12.Humpty Dumpty
リリーと歩いた街並みを、ザウルさんに連れられて歩いた。
騎士の街の西側に位置する騎士館の、街と騎士館を隔てる黒い鉄柵を抜ける。数日続いた雨で、あちこちに大きな水たまりが出来ていた。
騎士館の玄関から門へとまっすぐに、二十人前後の行列があった。彼らは普段の赤いマントではなく、黒いマントを羽織り、フードを目深に被っている。馬の様子を確かめたり、うつむいてじっと何事かを考えているような人もいる。
行列の真ん中あたりに、やはり馬に繋がれ、黒い布で覆われた荷車があった。
僕は唇を噛んだ。黒い布の内側に、おそらくヴェルナーさんがいる。
でも、今はどうにもできない。
騎士館の側に、シンさんがいた。彼は目を閉じて腕を組んで立っている。
側に行くと、気配を感じたのか、ゆっくりと目を開けて僕を見た。顔色はあまりよくない。
曇り空のせいかもしれないが、ヴェルナーさんの処刑に、やはり思うところがあるのではないか。そんなふうに期待してしまう。
シンさんの顔を窺っていると、門の外から声がした。
「シン兄ちゃん!神官さま!」
立っていたのはケイだった。彼が一人でいるのは珍しいが、まだ日も昇りきらない時間であったし、ケイは寝間着姿だった。
肩で息をしながら、ほとんど叫ぶように、ケイは言った。
「ヴェルナー兄ちゃんがころされるって、なんで?ねえ、なんで!?」
ケイは今にも泣きそうだ。
彼の口から出た「ころされる」という言葉に、行列の何人かが顔を上げた。
これまでの様子から察するに、ケイはヴェルナーさんが捕まっていることを知らないようだった。ヴェルナーさんの処刑が保留のままならば、伝える必要もない。しかしこうなってはと、おそらくは両親が、ケイに知らせたのだろう。「ころされる」と、裸のままの言葉を使って。
僕はシンさんを見た。シンさんは動かない。腕を組んだまま、また目を閉じて、じっとそこに立っている。
「シン兄ちゃん!」
そう叫んで、じれたように、ケイは門の中に入ってきた。シンさんのもとに駆け寄ろうとするが、彼の細い腕は、ザウルさんに捕まれ、止められた。
「いっ、たいよ!はなせ!」
ケイはザウルさんにもひるむことなくくってかかる。
ザウルさんはケイをじろりと見下ろし、次にシンさんを睨んだ。
「お前が甘やかすからこうなる!」
シンさんは無言だ。何も言わず、動かない。
「出ろ!」
「……ったいって!はなせよ!」
「……やめてください!」
強い力でケイを引きずりだそうとするザウルさんに、僕は思わず声を上げた。ザウルさんは眉を寄せ、僕の方を見た。
「痛がってる。放してください」
ザウルさんは、何か言いたげに眉間の皺を濃くしたが、あからさまなため息をついて、乱暴にケイの腕を放した。
僕はケイの側に行き、彼の手をとる。
「おいで、出るんだ」
「……だって……っ」
手を引かれながら、ケイは振り返って何度も黒い荷車を見た。その度に視界に入ったであろうシンさんは、じっとそこに立っているだけだ。
いつものように笑うことも、からかうこともしない。ケイはこみ上げる感情を抑えるようにきつく目を閉じた。
門の外に出ると、僕はしゃがんでケイの両肩をさすった。
「……こんなの、やだよ……」
絞り出すようにケイは言う。
明るく元気だったケイは、この数日でもう随分傷ついただろう。彼はうつむき、それに従って零れる涙を拭うこともしない。
「わかってる」
僕は言った。
「わかってるよ。僕もこんなのは嫌だ」
ケイは顔を上げ、僕を見た。悲しいほど、きれいな目だった。目の奥が熱くなる。
慌てた様子でケイの両親が駆けてきた。僕はほほ笑んで立ち上がり、ケイに両親の方を向かせると、背中をそっと押した。
「家にお帰り。ね」
ケイは振り返ってもう一度、僕を見た。そして行列に少し目をやって、またうつむき、とぼとぼと歩きだした。その背中が痛々しい。母親が、ケイを抱きしめて迎える。父親は、僕に小さく頭を下げた。石畳に目を落としたままで。
僕は門の内に戻った。
ザウルさんは、いかにも不服そうに僕を睨んでいたが、そのまま黙って背中を向けた。
シンさんは、僕と目を合わせようともしない。
にわかに、緊張した空気が騎士館の入り口から走ってくる。シンさんもザウルさんも、背筋を伸ばして居住まいを正す。
何だろうと思って見ていると、騎士館の玄関から、五十過ぎくらいの男が出てきた。肩のあたりまで、白髪まじりの黒髪がうねって落ちる。口元には両端を下げた口の形の通りに、眉間には寄せられた眉の通りに深い皺が刻まれている。疲れて見える顔に、蛇のような目だけが、ぬるりと光っていた。
その人は、黒い荷車を目に留めることなく、こちらに歩いて来た。そうして、僕の目の前で立ち止まる。
身長はそう高くなく、行列の騎士たちに比べると、体格も恵まれているとは言えない。彼は僕を見、お面のような笑顔を浮かべた。
「神官様ですね」
「……は、い」
「私はステルラ王国騎士団総騎士長ダミア=ガルシアと申します。この街においでとは存じておりましたが、挨拶もできず、申し訳なかった」
ダミア=ガルシア……、ずっと耳にしていた名前の主が、目の前に立っていた。
僕は少し戸惑っていた。想像していた姿とは、随分違う。
ダミア=ガルシアという人を、僕はザウルさんのような姿で想像していた。
「あの、いいえ……」
その人は、ほんの少しうつむいて、笑った。その笑みを、どう解釈していいのか、僕にはわからない。どこか遠くに向けられたような、虚ろな笑みだった。
「懺悔を」不意に、彼はそう言った。
「は?」
「私はヴェルナーを、幼いときから知っています。期待もしていた。きっと、祖父と同じように、誉れ高い騎士になるだろうと……」
僕は眉を寄せる。僕の知る限りでは、この人はヴェルナーさんを陥れて処刑しようとする張本人だ。
「どうぞ神の御許に迎えられるよう……。そこにはかの英雄がおいでだろう」
そう言って彼は頭を下げた。その言葉は、全て嘘であるような、しかし一方で、全て真実であるような、奇妙な印象を抱かせた。
喉の奥に出かかった詰問の声を堪えながら、僕は踵を返して行列に向かうその人を目で追った。
彼は、シンさんの横でまた一度立ち止まった。何か言うのかと思ったが、数秒見つめ合っただけだった。
そうして、彼は黒い馬に跨った。シンさんとザウルさんがそれに続く。中庭を、門に向かってぐるりと、歩み出す。
先頭が僕の横に差し掛かり、そこで初めて、シンさんが僕を見た。
「手を」
艶やかな、体温のない声で、彼は僕に手を差し出した。
その手をとり、鐙に足をかけて、見習いらしい少年騎士に手を貸されながら、僕はシンさんの馬に乗る。
行列が進行方向に従って門の前に並ぶと、ザウルさんが叫んだ。
「出立する!」
馬に揺られ、体が上下する。ゆっくりと、行列は進み出した。
薄い雲の向こうから、朝日が街を照らし始めていた。街頭には、街の人々が並んで立っていた。
人々は、黒い荷車に花を手向ける。
白い花だ。
北の絶壁に咲く白い花。祈りの花。
人々は皆、疲れ、うつむいて立っている。
――そして破滅の道を突き進む。
シンさんの言葉を思い出した。
騎士の街の光は失われたのだろうか。
手綱をつかむ彼の手を、じっと見ていた。
差し出された手は、それでも温かかった。
*****
死出の行列を、遠くから眺める者がいた。ステルラの領主、ウーゴ=マラキアメールである。
ステルラでの日々は、寄る辺ない不安と戦う日々だった。王命に従い、逃げることなど許されないと自らに言い聞かせる日々だった。
それが今、戦うことを辞めた彼の心は、静かに凪いでいる。
そうして、彼は人を待っている。
待ち人がセレノー川を渡り、ステルラへとたどり着いたのは、その日の昼過ぎのことだった。
スタウィアノクトの領主、内親王リリー=ウェルグローリアである。
ウーゴは、知らせを受け、残留分隊の隊長たちを連れ、彼女を出迎えた。
「……お待ちしておりました、内親王殿下」
ウーゴは恭しく頭を下げる。
彼の後ろに控える隊長たちは、明らかに狼狽した様子で膝をつき、さらに深く頭を下げた。
「……国王陛下の勅書は届いていような」
彼女は言った。その声を直接聞くのは久しぶりだった。血の繋がりはないが従妹でもあり、主君の娘であり、最も恐れていた男の妹だ。
リリーは、後ろに束ねたプラチナの髪を風に揺らし、彼の前に立っている。後ろには、長年彼女に仕えているトビー=マロリーともう一人、見慣れない従者がいた。
「はい。承っております。……が」
ウーゴはゆっくりと顔を上げた。
「私の一存において、ヴェルナー=ウルブリヒトは黒い丘の処刑場へ今朝出立いたしました」
はっきりと、ウーゴはそう言った。リリーの目が、こぼれんばかりに見開かれる。
「ステルラ公、メルウィル卿はどうなさいました?」
トビーが問う。
「ええ、そうですね……。彼は施療院におります。反逆軍に襲われ、意識がありません」
「反逆軍……だと!?」
「ええ」
ウーゴは、ひどく冷静だった。青碧の瞳の、刺すような鋭さも、痛まない。じっと、その宝石のように美しい瞳を、彼は眺めていた。
「トーマ!」
リリーは叫んだ。
「後を追え!止めろ!」
「それでしたら」
ウーゴが口を挟む。
「こちらをお持ちください。勅書です。これがあらばダミアも引かざるを得ないでしょう。処刑は今日の夕刻ですから、すぐに追えば間に合うかもしれませんね」
ウーゴは、トーマに親書を差し出した。一瞬、信じられないといったふうにウーゴを見て、トーマは親書を受け取った。口論をしている場合ではないと思ったのだろう、そのまま彼を素通りし、足早に街に向かう。
「馬を!」
トーマが怒鳴ると、第九分隊の隊長が慌てて立ち上がり、その後を追った。
「……ウーゴ=マラキアメール……!」
リリーは怒りをたたえた声でウーゴの名を呼んだ。
「自分が何をしたか、わかっていような……!」
「はい、内親王殿下」
ウーゴは静かに、ほほ笑んだ。
勅書は数日前に届いていた。そこには、ヴェルナーの反逆の一件を含め、ステルラの監査をリリーに一任する旨が記されていた。
「わかっております。全て、何もかもお話しましょう。この街が抱えた歪も、ダミアが抱えている歪みも、私がなぜ……こうせざるを得なかったのかも。そしてどうぞ、いかようにも」
――これで、終わったのだ……。
ウーゴはまた、静かに頭を垂れた。
*****
黒い丘の処刑場に辿りついたのは、日が傾きかけた頃だった。
小高い丘の上に黒ずんだ灰色の壁が見えた。それは処刑場というより、小さな城塞のようだ。周りは堀で囲まれていて、石造りの橋を渡って中に入る。門をくぐると、塀でぐるりと囲まれた内側は思いの外深く、底は暗く影になっていた。
黒ずんだ底の中央に何かがあると、目を凝らして見ると、それは処刑台だった。心臓を握られたような心地がして、僕は吐きそうになった。
ここに漂う死の気配は、生々しく、残酷だ。
塀に巡らされた道を進み、ちょうど門の反対側に並ぶ二つの塔に入った。中の広場には、上下に繋がる螺旋階段と、二つ目の塔に続くのであろう通路がある。僕はそこで馬を降り、シンさんの後ろについていた騎士に奥の塔に案内された。 そこは、小さな礼拝堂だった。
「予定までまだ時間がありますから、休んでいてください。水を後で持ってきますから。あまり出歩かないでください。ここにおられないと探さなくてはならないので」
騎士はそう言うと、さっさと礼拝堂を出て行った。
僕は少し辺りを見回して、もう片方の塔が見える窓を見つけた。窓際に立ち、様子を窺う。こちらの塔はこの礼拝堂のみのようだが、隣は上の階にいくつか部屋があるようだった。
処刑はあの処刑台で行われるのだろう。しかし外から見た限りでは、あそこへ行く階段はどこにもなかった。だとすれば、一つ目の塔の広場から下へ降りていた階段、あそこから処刑場に出るのだろう。
僕は礼拝堂のベンチに座った。神経が張り詰めて、頭がきりきりと痛む。
背を伸ばすと、背中に潜ませた短剣がごつりと音をたてた。僕にこれは使えない。ヴェルナーさんに渡さなくてはならない。
でも、ヴェルナーさんに短剣を渡しても、足手まといは僕だ。ルドビルでの行動を思えば、あの人は僕を置いて逃げることはしないだろう。
行く道も逃げる道も一本しかない。僕という足手まといを連れて、短剣一つで二十人を切り抜けなければならないというのは、ヴェルナーさんの負担が大きすぎるのではないか。
――戦うという事態を避けなければならないのだ。
杖のリナムクロスがゆらりと揺らめく。その光に、心臓が疼いた。
迷う時間などない。僕にできることなど、そもそも限られているのだ。
不意に、礼拝堂の扉が開いた。
「すんまっせーん、水っスー!」
先ほどの騎士とは打ってかわって、水を持ってきたのは随分と軽い調子の騎士だった。彼は片手で銀のトレイを持って、立ち上がった僕の側にやって来た。
「どうぞー」
「……どう、も……」
僕はトレイを受け取ろうとする。しかし、差し出した両手が震えていることに自分で気が付いた。僕は咄嗟に両手を引っ込め、フードの下から覗く騎士の顔を窺った。
「……ひっでえ顔色」
騎士は、片眉を上げて笑った。
今日の始まりから、初めて目にした笑顔に、体中の力が落ちるように抜けて、僕はその場にへたりこんでしまった。
「あ……」
「おいおい、だいじょぶッスか」
騎士はトレイをベンチに置くと、僕に手を差し出してくれた。その手を、おずおずとつかむ。
しっかりとした手だった。豆だらけの、ごつごつとした固い、そして温かい手だ。
この感触を、僕は知っている。
ヴェルナーさんの手だ。
初めてステルラで会ったとき、彼は同じように僕に手を貸してくれた。
そして――。
シンさんの、手だ。
僕にはあの人のことがわからない。
それでも……、シンさんとヴェルナーさんは、トーマさんによって繋がっている。
それは、信じるには十分じゃないか?
立ち上がり、顔を上げる。
そして、口を開いた。