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白い花の歌  作者: タク
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2.宵闇の水紋

 夜が、空を去っていく。


 僕は、黒い丘の処刑場からほど近いジーネ村にいた。ヴェルナーさんの手当てはまだ終わっていない。途中までは何とか手伝ったものの、ついに手が震えてままならなくなった。

 血は苦手だ。両手にべったりとこびりついている。

 医院を出て、玄関のすぐ外の石段に座る。

 とても立ってられなかった。手の震えは、体中に伝播して、僕は自分の体を抱きかかえた。

「……大丈夫ですか?」

 ふと、穏やかな声がした。顔を上げると、医院の門の側に、五十代半ばといったところだろうか、黒服に身を包んだ男性が立っていた。その人は、脇に抱えていた毛布を広げ、僕の側にやって来ると、背中にかけてくれた。

「あ……」

「朝晩は、冷えますからね。風邪をひいてはいけませんから」

「あ、りがとう、ございます」

 声がうまく出てこない。かすれ声でお礼を言うと、その人はそっとほほ笑んで、僕の隣に座る。

 僕はその横顔を窺う。そういえば昨日、ヴェルナーさんをここに運んできたとき、見かけた気がする。

「よければ私の家で休みませんか。その手も……、湯を沸かしてありますから」

 彼はヴェルナーさんの血がこびりついた僕の手に視線を送る。体にゆっくりと染みこむような、落ち着いた声だ。

「……あなた、は?」

「ああ、突然すみません。私はマルクといいます。向かいの家に住んでいます。といっても、ここのお医者さまのご厚意で借りている家ですが」

 少し、寂しげに笑顔を作る。そして、僕の姿をまじまじと見つめた。

「……懐かしい服だ」

「え?」

 彼はにっこりとほほ笑んだ。僕は彼の顔をじっと見る。

 思い出した。聞き覚えがあったのだ。ジーネ村――。

 クレイグさんが言っていた。

 ――ステルラの教会にいた神官は、ジーネ村で静養している……。

「ステルラの、教会の……?」

「元神官です」

 寂しげに、哀しげにほほ笑むその顔は、慈愛に満ちている。

 不意に、目の端に汚れたローブの裾が映る。僕は慌てて立ち上がった。その瞬間によろめいて、彼に支えられた。

「……すみ、ません、服、汚しちゃっ……」

「え?」

「これ、ステルラの教会にあったものをお借りしたんです……。僕の神官服は人に預けていて」

「ああ、そうですか。私の神官服なのですね」

「すみません……」

 ローブもアルバも砂まみれで、特に白いアルバには、あちこちに赤い染みが目立つ。彼は遠くを見るような目で、それを眺めた。

「構いません。もう着る気はありませんでしたから……」

 伏し目がちにほほ笑むその顔に、指先が痺れるように痛む。

 僕はどんな顔をしていたのだろう。顔を上げた彼は、穏やかに眉を下げて、立ち上がる。

「どうぞ、いらっしゃい。聞きたいことがおありになるようだ……。私が答えられることには、すべて答えましょう。湯に浸かって、汚れを落としたらね」

 そう言って、彼は石段を降り、門をくぐって、向かいの家に入っていった。

 しばらく、僕は考えた。といっても、考えがまとまらないのはいつものことで、どちらかというと、迷っていた。

 それでも、試しに踏み出してみれば足は前に出る。僕はゆっくりと石段を降り、マルクさんの後を追った。




 家は、こじんまりとしていた。木の壁と天井、床は薄茶色のレンガ造りで、ベージュの織物が敷かれていた。

「こちらですよ、どうぞ」

 奥の部屋から、湯気と一緒にマルクさんの顔が覗いた。

 覗きこむと、そこは物置に使われているようだった。使わなくなったものなのだろうか、古びた机や椅子が置かれ、それらの上には乱雑に道具類を詰めた木箱が積んである。

 部屋の真ん中のスペースに、湯気の立った木製の大桶と、椅子が置かれていた。

「まず手を拭いましょうか」

 そう言って、マルクさんは小さな木桶にお湯を汲んで、僕を椅子に座らせた。そして、木桶のお湯に浸した温かい布で、丁寧に僕の手を拭いてくれた。

 でも、今の僕には、ガチガチに固まった体をほぐしていくその温かさが、苦しくて、悲しくてたまらない。

 胸がしめつけられて、喉の奥に、目の奥に、あふれだす。

 閉じたまぶたの向こうに、シンさんの顔が浮かぶ。

 冷たく、無機質で、彫刻のように美しく笑う、あの顔が。

「何を、そんなに泣いていらっしゃるのです?あなたが……」

 マルクさんは、穏やかな声で問う。

 なぜ、次から次に、涙が出るのか。それもよくわからない。

 シンさんを信じたかったから?

 でも、心のどこかで、疑ってもいた。彼がただ、子どもたちの前でそうであるような、優しいだけの人ではないこと。

 それならば、なぜ?

 でも、だけど、どうして――。

「……シン、さん……」

 振り絞るようにその名を呼ぶと、マルクさんは、僕の手の平を拭う手を、ぴたりと止めた。

「シン……?」

 マルクさんの声に、これまでとは違う響きを感じて、僕は顔を上げた。マルクさんは苦々しい表情を浮かべていた。

「もしや、ヴェルナーのあの傷は……」

 その問いに、僕は答えられない。赤い血を噴いて倒れるヴェルナーさんの姿が、頭に浮かんで、息が詰まる。そんな僕の様子に、マルクさんは、察したようにうなだれた。

「そうですか……」

 マルクさんは、またゆっくりと、僕の手を拭う。その手に込められた力は、何かをこらえているようだ。彼は、シンさんを知っているのだろう。

「……マルクさん……」

 呼ぶと、マルクさんは顔を上げた。

「約束です。さあ、湯に浸かってください。着替えもそこにあります。そうしてから、話しましょう」

 そして、マルクさんは立ち上がり、出ていった。その背中を見送って、しばらく椅子に座ったままぼうっとしていた。マルクさんはシンさんを知っている。そう思ったら、僕は彼を知りたくなったのだ。

 ふらつきながら、椅子の背を支えにして立ち上がり、僕は服を脱いだ。

 湯に浸かりながら、僕は何度も繰り返し、ヴェルナーさんとシンさんの姿を思った。というより、頭に浮かんで止まらなかったのだ。

 シンさんと出会ってから、僕は何度か想像した。二人が一緒に、トーマさんの真似をしたり、子どもたちと一緒になって喧嘩する姿。でも、現実に見た二人の姿は、シンさんが、ヴェルナーさんに剣を振り下ろすその一瞬でしかない。

 本当に、それだけなのだろうか。

 僕の想像は、ただの幻にすぎないのだろうか。




 風呂から上がり、服を着替えた僕に、マルクさんは控えめにほほ笑んだ。

「こちらにどうぞ」

 そう言って、テーブルの側の椅子を示し、テーブルに湯気の立つカップを置いた。

 温かさでほぐされて、むしろ重たく感じる体を引きずるようにして、僕は椅子に腰かける。カップからは、甘い香りがしていた。

「飲んでください」

 マルクさんに促されるままに、僕はのろのろとカップを手に取り、口に運ぶ。一口飲んで、そうしてから一気に、カップの中を空にする。

「少し、落ち着きましたか?」

 マルクさんは、穏やかな声で問う。僕はそこでようやく、彼の顔をしっかりと見た。緑がかったグレーの瞳に、ほとんど真っ白になりつつある灰色の髪。深い皺は、穏やかさをそのまま刻み込んだようだ。その中で、眉間に刻まれた皺だけが、際立って見える。

「さて、何の話から始めましょうか……」

 マルクさんは、自問するようにつぶやいた。僕もまた、何を聞けばいいのか、整理がつかない。それで、まずは確認から初めてみる。

「……シンさんを、知っているんですか……?」

 そう問いかけたとき、マルクさんの眉間の皺が、より一層深く、影を濃くする。

「ええ……、ええ、よく知っています。コンルーメンからステルラに向かう船の中で、それが最初です。彼は、元はベジェトコルで母親の下で育ったそうですが、亡くなられてね。コンルーメンの父親の下に引き取られて……、でも、うまくいかなかったんですね。それで、ステルラに行って、騎士になるのだと……。その様子が、あまりにも必死で、なんだか、小さな子どもなのに追い詰められていて、手を差し伸べずにいられなかった……」

 マルクさんは、うつむいたまま、ぽつりぽつりと話し続ける。伏せられた瞳の先にある手は、閉じられたり開かれたり、落ち着かない。

「僕は、信じたかった……。シンさんとヴェルナーさんは、絆みたいなもので、繋がってるんじゃないかって……」

 マルクさんは顔を上げる。僕の問いが、全く的外れだとでも言うように、純粋に疑問の色を浮かべて。

「そのはずですよ。シンとヴェルナーが、心の底から憎み合うことなんてあるはずはない」

 マルクさんはきっぱりと言った。

 ――では、なぜ?

 シンさんは言った。「お前は生かせない」と、そう。

 そうしてヴェルナーさんに剣を振り下ろした。一切の迷いなく。

 マルクさんは、両手を握り合わせた。

「もし、あの二人を分かつものがあるとしたら、理由など、一つしかない。あの時から、すべてが狂ってしまった……。三年前の、あの時から――」

 次第に力が込められていく指先は赤く、手の甲に食い込んで、震えている。

 ――三年前。

 それが何であるのか、もう聞かなくてもわかる。

 タグヒュームの悲劇。騎士たちの心に、赤く、黒く、禍々しく燃えあがる炎の刻印を穿ち、マリアさんの命を奪った、悲劇……。

「あの日は、そう……、マリア内親王が亡くなられた翌日のことです。赤く、床に広がったあの方の、血の跡を、私は、私は、どうすることもできなくて……。内親王を殺めたあの騎士はね、何度も、私のところに来たのです。友人が炎にまかれて死んでしまった、助けられなかった、許してほしい、赦しがほしいと、そう言って……」

 言いながら、マルクさんの頭はどんどんと下がって、赦しを求めるその声が、まるで彼自身のものであるように、僕には思えた。固く握り合わされた両手は、やがて膝から浮き上がる。それは間違いなく、祈る姿だ。ステルラの教会を去り、二度と神官服を着るつもりはないと言った、その人の、姿……。

「でも私には何も言えなかった……!許されるはずだなどと、どうして言えるでしょう。私にこそわからなかった。なぜ神は、あんなにも惨い仕打ちをと!何十年と積み重ねた信仰を捨てて、神を罵倒し、己の無力に頭を抱えるしかなかった……」

 そうして、彼は言葉を切った。マルクさんの乱れた呼吸音は、何か物音一つ立てるだけでもかき消されてしまいそうなほどかすかなのに、異様な存在感がある。その呼吸が、少しずつ落ち着くと、両手は膝の上に着地して、彼はゆっくりと顔を上げた。 

 ほんの数分で、穏やかさの象徴であった皺は、老いそのものへと姿を変えていた。

「あの日……、静かな夜に、ぼうっと、教会に佇むシンの姿を、今でも思い出します」

 マルクさんの声はか細く、かすれている。今更に、クレイグさんが言った、「静養している」という言葉を思い出した。この人は、病んでいるのだ。

「青白い顔をしてね、痩せていた。でもなんだかとても、美しくて……、コンルーメンの教会の、白い、滑らかな彫刻のようで……、そうして私に気が付くと、笑うんです。無理矢理に笑ったというふうでもないのに、ごく自然に、でもひどく不自然で、何でしょうね、私は何だか恐ろしくて……」

 それは、僕の見たシンさんの姿だ。彼の笑顔には、温度がない。一つの造形として完成された美しさ。それゆえの、人としての、不自然さ。

 マルクさんの目は、うるんで、ゆらゆらと揺れる。

「ふと足元を見たらね、シンは、マリア内親王の血だまりの跡に、立っているんです。私は驚いて、何だか必死で、シン、そこはいけない、そこに立ってはいけない、こっちに来なさいって、そう言いました。だってそうでしょう?人が死んだ、その跡を、足で踏みつけるなんて、普通にはできない。だから……」


 ――貴方はここを出た方がいい。おれはここから、動けない。


 シンさんは、そう言った。ガラス玉のような目に、マルクさんを映して。

 マルクさんは泣いた。泣いたというのかどうかもわからないが、目から次々と涙があふれて、止まらなかったそうだ。

 マルクさんがシンさんを見たのは、それが最後だった。

 彼の心は完全に自制を失い、彼はステルラを去った。

 ジーネ村に向かう馬車の中で、遠くなっていくステルラの街に、彼は安堵した。

 安堵すると同時に、熱く、熱を持った悔恨の涙が、頬を伝っていった。




 僕は、ようやく察した。

 子どもたちを花開くように笑わせるあの人の内の、破滅を口にする何か。



 ――絶望だ。


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