノクト公、リリー=ウェルグローリア内親王殿下」
男は笑みを浮かべ、わざとらしく頭を下げた。鬱陶しさに目元がひくつく。
「左様、私には国王陛下から預かった領地があるのですよ。スタウィアノクトに帰ります。他に質問は?」
男はお辞儀の姿勢のまま、顔だけを少し上げ、鋭く目を光らせた。
「今回招集された王国議会は、随分長うございましたなあ」
苛立たしさに、うっかり表情を崩しそうになる。
努めて表情を崩さず、黙ったまま男の顔を見ていると、男はまた、わざとらしく驚き、手を叩いた。
「ああ失礼、スタウィアノクト公は、議会には参加しないのでしたね!」
「……思い出していただけて何よりだ」
「どうやら、国王陛下は反逆軍をこの国から一掃するおつもりのようですよ。タグヒューム以降、活発化した神代の獣たちといい、王太子……、いや失礼、ローク様が捕らえられてからあちこちでちらつく反逆軍の影といい、対応に追われて騎士団は疲弊していますからね」
「……それで?」
男は、いやらしくほほ笑んだ。その冷笑こそ、男の内面を表すものだ。
「スタウィアノクトはいいところだと聞きますな。空気の澄んだ、静かな湖畔の町。感動的な逸話もある。住人は平和にぼけて、反逆軍がこっそりと潜んでいても気が付かない」
リリーは男の言葉に心底呆れ果てた。足払いで地面に這いつくばらせてやりたい衝動に駆られるが、彼女は敢えて優雅にほほ笑んだ。
「左様、スタウィアノクトはよいところだ。一度、いらしてはいかがです?静かで、水が豊かで、食べ物もうまい。眉間の皺を伸ばすにはよいでしょう。三日もいれば角が取れて、おもしろい冗談を言えるようになる」
男は両手を広げて苦笑いする。いちいち芝居がかった仕草が癇に障る男だ。
男の名は、ユリエル=ブラックモアといった。「騎士城」と称される街、ウェクシルムの領主である。現在の王妃の兄で、リリーには血の繋がらない叔父にあたる。
「これは手厳しい」
「では」
そう言って、リリーは軽やかに馬にまたがる。城門を出て行く彼女の後に、副官である老人が続いた。
彼は、リリーが幼い頃は教育係として、彼女がスタウィアノクトの領主となってからは副官として、長年仕えてきた騎士である。名を、トビー=マロリーという。
涼やかな風が吹く平原を西に走りながら、リリーは言う。
「不愉快だ」
「どうもあらぬ疑いをかけられているようで。期待と言ってもよいかもしれませんがね。タグヒュームでローク様とともに捕まった反逆軍は氷山の一角といいます。残党が姫様を頼ってくるのではと考えているのでしょう」
「私はいよいよ目の上のたんこぶであろうからな。尾けられると思うか?」
「そうなりましょう」
「それはつまらん。私は寄り道がしたいのだ。撒くぞ」
「ほっほ。爺はどこまでも姫様について参りますよ」
「爺が尾行ならお手上げだ。行こう!」
馬の腹を蹴って、二人は朝焼けの道を駆けた。