10.白日は落つ
ステルラの街は、不穏な空気に包まれ始めていた。
降り続く雨のせいもあるが、表に出る人の数が明らかに減った。表を歩くわずかな人々も、お互いの顔を見ようともせず、うつむいて、のたのたと歩いている。店に入っても客は少なく、談笑する人々を見かけることもなくなった。
子どもたちは毎日のように教会にやって来るが、夕暮れ近くになり、帰る時間が近づくとどんどん元気がなくなっていく。
街の人々に対する取り調べが始まったのだ。
ただでさえ反逆軍の影に怯える人々は、ますます疑心暗鬼になっていった。
「帰りたくないなあ……」
ぽつりと、小さな声でケイが言った。僕は、教会の床を掃く手を止めた。ケイは、膝を抱え、背中を丸めてベンチに座っている。その向こうでは、女の子と、年少の子どもたちが床に座り込んでままごと遊びをしていた。僕は、ケイの横に腰掛ける。
「どうして帰りたくないの?」
「母ちゃんが怒るから」
「怒る?ケイに?」
「おれにじゃないよ。騎士団のね、やな奴ら」
「騎士団のやな奴ら?」
「こないだシン兄ちゃんを連れてったやつらの仲間。そいつらがね。店に来るんだ。そんで嫌なこと言うんだって。それで母ちゃん、もう嫌だって怒るんだ……」
言いながら、ケイの目にはじんわりと涙が浮かぶ。僕はケイの肩を抱く。彼は膝の間に顔を埋めて、声を押し殺して泣く。
ケイは健気だ。彼が泣いていることに気が付くと、他の子どもたちがつられて泣いてしまうのだ。不安はすぐに伝播する。
「こんちはー」
つと、扉から艶やかな声がした。
「シン兄ちゃん!」
子どもたちは、ぱっと花が咲くように笑い、声の主の元へ駆け寄る。雨に濡れて落ちる長い前髪をかきあげながら、シンさんは足元に群がる子どもたちを制止する。
「ああ、だめだめ。飛びつくな、濡れるぞ。すんません、拭くもん……、って何?ケイ、泣いてんの?」
「……泣いてないよ!」
シンさんの登場に思わず真っ赤になった顔を上げてしまったケイは、慌ててごしごしと目元をぬぐう。
「いやいや、泣いてるじゃん。ケイ兄ちゃんかっこわるー」
「かっこわるー!」
「わるー!」
「かっこわるくない!」
シンさんは、年少の子たちを巻き込んでケイの泣き顔をからかう。一方で、ケイの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、元気づけることも忘れない。ケイは頭を撫でる大きな手を払いながら、やがて顔をほころばせる。
僕には、シンさんという人がよくわからない。それでも、子どもたちに接するときのシンさんが好きだった。
乾いた手拭いを渡すと、ベンチに腰かけたシンさんに子どもたちは群がり、彼の頭を拭くのを手伝う。
「いてて、いたいいたい、ハゲたらどうすんの。優しくしてよ」
「ハゲちゃえ!」
「ハゲ!」
「ハーゲ!」
「んだあコラ!」
シンさんは一人をとっ捕まえると、全身をくすぐる。
「きゃはははは!」
「ぼくもー!」
「あたしもー!」
「何で?くすぐられたいの?」
「きゃはははは!」
シンさんは、ほとんど毎日こうして教会にやって来る。副騎士長という立場のこの人が、暇であるはずはない。それでも、日を空けず教会の様子を見に来てくれることは、とても心強かった。
家族が迎えに来るまでの間、子どもたちが寝に入ると、僕はシンさんからいろいろな話を聞いた。
「まあ、予想はしてましたけど反応が厳しいですよ。事件前にステルラに来た連中も取り調べてますけど、こちらはほぼ無関係……。信ぴょう性の薄い目撃証言に振り回されるわ、街の連中も騎士団の連中もピリピリしてます。どうにもよくない状況ですね」
「……まだ全然手がかりはつかめてないんですか?」
「困ったことに確かな手がかりは全く。見張りの騎士の話もあてにならないし、深夜のことですから、不審な人物が出歩いていれば、見回りの目に留まらないはずはないんですがね……」
「そうですか……」
僕はベンチに固まって眠る子どもたちに目をやった。同じような光景を、コルファスで何度も見たことがある。
コルファスには孤児院には、事情があって親元にいられない子どもや、捨てられて親を知らない子どもたちが預けられる。形のない不安を共有するように彼らは体を寄せ合った。
僕は自分がもどかしい。
「……ここにいると、嫌になりませんか」
ふと、シンさんが澄んだ声で言った。シンさんを見ると、その横顔も、子どもたちの方を見ている。口元に、冷たい笑みを形作って。
「この街の人間は、来ないでしょう、教会に。子どもたちも、信仰心があってここに来てるわけじゃない」
僕は首を傾げた。
大人たちがほとんど姿を見せないことは、ここでマリアさんが亡くなったからだろう。
子どもたちは、始めこそ祭壇のリナムクロスに興味を示していたが、何度も来るうちに見向きもしなくなった。しかし、三年前会が封鎖された頃は、一番年長であるケイもまだ随分幼かったはずだ。信仰心が根付いていないのも無理はない。
教会に訪れる人がいないことを、僕はそう納得していた。それ以外に、何か理由があるのだろうか。
「どういう意味ですか?」
「この街には神はいない。必要なかったんです。英雄がいたから」
シンさんの水晶のように澄んだ薄い青の瞳は、どこか遠くを見るようだった。もう手の届かない、遠い記憶を。
「リヒャルト=ウルブリヒト……」
喉の奥で震えるようにしてつぶやいた名は、もはやこの世にはいない人のものだ。
騎士の物語を聞いて育つ騎士の国の子どもたち。
彼らが信じるものは、神ではない。
英雄と讃えられ、誉れ高く、誇り高く生きた騎士だ。
「……それはそれで、いいんじゃないでしょうか」
僕は言った。シンさんはゆっくりと僕の方を向いた。
「信じることで救われるなら、それが神でも、英雄でも」
それは、本心からの言葉だった。しかし、シンさんは笑った。艶やかな声に、毒を孕んで、けたけたと笑う。
「本気でそう思うんですか?」
「……どうしてですか?」
「神と英雄の違いはなんだと思います?」
「……違い……?」
「リヒャルトは死んだんですよ」
僕は、心臓を鞭で打たれたような思いがした。
神は死なない。永遠なのだ。
でも、ヴェルナーさんのおじいさんは亡くなった。
そして今、この街は信ずるものを失ったのだ。
「すみませ……」
「別に謝ってもらうことじゃないですよ」
シンさんは笑っている。でも僕は、その美しく、彫刻のような笑みが怖いのだ。
「ごめんなさい。本当に、そう思ったんです。子どもたちを見てたら、本当に、シンさんが来たときにはすごくうれしそうにするから……。だからきっと、あの子たちにとっては、シンさんや、……ヴェルナーさんが、一番信じられるものなのかもしれないって」
「冗談じゃない」
シンさんは、冷ややかに言った。
「おれたちはちっぽけな人間ですよ。嘘をつくし、ごまかすし、間違える。神よりもずっと近く、手を伸ばせば届きそうなのに、伸ばされた手に気付くことすらできない。そんなものを信じて、必死にすがって拠り所にしたって、死んでしまえば失われる。そして破滅の道を突き進む……。それが今のステルラですよ」
僕は、シンさんの顔を見る。彼は変わらず笑っている。
でも、温度がない。
子どもたちを花開くように笑わせるこの人には、破滅を口にする何かが共に在る。
――この人は、何かを隠している。
僕は、彫刻のようなシンさんの横顔を見ていた。
僕の視線に気が付いたのか、彼はゆっくりとこちらを向く。
僕はどんな顔をしていただろう。
彼は、憐れむように目を伏せて、また、かすかに笑んだ。
*****
ステルラの住人たちへの取り調べが始まって数日たった夜、王国騎士団総兵長ダミア=ガルシアは、ステルラ公ウーゴ=マラキアメールのもとを訪ねた。
「……犯人は、まだ捕まらないのか……?」
頭を抱え、机に突っ伏すようにして、ウーゴは弱々しく言った。そんなウーゴに、ダミアの答えはにべもない。
「捕まりません。おそらくは無理でしょうな。逃げる時間は十分にあったわけですから」
ウーゴは顔を上げた。そんな動作一つも、胃の痛みに響く。
「……ならばなぜ取り調べを!?」
「逃げられました、では済まないでしょう」
「何を言うのだ!それでどうする!?まさか犯人をでっちあげるつもりなのか!?」
「いいえ」
ウーゴはダミアの顔を見つめた。ダミアはまっすぐにウーゴを見ている。
「……何をしに来た……?」
ウーゴは、震える声で聞いた。部屋を照らすオレンジ色の光が、ゆらゆらと揺れる。それに伴って、壁に伸びたダミアの影が、歪む。
「命令を」
「命令?」
ダミアの目が、鈍く、淀んだ光を放つ。それが自分を見透かすようで恐ろしく、しかし目を反らすこともできない。
「保留にしていたヴェルナー=ウルブリヒトの処刑です」
ウーゴはダミアの目を見つめたまま、黙って首を横に振った。精一杯の抵抗だった。
「ステルラ公、私はメルウィル伯の襲撃を反逆軍の報復と見ます」
「報復だと……?」
「そう、王太子に代わる旗印になりうる存在を処刑せんとする者に対するね……」
「彼は、処刑に肯定的ではなかった……!」
「そんなことは反逆軍にとってみれば知らぬことです」
心臓がせりあがるような圧迫感を感じながら、ウーゴはダミアを見ている。
不審な人物を見た者は誰もいない。領主館には見張りがおり、街のあちこちを騎士たちが見回っていたにもかかわらず……。
そして、そうだ。そもそもおかしいではないか。ダミアの言う通りであったならば、本来狙われるのはステルラの領主である自分だったのではないのか。しかし、襲われたのはクレイグである。ダミアに、否定的であったクレイグが――。
ダミアはゆっくりと歩を進め、ウーゴの執務机のすぐ前に立った。ウーゴは思わず身を引いた。ダミアの蛇のような目は、昏く、ウーゴを捉えている。
「民衆に屈しても、反逆者に屈するわけにはいきますまい……。命令を」
声は重たく沈み、蝋燭の光の及ばない、床に横たわる暗闇に呑まれていくようだった。ダミアは表情を動かさない。
「……なぜ、ヴェルナー=ウルブリヒトにこだわる……?」
かすれる声でウーゴは聞いた。それはずっと、ダミアに対して感じていた疑問だった。
今、この場所でウーゴとダミアは二人きりであった。
ステルラにやって来て三年、ウーゴは常によそ者だった。
気弱な彼は、ステルラの騎士たち、そして騎士団を誇る街の人々に馴染めなかった。騎士たちも、街の人々もまた、マリアの影を追うがゆえにウーゴを受け入れようとはしなかった。受け入れられず、そして踏み込めず、引かれた一線があった。
しかし今、この場所でウーゴとダミアは誰を介すこともなく、何を介すこともなく二人きりだった。
固く結ばれたダミアの口元が、かすかに動いた。昏い目に、ゆらりと、不穏な光が差す。
「……ステルラは……」
そうして、彼は静かに、口を開いた。
「ステルラは英雄の亡霊から抜け出さなければならない……」
その、初めて聞く声に、ウーゴは息を呑んだ。
「……亡霊……?」
「誰もが、誰もが光の下で生きていくことなど……。英雄の街は、かの悲劇で滅んだのです。タグヒュームに赴いた者は残虐を知り、残った者は無力を知った。そしてリヒャルトは、伝説を体現したようなあの英雄は、ゆるやかに死に、去った……!騎士たちがかつて描いた騎士の夢は、打ち砕かれた……。その苦痛に耐える者に、さらに鞭を打ち、そして己が振るう鞭の存在を知りもしない……!それを許すことなど決してできない……!英雄の街は終わった!ここは、騎士の街……、ただ、それだけです」
ウーゴの脳裏を、ある男の影がかすめた。
それはかつて、絶対的継君として、あらゆる期待を、希望を、光を集めた男の姿だ。
ウーゴはそうはなれなかった。決して。
そんな自分を、彼は恥じることしかできなかった。
そして、光の下に立つ者は、その姿を目に止めることもない。
ウーゴは、脱力した。うつむき、目を閉じて、ダミアを見ることをやめた。汗をかいて冷たくなった手の平は、ゆるりと解かれた。
「……だが……、こんな状況で処刑など、取り調べで不満が募っているだろう民衆がどう思うか……」
「いいえ」
ダミアは、窓の向こうに行き交う光を見た。クレイグが襲われてから、ステルラの夜に静寂はなくなった。
「……今に、わかります」
翌朝、ステルラにはマーンカンパーナから使者がやって来た。
しかし、使者が携えた勅書の内容も、存在すら、誰にも明かされることはなかったのだった。