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白い花の歌  作者: タク
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9.湖面の反転

 深緑の瓶は厳重に封印された。次に出された飲み物は、爽やかな果物の香りがした。

「アンゲロさんのお土産だよ」

 アナが言う。トビーは先ほど子どもたちに手渡された赤い木の実を、小さな木の皿に載せ、カップの横に置いていく。アナが水差しをノアに預け、部屋を出て行くと、リリーが口火を切った。

「機会といえば、機会だな」

 リリーは言った。

「機会?」

 ノアが繰り返す。

「ステルラは確かに、重要な拠点と言える」

リリーは言う。

「しかし、少々面倒なことになりそうではありませんか。ステルラの領主は、王妃の甥に当たるのでしょう」

 アンゲロの言葉に、ノアがはっと顔を上げる。

「そうか!この王命って、継君の座を争う対立図につながりますね!」

「……そのようだ」

 リリーは赤い実を手に取り、口に放った。

 トーマも、そうした懸念は抱いていた。ロークが幽閉されて以降、国王は次の王たる継君を指名していない。

現王妃の生んだ幼い親王を継君の座に据えることは、親王の後見であるウェクシルム公ユリエル=ブラックモアの勢力を強めることになる。一方でリリーには、これまでロークがはね除けてきたアレクセイ=ライティラとの血縁が強調されるようになった。

そうした事情が絡み合い、国王は未だ継君を指名せず、それどころか、議会に対しても一切の言及を許していないという。

 その彼が、王妃の血縁であるウーゴをリリーに裁かせようとする。そこに、何らかの含みを感じる者は多くいるだろう。

「……甘いな」

 重苦しい空気の中で、リリーは緊張感もなく果物の感想を口にした。

「姫様、そんなこと……」

「ノア、食べたか?」

「食べてませんけど!」

「ならば食べよ」

 ノアは口をぱくぱくさせて、トビーを見た。その口に、トビーは赤い実を一つ放り込む。

「確かに甘いなあ」

 アンゲロが鷹揚に言う。

「甘いですけど、……甘いですね……。おいしい……」

 王命よりも赤い実の感想が話題の中心になりそうな雰囲気に、トーマが一人取り残されていると、リリーは皿に残った実をまた口に放って、「君も食べろ」と静かな口調で言った。

 トーマは仕方なく、赤い実を手に取り、口に入れた。口に入れた瞬間、甘くみずみずしい果汁が口に広がり、一瞬、全ての神経を舌先に奪われた。

「姫君か弟君か、どちらが次の王になるにせよ、弟君の背後にはウェクシルム王国騎士団がある。そうすると、ウェクシルムと同規模の戦力は、マーンカンパーナか、ステルラにしかありませんな」

 赤い実を味わいながら、アンゲロはあっさりと話題を元に戻す。先ほどから、トーマはアンゲロの物言いに違和感を拭えない。随分と、ベジェトコルの事情に精通している。

「あ!だから“機会”なんですね?姫様は、ステルラをご自身の統治下に置くおつもりなんだ!」

 ノアが表情を明るくする。しかし、リリーはにべもなく言う。

「いいや、ステルラは中立でなくてはならん。少なくとも表向きはな」

「……でしょうなあ」

ノアは足をじたばたさせる。

「どういうことですか?教えてください!」

「……殿下、あなたは継君になるおつもりがないのですね?」

 静かな声で、トーマが問う。その緊迫した声に、ノアはぴたりと動きを止める。リリーはゆっくりとトーマを見やり、笑った。

「私は王にはならん」

「しかし、国王陛下はおそらく、あなたを次の継君にと、お考えです。この勅命こそその証でしょう。陛下は仰せです。王の目を以て見定めよ、と」

「誰が王であるかが、問題か?トーマ=ウルストンクラフト」

 リリーの一言は、一直線に的を射貫く矢のようにトーマに届いた。彼女の表情に、かつての幼い姫の面影はない。トーマは小さくため息をついた。

「……あなたが継君となれば、この国は二つに割れるでしょうね……」

 わかっていた。ウォルドが「新たなる未来」と言ったとき、思ったことはこれである。

 リリーは淡々と言う。

「そうだ。兄上がああなった以上、私は王になるべきではない。この国が二つに割れれば、その大きなうねりはもはや、私の手には負えまいよ」

「でも、陛下の真意は、姫様とブラックモア卿の器の問題なのでは?タグヒューム以来、混乱を極めているこの国を担うだけの……」

「過ぎたことを言うものではないよ」

 ノアの言葉を、リリーは柔らかくたしなめる。この少年は、悪気無く思ったままを口にするようだった。

「私は別に何を諦めているわけでもない。王になるべきではない。そう言っただけだ」

「だって、でも、姫様が王にならなければ、親王殿下が王になって、そうなればブラックモア卿が……」

 ノアは、もどかしげにまた手足をじたばたさせる。リリーはほほ笑んで、目を閉じた。これ以上この話題を続ける気はないらしい。

 トーマは考える。確かに、「継君」という肩書きは、現状の彼女の立場からすれば、むしろ無用な敵を作るものでしかないのかもしれない。肩書きは、わかりやすく権威を表すこともあるが、今、彼女を守るものにはなり得ないだろう。だとすれば、何をすべきか。

「……機会、か……」

 トーマの小さな呟きに、リリーは目を閉じたまま笑んだ。若々しく、濁りのない、聡明な笑みだった。

「……では、もう一つ、陛下からの伝言を」

 トーマは言った。リリーは目を開ける。トーマはゆっくりと立ち上がると、リリーの側に跪く。

「何の真似だ」

 リリーは椅子の上で体を避ける。正直な反応に、あるいは全くの演技かもしれないが、トーマは笑みが浮かびそうになるのをこらえ、彼女を見上げた。

「私は、全てを捨てたつもりでルドビルにいながら、陛下とリヒャルトに守られていました。……あるいは、あなたにも、ヴェルナーにも、マリアにも……」

 リリーの表情がにわかに険しくなる。

「私は放り捨てようとしていたものを、引き止めるものがあると……。あなたが連れていた神官が教えてくれました」

「……ジウと、会ったのか?彼は無事か?今、どこに?」

「ステルラにいます。……無事ですよ」

 トーマは柔らかく笑んだ。リリーは一瞬安堵したようだったが、すぐに複雑そうな表情を浮かべた。渦中のステルラにいるということは、彼がこの一連の出来事から身を引いていないことを意味している。

「内親王殿下」

トーマは、彼女の目をまっすぐに見上げて言った。

「まだ私を、最初の臣下だと思ってくださいますか」

 ジウが伝えたリリーの望み。青碧の瞳が、わずかに揺れた。

 トーマは思う。八年前、同じように彼女に跪いたとき、何を思っただろう。その約束に何か、覚悟があっただろうか。誰かに、何かに仕えることの重みなど、知らなかったのだ。

「かつての望みのままに、私をあなたの側に置いてくださいますか」

 それでも、リリーの前に跪き、トーマは彼女の歩む未来を思った。契約とも言えない、幼い約束であれど、真心から果たされたことは確かだった。そして、それが彼を生かした。

「……次はないぞ……」

 震える声で、彼女は言う。

「要りません。この命が果てるまで、生涯を尽くし、この身と、魂の全てを以て、この一度きり。御手に、誓いを聞き届けて下さるなら」

 リリーは、暗闇を探るようにして右手を差し出す。

 トーマはリリーの手を、そっととる。白く滑らかな手の甲から伸びる指は、細く、華奢だ。また、この手に彼女がつかもうとしているものを思う。幼い夢は、もう叶わない。よほど険しく厳しい道を、彼女は凜と、歩み始めている。

「……太くなりませんでしたね」

 トーマは、小さくほほ笑んだ。

「……そんなのは嫌だと言ったのは君だ……」

「はい、ようございました」

 遠い昔の思い出を、窺いながらなぞるように、二人はぎこちなく笑い合う。

 トーマは、彼女の細い指を握りしめる。その力に促されるように、契約の言葉は交わされる。

「忠節と献身には、信頼と誠実を以て返そう。裏切りには……」

「死を」

「誓いは果たされよう……、トーマ=ウルストンクラフト」

「我が王。感謝します」

 トーマは静かに、その手に口づけた。

 その始終をずっと見ていた老人が、にっこりとほほ笑んで、新たな契約を祝福した。




 その晩、スタウィアノクト城では宴が催された。城に集まった人々は、笑い、踊りながら銀のジョッキを打ち鳴らす。

 その様子を、トーマは居館のバルコニーから遠巻きに眺めていた。そこへトビーがやってくる。両手に肉と野菜の載った皿と、杯を被せた水差しを持っている。

「いかがですか」

「……どうも」

 トーマが皿を受け取ると、トビーはにっこりとほほ笑んで、水差しのワインを杯に注いでくれる。

「収穫の宴、随分賑やかにやるんですね」

「ええ。姫様が領主となられて、農地を広げましたからね。明日からはマノックの男手も借りて、総出で収穫作業が始まります。精をつけねばなりません」

「リルが領主となったことが、この街を変えた?」

「そうですなあ。姫様がこの街を変えたとも言えますし、この街が姫様を変えたとも言えます」

 トビーは、ワインを注いだ杯をトーマに手渡す。受け取ると、またにっこりと笑む。

「……あなたはもっとお怒りかと思っていました」

 ぽつりと言うと、トビーは片方の眉をひょいと上げて、心外だという顔をしてみせた。

「私の寛容を随分小さく見積もっておいでだったのですね」

 その返答は、トーマには予想外だった。厳格な祖父のようなトビーが、彼に戯れの言葉を投げかけることなど、これまでにはなかったのだ。思わず緩みそうになる口元をごまかして、うつむいた。

「あなたが姫様を拒絶したことは、必要だったのでしょう。あなたのためにも、姫様のためにも」

 穏やかな声で、トビーは言った。その言葉が、胸に刺さる。こみ上げた熱を何とか堪えて、トーマは顔を上げた。

「……確かに、小さく見積もったようです。感謝します。マロリー卿」

 トビーは黙って笑んだだけで、背中を向けた。彼の背中が柱の陰に消えていくのを見送って、再び宴に目をやった。

 楽しげに話す声。笑い合う声。歌う声。食器を鳴らす音。

 目を閉じてそれらの音を聞いていると、ステルラでの日々を思い出さずにはいられなかった。騎士たちは、賑やかな宴を好んだ。大きな戦いの後には、マリアが宴を開いてくれた。領民たちが酒や食べ物を持ち寄ってくれたこともあった。

 あの日々は、今のステルラにあるのだろうか。クレイグと話した夜を思い出す。

 そんなことを思っていると、背後に何かの気配を感じた。振り返ると、ちょうど赤い実が飛んでくるところだった。とっさに受け取り、飛んできた方を見ると、リリーが立っていた。

「……気付いたか」

 リリーは小さく舌打ちして、トーマの側にやってくる。

「それもアンゲロの土産だ。スタウィアノクトの果実もうまいが、アンゲロが持ってくる果実は別格だぞ」

 手に取った果実は、手の平ほどの大きさで、ふっくらと赤く、甘い香りがする。一口かじると、甘くみずみずしい果汁が口に広がる。思わずうなるほどの味だった。

「……ジウはステルラにいるのだな」

 リリーは宴の方に目をやって言った。しかし、宴を見ているわけではないのだろう。

「ええ」

「……無事でよかった」

 彼女にしては頼りない、ささやくような声に、トーマはリリーの横顔を見た。伏せた睫毛がかすかに震えている。その姿は、まじまじと見てはいけない気がした。

「一応……、おれが戻るまで無茶はしないようにと言いましたが、聞かない気がするんですよね、とても」

 リリーは笑った。トーマは少し安堵する。

 細い銀の髪、金の目、青白い肌……、優しそうに柔らかく笑うその人は、それでいて自ら進んで荒波に乗る。

「君の話が聞きたい。君は今回のヴェルナーの一件を、どう思っているのだ?」

 リリーはトーマを見た。青碧の目には、もうか弱さを残してはいない。 

 その問いに答えるのは難しい。トーマはそう感じた。

 ヴェルナーが反逆者でないことを、彼女は知っている。彼女が聞きたいのは、ステルラでジウが聞いたのと同じ、「なぜ?」という問いだ。

 宴の中で大きな歓声が上がった。男たちが数人、テーブルの上で肩を組んで踊っている。よく見るとその中に老人が混じっている。両脇を男たちに支えられるようにしながら、意気込んでいる。そして、軽やかなステップを披露したかと思うと数秒で倒れ込み、テーブルの周りに集まっていた人々が一斉に手を差し出す。老人の無事を確認し合うと、また一斉に笑いと拍手が沸き起こった。

「……明日は動けんだろうな」

 リリーがあきれ顔でつぶやいた。

 トーマはその光景に、かつてのステルラにあったはずの日常に、胸が塞がる思いがする。

「……マリアを殺した騎士がその後どうなったか、知っていますか」

 リリーは驚いたようだった。マリアの死に関する話題を、トーマが口にすると思っていなかったのだろう。トーマは彼女を見ることなく、宴に視線を向けながら、しかし眼前のその光景を見るわけでもなく、言った。

「彼は死にました。王族を手にかけたのですから、処刑は免れなかった。でも、処刑の日を待たず、自死したんです」

 リリーは表情を険しくする。眉間に深いしわを刻んで、少し悩んだようだったが、意を決したように口を開いた。

「騒動になったとは聞いた。騎士団が身柄の引き渡しになかなか応じなかったと」

「ええ。彼の死が避けられないことは誰もがわかっていたのでしょうが、彼をただの大罪人として引き渡せなかった。だって……」

 バルコニーの手すりに置いた手は、いつの間にか固く閉じられていた。トーマは両腕の間に顔を沈めた。リリーは夜の空に目を向け、独り言のように言った。

「トーマ……、構わんよ」

 トーマは目を閉じた。

 ――だって……。

 誰もが、タグヒュームを自分では抱えきれなかったのだ。

 彼は、タグヒュームに赴いたすべての騎士たちの怒りを、嘆きを映し出す鏡だった。誰しも、彼の中に自分を見ずにいられなかった。彼を大罪人とすることは、自身の罪を認めるようなものだったのだ。

 トーマはゆっくりと顔を上げた。

「……ステルラの騎士たちは皆、英雄に、リヒャルトに憧れていた。でも、タグヒュームに赴いた者たちが、再びそれを夢見ることはどんなにか難しかったでしょう。リヒャルトの姿は、どんなにか、まぶしかっただろうと……」

 リリーは、ヴェルナーのことを思い出していた。

 ヴェルナー=ウルブリヒト。破天荒な英雄の孫。ステルラで、彼はきっぱりと、真っすぐな目をして言った。

 ――ステルラ王国騎士団に属するがゆえでもなく、ウルブリヒトの名によってでもなく、この志、魂ゆえに、騎士であればいい。

 あれは、あるいは彼の答えだったのかもしれない。

 ……そうだとしたら。

「それが、ダミアがヴェルナーを排除しようとする理由か?」

 トーマは少し驚いたようだったが、困ったように、一瞬うつむき、また顔を上げて、言った。

「あいつは……、強すぎる。そして、弱すぎるんです」

 矛盾するその言葉は、しかし核心をついているように、リリーには思われた。

「……ただ」

 トーマは、バルコニーの白い石の床に目線を落とす。彼はクレイグと話してから、ジウに問われてから、ずっと考えていた。

「おれは、リヒャルトの死が、何かの引き金を引いたようにも思える」

「引き金?」

 リリーは繰り返す。

「それは、ダミアの中の、か?」

 トーマはうなずいた。宴の明かりがおぼろげに照らす輪郭は、松明の炎と同じ色をしている。

 クレイグは、彼がタグヒュームに傷ついた騎士たちの代弁者であると言った。それはその通りかもしれない。だが、彼はタグヒュームには行かなかったのだ。騎士たちへの同情は、言うなればただの感傷にすぎない。

「おれには、ダミアが王命に手を出し、その先に何か明るい展望を抱いているとは思えないんですよ」

 ヴェルナーを排除し、英雄の影が消える。傷ついた騎士たちは安堵するだろう。

 これでもう、自分を傷つける者はいない。

 もう大丈夫、大丈夫……。

 トーマは宴の笑い声を聞きながら、顔を歪める。

 そうして赤子のように背を丸め、自分の体を抱きながら眠るのだろう。

 かつて、マリアを手にかけた騎士がそうしたように。

 絶望の、縁で。

 トーマの姿を、リリーはじっと見つめていた。彼が唇を噛み、うつむくと、自分よりも背の高い彼の首をそっと引き寄せ、彼を抱いた。

 その傷をすら、吞み込まねばならないのだと、思いながら。

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