11.As well be hanged for a sheep as a lamb.
早朝、教会の扉は乱暴に叩かれる。
僕は教会の掃除をしているところだった。ドンドンと教会に鳴り響く音に、緊張が走った。トーマさんがステルラを発ってから、一週間以上経っている。街中に広がっていく不穏な気配に、僕は少なからず覚悟していた。
ほうきを置いて扉を開けると、そこにはザウルさんがいた。その後ろに立っている二人の騎士にも、どことなく見覚えがある。彼らもおそらく、以前宿の食堂にいたのだろう。
「……何か、御用でしょうか?」
ザウルさんはぎろりと僕を見下ろした。ヴェルナーさんやシンさん、トーマさんにはない威圧感を感じる。決していい気分ではない。
「ヴェルナー=ウルブリヒトの処刑が執行されます」
動揺を押し隠すのに、全力を注がなければならない。僕は努めて平静を装って、目線を下ろす。足元に潜んでいた悪い予感が、黒い塊になってあふれ出て、体中にまとわりつくような心地がした。
「……いつ、ですか?」
「今日の夕刻に。罪人はすぐに黒い丘の処刑場へ移送されます。あなたも同行していただく。ご準備を」
「黒い丘の……?」
「南東にある古くからの刑場です」
「……わかりました」
僕はザウルさんと目を合わせないまま踵を返して、教会の奥に入った。それまで来ていた金色のローブを脱ぎ、白のアルバに黒い帯を巻き、黒いローブを重ねて着る。手を止めたら、そこからもう動けなくなる気がした。
もう一つ、ルドビルに入る前に、マロリーさんから渡された短剣。それを帯の後ろに差した。厚手のローブに隠されて、短剣は気配を消す。まさか神官が短剣を隠し持つとは誰も思わないだろう。
神書と、杖を手に取った。リナムクロスには、金色の光が揺らめいている。心臓が痛い。祭壇のリナムクロスを化石にして、体の中に押し込めた光が、杖の先に反応して暴れている。
これは、僕の持てる唯一。
僕はしばらく、目を閉じた。シンさんの言葉が頭をよぎる。
――たとえそれが納得すべき死ではなくても、誇らしく、悔いなどないと胸を張って、祖父の元へ逝くのだと、そう思っている。
そうなのかもしれない。
ルドビルで、僕をベッドの下に押し込んで、ヴェルナーさんは、笑った。その前の日に冷たく突き放されたというのに、トーマさんを信じろと、まっすぐな目で言った。あの目を曇らせることなんて、どんな理不尽を以てしてもできない。
でも、誰が言える?
満足だったろう、だからいいじゃないか。
誰が言える?
――僕は、言えない。
背後から、足音がした。
「準備は、よろしいか」
ザウルさんが問う。僕はゆっくりと目を開けて、ふり返る。
――死なせない。それだけは、取り戻せない。
*****
「今、何て……?」
牢の中で、ナツは茫然として言った。牢番は、うつむいたまま答えようとしない。
「何て言ったんスか!聞き間違いっス!」
「ナツ、うるさい」
「うるさいって何だよ!」
エクトルの制止に噛みつくように叫んで、ナツはその場にうずくまった。
その日の朝、延期となっていたヴェルナーの処刑が改めて決まった。
あと一時間もしないうちにステルラの南東にある黒い丘の処刑場に彼は移送される。夕刻には処刑が執行されるという。
それを止める者は、一人としていなかった。
「何で……?」
ナツの声はか細く、消え入るようだった。
牢番は顔を上げられなかった。動かない石の床を見つめていなければ、この場にいることに耐えられそうになかった。牢に入れられた第一分隊に、彼は随分馴染んでいたのだ。しかしそれゆえに、伝えなくてもいいと言われていたヴェルナーの処刑を、知らせずにいることもできなかった。
「……証拠が見つかるまで処刑はなしだって……」
ナコルが力なく呟いた。牢は一時、重たい沈黙に包まれた。
「……ま、予想はしてたけどな」
重苦しい空気の中、エクトルはさらりと言った。頭の後ろに手を組んで壁に寄りかかり、その表情は見えない。
「……そうだな……」
マリノが小さくため息をついて、同意した。
「どういうこと?」
フレンが問う。マリノはエクトルを見るが、エクトルは背を向けたまま反応しない。どうやら説明する気はないらしい。第一分隊の説明役は、いつもマリノだった。
「ダミアは隊長をどうあっても処刑したい、ステルラ公はそれを止められない……」
「でも、街の人たちは納得してなかったはずっス!それなのに何で!?」
ナツは、もう涙声だった。マリノの牢からは、ナツの顔は見えない。それでも、どんな顔をしているかはわかった。素直で、まだ何も隠すことを知らない、ありのままの若者だ。そんな彼に、それを言わなければならないのは残念だった。しかし、黙っていることもできない。
「自分たちに向けられた疑いの目に耐えられなくなったんだよ」
「……は……?」
「ちょっと待てよ!街の連中への取り調べって、それはクレイグ様が襲われたからだろ!?隊長はずっと牢にいたんだから、関係ないじゃん!」
「隊長を反逆者であるとすれば、少なくとも見せしめになる」
ナコルの反論に、マリノはぴしゃりと言い切った。その言葉に、牢番も顔を上げてマリノを見た。
「見せしめ……?」
「隊長も反逆者、メルウィル伯を襲ったのも反逆軍。襲われたのは深夜で、犯人の手がかりはない。とうに姿を隠してしまったかもしれない。いつまで取り調べが続くのかもわからない。早く、終わらせたいんだよ」
「そんな……」
「………そんなことで……」
震える声で、フレンが言った。
「隊長、死んじゃうの……?」
マリノは眉を寄せて、エクトルを見た。表情が見えなくても、彼が何を思っているのか、マリノにはわかった。理不尽を体現したような男でありながら、誰よりも理不尽を嫌っている。
ヴェルナーの反逆の真偽は定かではない。それを偽として領主館に詰めかけた街の人々の気持ちは嘘ではなかっただろう。しかし、仮に真であったとしても、ほんの少し落胆するだけの話だったのだ。
クレイグが襲われ、街の空気は一変したはずだ。小さな落胆と引き換えに、人々はこの件の終着を望んだのだ。
「で、どうすんだ?」
エクトルが問う。牢の中にいる者には、その問いが誰に向けられたかはわからなかった。それが自分に向けられた問いであることがわかったのは、牢番――、クルトだけだった。
「どう、する、って……」
彼の目がこちらを向いている。
薄闇の中で、正確には、見えはしなかったのかもしれない。それでも、わかった。鋭く、刺すように、冷たい視線。
クルトは思わず目を逸らし、またうつむいた。
「……だって、おれには、どうしようも……」
その先に続く言葉を呑みこんで、固く手の平を閉じる。
「どうしようも?」
エクトルはクルトの言葉を繰り返す。頭の後ろに組んでいた手をゆっくりとほどく。のろりと立ち上がり、鉄柵の、クルトの前に立つ。
エクトルは笑っていた。冷ややかな嘲りを、隠すこともなく。
「何だよ。言えよ。続けてみろ。僕にはどうしようもないです、って」
「……エクトル」
マリノがエクトルを制止する。しかし、エクトルはクルトだけしか見ていない。
いつだってそうなのだ。タグヒュームから、彼のそうした質は、一層顕著になった。彼を止めるのは、止められるのは、ヴェルナーだけだった。
「言ってみろって言ってんだ!」
エクトルは怒鳴り、鉄柵を拳で殴りつけた。
クルトはびくりと体を震わせ、硬直した。それは、ナツにとっては初めて聞く怒鳴り声であったし、フレンやナコルにとっても滅多に聞くことのない声だ。
金属音が地下牢の壁に反響して、牢の中に響き渡る。
「エクトル!」
マリノは再びエクトルを呼ぶが、エクトルには聞こえない。鉄柵の間から片腕を伸ばし、また、冷たく笑む。
「おいで」
クルトは、動けない。頭がキリキリと締め付けられるようで、体中が強張っている。
「おいで」エクトルはもう一度、言う。
クルトは、なぜなのか、必死に足を引きずるように動かして、エクトルの前に進んだ。抗えなかった。薄暗い光の中で、冷たい眼光は、クルトをとらえている。
クルトがエクトルの前に立つと、エクトルはほんの一瞬、穏やかに、柔らかく、ほほ笑んだ。
次の瞬間、鉄柵の隙間から伸びた手が、クルトの胸ぐらを掴み、彼の体は音を立てて鉄柵に打ち付けられた。マリノは目をつぶり、顔をそらした。
「う……!」
「ちょっと、牢番くん悪くないじゃん!何してんの、エクトル!」
ナコルの言葉も、エクトルには届かない。
「わからないんだろ」
「は……っ」
「あの悲劇を知らない奴は……」
マリノの顔が歪む。クルトの肩越しに、彼はエクトルの目を見た。青い瞳。三年前まで、晴れやかに澄んでいたその目は、今は陰りを孕んでいる。
ここにいる者で、タグヒュームの以前から騎士団に正式に在籍していたのは、エクトルとマリノだけだった。そして、悲劇をその目で見たのはただ一人、エクトルだけだった。
だから、エクトルはマリノを見ない。
マリノはうつむき、首を振った。
「なあ、言ったな?何が正しいかわからないって」
エクトルの目が、熱を帯び始める。
「隊長を死なせたらもう取り返しはつかないぞ……!どんな正しさも、選ぶこともできない!ごまかして、騎士として生きていけると思ってんのか?」
呼吸が急く。打ちつけられた胸が痛い。胸ぐらをつかまれて首が締まる。クルトの目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「どうしようもない、だと?甘ったれんな!じゃあ誰が何をできるのか、考えてみろよ!」
エクトルはクルトを突き放す。クルトは尻もちをついて倒れた。むせりながら必死で息を吸う。ぶるぶると震える手を、握り締めた。
――誰が、何を?
総騎士長は?――ヴェルナー=ウルブリヒトを処刑しようとしている。
ザウル隊長は?――総騎士長に従うだろう。
他の分隊の隊長たちは?――処刑を定めたのは彼らだ。
他の騎士たちは?他の騎士たちは?みんな、みんな、なにか、何かがおかしいと思いながら、そう思いながら、うつむいている。
今、自分がそうしているように。
騎士団に入り、騎士の称号を得れば、それで騎士になれるのだと思っていた。しかし騎士の称号を得ても、今もなお、みっともなく、情けなく、ちっぽけな自分でしかない。
そのくせ、「僕にはどうしようもない」、その一言を言い切ることすらできない。
自分は無力なのだと、そう声に出すことができない。
うずくまり、喘ぐように息をするクルトを見て、そうして、マリノはエクトルを見た。
マリノはタグヒュームを見なかった。
見たものは、かの悲劇を目の当たりにし、荒廃を極めたエクトルの姿だけだ。
それだけでも、自らの無力を悟るには十分だった。
「……おれは言ったぞ」
エクトルは言う。
「騎士団のしたことは間違ってる……。おれらは、間違ったんだって」
クルトは顔を上げた。
そこには、それでもなお騎士としてここにいる男の顔がある。
それは、重たく、厳しかった。
「……で?」
エクトルは静かに言った。
「どうすんだ?」
問いかける。今度はもう、彼は笑わない。
やがて、冷たくなった汗が、クルトの頬を伝った。
クルトはエクトルから視線を外すことができなかった。
エクトルもまた、目を逸らさない。その目に、もう嘲りの色はない。彼の行動を、ただ、しっかりと見つめている。
握った拳を、ゆっくりと開いて、また閉じる。
震える手は、それでも動く。
クルトは、腰につけた鍵束を取った。
誰も何も言わなかった。
彼が這うようにして立ち上がるその様を、見ていた。
クルトは鍵束から一つを選び出し、エクトルの牢の鍵穴に近づけた。
「……あっ」
その時、マリノが不意に声をあげた。
「やべえ!超腹痛い!」
後頭部に直撃したマリノの声に、クルトは思わず脱力して、へなへなと膝からくずおれた。
「はあ!?」
「じ、実は牢に入ったあたりから、げ、下痢気味で……」
「下痢って……」
クルトはエクトルとマリノの顔を交互に見る。エクトルは一瞬呆気にとられたようだったが、すぐににやにやと笑い出した。
「ちょっと下してるだけかなと思ってたんだけど、これ……、やばいかもしれない……!」
マリノはよろよろと鉄柵にしなだれかかり、青い顔をして、腹のあたりを押さえている。
「や、やばいって……」
「だってずっと我慢してたんだよ!そんな雰囲気じゃないかと思って!医者んとこ連れてって……!」
クルトはもう、ろくに考えることもできずマリノの牢を開けた。そして囚人を外に出すときにするように、彼の腰に縄をつけようとした。
刹那、青い顔でうなだれていたマリノの目が、一瞬にして鋭く、ぎらりと光った。
「うらあッ!」
「いっだあ!?」
マリノはクルトの手を背中にひねり、足を払って床に押し付け、鍵束を奪った。
「取ってやったぜえ!脱獄したらあ!」
「よっしゃ、こっちも開けろ~!」
それはそれは楽しそうに、エクトルが拳を振り上げた。
「はああああっ!?」
クルトは叫んだ。先ほどまでの空気は一体どこへ行ったのか。
マリノはクルトを押さえつけたまま、エクトルに鍵束を投げて渡した。それを受け取ると、エクトルは鉄柵の隙間から手を伸ばし鍵を開ける。
「自由だー!剣はねえかな」
「ここにある」
「ちょ、おれの!」
エクトルはマリノに押さえつけられたままのクルトの腰から、彼の剣と短剣を奪った。マリノがクルトを床から引き起こすと、そのまま牢の奥に投げ捨てた。
背中を打ちつけた牢番は、小さく悲鳴をあげる。
「悪いねえ、クルト=セラ」
「わ、る……って、おいっ!」
エクトルはにんまりと笑う。彼は正しく、クルトの名前を覚えていた。クルトを閉じ込めたまま、牢の鍵は閉められた。
彼はもはや、呆然とするしかなかった。
「お前もやるようになったねえ」
ぼそりと、エクトルが呟いた。マリノは眉を寄せ、エクトルを睨む。
「何もかもお前のせいだ」
エクトルは怒りを露わにしたマリノの顔を見つめて、目を伏せて苦笑する。
「なあ、こっちも早く開けてよ!」
「隊長を助けに行くッス!」
嬉々として、フレンとナツが叫んだ。
エクトルとマリノは、彼らの顔を見てから、今度はお互いに顔を見合わせ、首を傾げて笑った。
「何してんだよ!早く!」
ナコルも続けて叫ぶ。
マリノがゆっくりと、鍵の束を持ち上げる。
「お留守番だ」
そう一言告げると、鍵の束はそのまま床に落とされた。
「ちょ……、ふざけんな!何だよそれ!」
「エクトル!マリノ!」
「エクトルさん!」
真剣に叫ぶ彼らを茶化すように、エクトルはキスを投げる。
「じゃあな~、甘ちゃんども!後は頼んだ!」
「ま、元気でやれよ」
緊迫感のない言葉を残して、エクトルとマリノは駆け出した。それでも牢に残された面々は、これがどういうことかを理解している。
もう二度と顔を合わせることは叶わないかもしれないのだ。
「ふっざけんなあ!」
「待てよ!何考えてんだ!」
「エクトルさん!マリノさんー!」
エクトルとマリノは、地上へと抜ける階段を駆け上がる。前を走るエクトルの背中を、マリノは見た。
こうして後を追えるようになるまで、三年かかった。三年前なら、きっと牢の中に残された。
後ろからはナツの声が追いかけてくる。
「いやッス!置いてかないでください!おれも行くッス!連れていって……!」
見えなくてもわかるその泣き顔を想像しながら、マリノは笑った。