1.邂逅
揺れる馬車は王都へ向かっている。
僕は今年で十八になるが、王都へは一度も行ったことがない。――否、この世界で僕が知っている場所など、育った場所である聖都コルファスだけだ。
僕は今日この日まで、コルファスを出たことが一度もない。
向かいに座っているジェロームが、いつも通りの静かな声で話し始める。
「騎士の国ベジェトコル……。その昔な、この国がまだ王様の国だった頃の話だ。戦争に負けて、傷を負った王は、最後の場所に玉座を選んだ。それで、一人の騎士に言うんだ。『お前は騎士たる務めを果たせ』とね。玉座に座り、そのまま息絶えた王の躯を、騎士は誰にも触れさせず守り通した。今の国王はその騎士の子孫なんだそうだ。ウォルド=ウェルグローリア。だからこの国は『騎士の国』。この昔話、面白いと思うかね?」
ジェロームはいつも、こうしてぼくに感想を聞く。しばらく考えて、僕は首をかしげる。
「騎士の務めを果たして、騎士が王様になったの?」
問うと、ジェロームは僕の顔をちらりとみて、微かに笑む。
「なんか変だね」
ジェロームは満足そうに口元に笑みを残したまま目を閉じた。これもいつも通りだ。彼はこうしていつも、僕にいろいろな話をしてくれた。
僕には知らないことが多い。知らないことが多い僕には、考えたことがないことが多い。
窓の外を見る。いつもは高く視界を遮る山々が、遠くに見える。僕たちは、広がる草原の道を、王都へと進む。コルファスを出て四日目になる。
遠く、渦巻き貝のような形をしていた王都マーンカンパーナは、近付くほど不鮮明で、ただの石の壁になっていった。
ものものしい城門で門兵に教会の通行証を見せると、すんなりと中に入れてくれた。
「まったく楽でいい」
そう平然と言ってのけるジェロームには、神に仕える身でありながら信仰心の欠片も見えない。それもまたいつものことだ。僕とて人のことが言えるわけでもない。
城門を抜け、王都に入る。瞬間、明るい街の喧騒に飲み込まれる。
僕の印象では、僕たちの住むコルファスはとても静かな町だ。静かで、そしてどこか、寂しい町。後半については僕の主観が反映されているかもしれないが、とにかく静かであることは確かだ。
マーンカンパーナは、行き交う人々からは笑い声があふれ、立ち並ぶ店は道行く人を明るく誘う、活発な街だった。僕には何もかもが珍しい。
馬車の窓に張り付いたまま目を離せないでいると、ほんの一瞬、建物と建物の間に暗い影が見えた気がした。なんだろうと過ぎ去った方を眺めるが、すぐに見失った。
ジェロームが懐から取り出した紙にペンを走らせながら言った。
「俺はこのまま教会に行くが、お前は宿で降ろそう。好きに見てまわればいいさ。宿の名前を書いておくから、なくすなよ」
小さな紙切れに書かれた宿の名前らしき文字列を目で追って、なくさないよう懐にしまう。自分の欠点は自覚している。
「仕事は手伝わなくていいの?」
問うと、ジェロームは緩やかに笑う。
「そういう名目で連れ出しただけさ。いつも一人でやる仕事だ」
馬車を降りて、宿の看板の色と形を記憶する。荷物は馬車に載せたままにしておいたので、宿には入らずそのまま歩き出した。
どこからかいい香りがしてくる。神官が買い食いだの食べ歩きだのは外聞が悪いだろうかと考えながら、立ち並ぶ店を眺めて歩いた。
*****
その日、渦巻き貝の天辺にある王城ではちょっとした騒動があった。
その部屋には本が散乱し、繊細な細工が施された調度品や天蓋つきのベッドも、もはや物置きにしかなっていない。
女性のものとは思えないその部屋の、重厚な扉の前には、後頭部を打ちつけて脳震盪を起こしたらしい兵士が一人。おまけに制服をはぎ取られていた。
しかし、問題は兵士の不運ではなく、部屋の主人が姿を消したことにあった。
見回りの兵士から報告を受けて、黒髪の青年は、特に慌てる様子もなく、書類が山積した机に片肘をついたまま、軽くため息をついた。その長い髪の色と黒檀の瞳は、彼が異国の者であることを示している。
「ボクの仕事は国政の補佐であって、子守ではないはずなんだけどね」
青年の背後に控えている、くせっ毛の副官が口を開いた。
「シンハ・ギリに探させようか。マロリー卿が発狂しそうだ」
シンハ・ギリとは、隠密行動を得意とする青年の私兵団だ。ベジェトコルの正規軍ではないが、王を始め、その存在を知る者の間では、ほとんど正規軍と同等に認識されていた。
「マロリー卿」は二人が話す部屋の向こうで、昇天しそうな勢いで第一発見者を罵っている。冗談ではない。七十代も後半にさしかかった老騎士だ。その声を聞きながら、彼は苦々しく笑う。
「そこらへんを計算に入れているようで、嫌になるね。じゃじゃ馬め」
これが「ちょっとした騒動」である。
*****
僕の目の前には、珍妙な看板があった。
物珍しさに引き寄せられるまま引き寄せられて、ふらふらと歩くうちに、喧騒はどこへやら、辺りは人気のない原っぱである。
このまま進むと、どうも王城に入り込んでしまいそうだ。しかし、おそらくそう簡単に見学させてはもらえないだろう。すなわちここは事実上の行き止まりだ。
自分の欠点は自覚していたつもりだったが、どうやら思った以上に浮かれていたらしい。おまけにすれ違う人々が、神官服を着ているせいか実ににこやかに挨拶をしてくれるので、照れくさくて妙に焦ってしまい、不用意に道を選択し過ぎたのもよくない。
かくなる上は、ジェロームからもらった紙切れを誰かに見せて、宿屋までの道を教えてもらうしかない。
――誰もいないのである。
さて困ったと、考えても仕方ないが考えるポーズをとってみると、原っぱと道の境目から声が聞こえた。
「くあ~あ……」
誰もいない――、否、あくびの主がいる。
声のした辺りを見ると、木陰に置かれた藁を積んだ荷車の上で、人影が動いた。姿ははっきりしないが、影の大きさと声の高さからして、おそらくは変声期前の少年か、女性だ。
「あの」
「んん?なんでこんなところに神官がいるんだ?それとも神官の恰好をした不審者か?」
随分なことを言う。
口調は男の子のようだったが、のそのそと荷車から降りて、日の光の下に出てきた姿に、一瞬目がくらんだ。実にきれいな、たぶん女性だ。
最初に目に入ったのは、陽の光に透けるプラチナブロンドの髪だ。それはきれいに編みこまれ、頭の後ろで一つに結んである。そしてやはりプラチナにふちどられた青碧の大きな瞳。その形からは少しきつい印象を受けるが、凛として美しい。つややかな薔薇色の頬と唇が、陶器のような白い肌と、プラチナの髪に映える。
これで男の子だったら苦労しそうだなどと、余計な心配をしてしまうほどだ。
それでいて何が「たぶん」なのかというと、その出で立ちだ。城門で見た、門兵と同じ服を着ている。国衛軍の制服だ。女性の兵士もいるのだろうか。
「神官か不審者か、どっちなんだ?」
一瞬、瞳が鋭い光を帯びた気がして、問答に返る。
「神官です、迷子の」
その人はきょとんとした。そして一息置いてから、遠慮のない爆笑をくれた。
「迷子の神官か。初めて見たな」
「はい。ええと、ここに宿をとっていて、できれば戻りたいんですが」
爆笑の副産物である目尻の涙を拭うその人に、僕は懐から取り出した紙切れを差し出す。
「……うむ。では案内してやろう」
その人は紙切れの文字列を一瞥すると、真面目な顔で言った。
「いいんですか?」
「うむ。今、暇だからな」
休憩中なのか、それとも国衛軍には非番でも制服の着用義務があるのだろうか。
少し歩くと、再び喧噪の中に戻ることができた。
「しかし君、あのまま進んでいたら、王城に着いてしまうところだ。神官が王城にくるなんて、約束も用もなければ、不審者が確定するところだ」
「それはよかった。ただの迷子で済んで」
「はははは!」
からからと笑う声は、喋り方が尊大なせいもあってか、少し幼く聞こえた。その声がなんだか可愛らしいので、気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「ところで、あなたは女性ですか?」
「失敬な」
「すみません」
「女だ」
「女性の兵士もいるんですね」
「制服を拝借しているだけだ」
なるほど。どうやら国衛軍の制服を着た一般市民らしい。しかし、それこそ不審者じゃあないか。
「見ろ、あそこに白い建物があるだろう」
彼女が指さした先には、白く壁を塗られた建物がある。その入口付近に看板があって、兜と旗が描かれた紋章が刻まれている。
「あれは国衛軍の紋章、それを掲げた白い建物は駐屯所だ。次に迷うことがあったらあそこを訪ねるといい。本来国衛軍の仕事ではないが、道に迷った神官その他諸々を導くくらい、仕事でなくとも善行のうちだろう」
こちとら迷い人を導くのが仕事であったはずが。ぽりぽりと頭をかく。
その、刹那。
白から金色が放たれる。
轟音とともに窓や扉を弾き飛ばし、大小の破片を撒き散らしながら放出された金色の光に、思わず目をつぶる。うっすらと目を開けると、辺りは土煙に覆われ、あちこちから悲鳴が聞こえた。ずくずくと、心臓のあたりが痛む。
「マグニソルの御光……」
胸を押さえて、僕はつぶやいた。あの金色の光は、そのはずだ。コルファスの教会で、僕はあの光によって洗礼を受けたのだ。光の世界の女王たる、マグニソルを象徴する太陽の色。
はっと気が付いて、辺りを見回す。彼女がいない。土煙の中をむせながら駐屯所の入口に駆け寄ると、彼女は建物の中にいた。
ばらばらと砕けた石や木片が落ちてくる中で、直撃を受けたらしい兵士を抱きかかえている。
「誰か医者を!巡回している国衛軍の者にも伝えろ!」
集まり始めた野次馬の中から数人が駆け出す。彼女はマントの端を破り、手際よく応急処置をする。
「死んではならんぞ!すぐに医者がくる。大丈夫だ」
そう言って、怪我人の手を強く握った。怪我人は、わずかではあるが反応を返した。彼女はほほ笑み、もう一度しっかりとその手を握る。
ばたばたと医者が駆け込んでくる。医者に兵士を預けると、彼女はすっくと立ち上がって入口とは反対側の窓から飛び出していった。
「反逆軍……!」
かみしめるような声で彼女が言う。
「反逆軍って?」
「なぜついてきている!?」
なぜかと問われれば、思わずとしか答えようがない。僕は彼女の後を追って走っていた。
走り出た先は裏路地だ。どことなく、馬車の中で見かけた暗闇の気配を感じた。
「反逆軍っていうのが、あの駐屯所を?」
彼女は何か言いたげにしていたが、言葉を呑みこんで前を向く。僕たちは走りながら話した。
「そういうことだ。反逆軍が潜んでいると、情報はつかんでいたのだ!」
「どうしてあんなことを?」
彼女は眉をひそめる。
「この国に不満があるからに決まっている」
「不満?」
「不満さ。二年前、“タグヒュームの悲劇”によって、騎士の国たるベジェトコルはもはや滅びたと、そう言うのだ」
彼女の声は静かだったが、その奥底に秘められた強い怒りを感じる。
「タグヒュームの悲劇」――、東方の国境に位置するタグヒュームで、神の眷属たるネムスの民との争いが起きた。そのことだったと記憶する。
しかし、それがなぜベジェトコルが滅びたということになるのか、僕にはよくわからない。
走り着いた先は、道がなかった。正確には、その先の道が崩れ落ちているのだ。
飛び降りると、そこは戦いの跡が残るかつての王都の残骸だ。ジェロームのいうところの、「まだこの国が王様の国であった頃」の王都のことだ。
戦いに敗れた街の一部が、こうして遺されたままになっている。それが絶えてしまった王の血に対する忠誠の証なのか、その一部を遺したまま、騎士の国の都としてマーンカンパーナは建てられたのだという。
瓦礫の中を、僕たちは歩いた。
僕は先ほどの金色の光を思い出していた。あの光は、神輝石と呼ばれる石から放出されるものだ。その名の通り神の御光、すなわち力を秘めた石である。
そんなものを手にするのは、聖職者か魔術師くらいのものだった。しかし最近になって、隣国でその力を武器に転用する技術が開発されたのだという。
僕はあの光があまり好きではない。ざわざわと胸のあたりが沸き立って、落ち着かないのだ。武器として使われたのは初めて見たが、なおさら気に障る。
ふと、彼女の手が僕の行く手を遮る。彼女の方を見ると、もう片方の手が、腰に提げてある剣にかかっていた。その横顔が張りつめている。何かあるのかと、僕はあたりをきょろきょろと見回す。
すると、柱の影から人影が現れた。
「神官に、国衛軍の女兵士?ちぐはぐだな。それとも臨終の祈りの準備まで整えて来たってことか?」
人影は、若い男だった。二十代の半ばくらいだろうか。三十には見えない。
続いて、瓦礫の影からぞろぞろと男たちが現れる。皆同じくらいの年代のようだ。僕たちは十数人に囲まれた。誰の手にも、L字型の筒のようなものが握られている。先が揃ってこちらに向けられていることから、どうやら件の武器らしい。
彼女はそんな彼らの姿を見て、鼻で笑った。
「ふん、随分立派な姿じゃないか。謀叛者どもめ」
口元は笑っているが、目は全く笑っていない。片手も剣にかかったままだ。十数人のうちの一人が反論する。
「謀叛などではない!我々はこの国の過ちを告発する者だ!」
他の男たちも声を荒げる。
「この国はもはや騎士の国ではない!信義は失われたのだ!タグヒュームの悲劇によって、この国は汚れたものになった!」
僕の頭には疑問符だ。
聖都コルファスはベジェトコルの国内にあるのだが、教会に属する都市だ。国政には原則として関わらない。僕自身の無知も相俟って主張の意図するところがわからない。
彼女は呆れたように彼らを見回して言う。
「ならば君たちはなんだというのだ?国を倒し、新たなる国を建てるか?それもよかろう。その手に持つものから察するに、次は神の国か、それとも魔術師の国かな?」
「愚弄するか!」
「伏せろ!」
彼女の声に従ってしゃがみこんだ頭上を、金色の光が通っていった。背後で瓦礫の崩れる音がする。
彼女はどこへ行ったかと見回すと、一人が叫び、右手を押さえてうずくまった。押さえられた右手からは血が流れ出している。
「愚弄するか、だと?」
うずくまる男の頭上で、冷たく表情をなくしながらも鋭く瞳を光らせて彼女は立っている。それは深く、冴え冴えとした怒りだった。
「愚弄しているのはどちらだ。騎士の国たるこのベジェトコルが、滅びゆくのを憂うというなら」
「貴様!」
再び彼女に向けて金色の光が走る。しかしそれは彼女の髪を少し焼いただけだ。引き金を弾いた男は、一瞬で間を詰められた。
「剣を取れというのだ!」
男は剣の柄で顎を激しく打ち上げられ、背中から倒れ込んだ。
その言葉の意図するところなら、僕にもわかるような気がした。
神輝石は、神の力をもたらす石。それは騎士と呼ばれる人たちが、あるいは眼前の彼女が、剣を手にして持ち得る力とは、種類が異なるものだろう。聖職者や魔術師が神輝石を扱うには、ある種の素質と修行が必要だが、彼らはそういうものでもない。
男たちも、みな腰から剣を提げている。しかし彼女の言葉にも、誰一人として剣を取ろうとしない。彼女の言葉に圧倒され、予想外の事態に驚き、狼狽えても、筒を握り締める両手の力を強めるだけだ。
そんなことをしゃがみこんだまま考えていると、突然後ろから引き起こされた。
「動くな!」
彼女はこちらに視線を向ける。叫んだ男の持っている筒は、僕の頭に向けられている。考え事をしているうちにうっかり人質になってしまった。
「動くなよ!こいつを撃つ!剣を捨てろ!」
彼女はこちらを見ている。目線が繋がる。澄んだ目だ。美しい目だ。それに見惚れるほどに、僕は特に焦ってはいない。焦る必要がない。僕は意識して穏やかにほほ笑む。
「捨てる必要は、ないよ」
僕の言葉に、彼女は訝しげに首を傾げた。
「それが君の大事なものなら、捨てることなんかない」
彼女はふっと笑った。
「そういうわけにもいかんだろう」
何て潔いのだろう。剣を捨てれば危機を迎えることは明らかだし、騎士の国たるこの国で、剣を捨てることは単純な行為ではないに違いない。そうだというのに、僕に向けられた笑顔は、濁りなく、清らかなのだ。
彼女は剣の柄から手を離した。剣は鈍い音をたてて、地面に転がった。先ほどまで標的にされていた反逆軍の男が、笑った。優位に立ったという錯覚が、不純な笑いを形成した。
――そう、錯覚だ。
「ははっ、残念だったな!ははははは!」
男は筒を彼女へ向け、引き金を引く。
――撃たせは、しない。
心臓が、じんと熱い。僕は目をつぶった。
金色の光は放たれなかった。
男は数度、引き金を引いたが、筒は反応しない。別の男から筒を奪い取り、同じように試みるが、結果は同じだった。
彼女は首を傾げ、腕を組んで不遜として立っている。その様子があまりにも堂々としていておかしいので、僕はつい笑い声をこぼしてしまった。
「くそっ、くっそお!」
男はついに剣に手をかけた。しかし、剣を鞘から抜き切る前に、男の体は脱力し、前のめりに倒れた。
彼女は動いていない。視界に黒い長い髪がひらめいた。
「遅い!」
彼女は言った。僕は黒髪の主を見る。真っ黒な瞳と目が合った。その目をどこかで見た気がした。
月のない夜、あらゆるものが混じって生まれる黒。
「グリゼルダ!危うく死ぬところだ!」
彼女は眉を上げて、語気を強めた。「グリゼルダ」と呼ばれたその人は、呆れ顔で応対する。
「死ぬって……、腕組み仁王立ちで何をバカな」
男たちは、あっという間に取り押さえられた。
気配なく現れたのはその人だけではない。顔の下半分を隠した赤いマントの兵士たちが数人――、展開を追う間もなく事は済んでいた。
この時点で、すでに大分事態に取り残され気味だった僕は、次の瞬間、さらに超特急で現実に突き放された。
青年が、直前の暴言などまるでなかったかのようにうやうやしく、彼女の前に片膝をつき、言ったのだ。
「ご無事で何よりにございます、内親王殿下」
「憎まれっ子世にはばかるというからな」
さらに、混乱を極めている僕に追い打ちをかけるかのように、向こうから大変な形相で駆けてくる老人が叫んだ。
「姫様~!」
老人はそのまま膝で滑り込み、彼女の足にすがりついた。
「爺、大事ないか」
「危うく迎えがくるところでございます、姫様!しかし爺は、爺はこのままでは死んでも死にきれんと……!」
「それはよい。長生きしてもらわねばならんからなあ」
「姫様!」
彼女はからからと笑う。
僕の頭には疑問符と驚嘆符があふれかえって目が回る。それは僕だけではない。
「内、親王!?姫!?リリー=ウェルグローリア内親王か!?」
取り押さえられた男が叫んだ。と、同時に、彼女の足にすがりついていた老人の黒いマントの内側から、幅の広い真っ黒な大剣が飛び出した。
「ひッ!?」
「下賤が口にしてよい名ではないぞ!」
男の喉元に剣先を突きつけて、地を這うような声だった。ぞっとした。
「さて、グリゼルダ、まだ用があるのだが」
「冗談じゃない。すぐに帰城せよとの国王陛下のご命令だよ」
「何、それはいかん。では私の代わりに君が用を済ませてくれような」
「……麗しき姫君の命とあらば」
「迷子の神官を宿まで送り届けてほしいのだ」
混乱を通り越して、何も考えられなかった。ぼんやりと立ちつくす僕の前に、彼女がやって来る。
「まだ名前を聞いていなかった」
彼女は僕の顔を見上げて言う。
「……ジウ。ジウ=シガン」
ぼんやりしたまま答えると、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「そうか。私はリリー=ブランヴィータ=ウェルグローリアという」
「……それは、聞いたよ」
反逆軍の男が彼女の名をそう言った。
レイジュは片目を細める。
「私が自分で名乗ることに意味があるのだ、ジウ」
彼女が初めて「僕」の名を呼んだ。
そう、それは「僕」の名だ。お腹の辺りから湧きあがるような高揚感に、体温が上がる。
そしてまた、今までで最も美しく、可愛らしい笑顔を浮かべて彼女が言うのだ。
「また会えるだろうな?」
僕の顔は真っ赤になっていただろうと思う。これはなんだろう。熱を孕む気持ちを抑えて、僕は言った。
「もちろん。また、お目にかかります。リリー=ウェルグローリア、内親王殿下」
するとリリーはにやりと笑うと、片手で僕の襟をつかみ、顔を引き寄せて囁いた。
「あのとき、お前、何かしただろう」
間近でみると、彼女の青碧の瞳に吸い込まれそうだ。僕はふっと笑う。
「さあ、いつのことでしょう?」