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白い花の歌  作者: タク
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4.幸福で安全だった時代は歴史の上では白紙になる

トーマがマーンカンパーナに辿り着いたとき、もうすっかり日は暮れていた。王城の門は閉まっていたが、門兵にクレイグの手紙を渡し、取り次ぎを頼んだ。それから宿をとり、体を少し休ませようと、ベッドに横になった。ステルラから一睡もせずに馬を走らせたのだ。

 二時間ほど経った頃、夜の静寂に、何かの気配がして目を覚ました。

「もし……」

 ぎょろりと見開いた目が、トーマを覗き込んでいた。

「うっ……!」

 トーマは、ぎょっとして声をあげ、思わずベッド脇に置いた剣に手をかけた。しかしすぐさま、すさまじい力で手首をつかまれる。

「……あなたは」

「はい、宰相殿の副官、ジリアンと申します」

 ジリアンの表情は、剣に伸びた手に素早く反応した時でさえ、ぴくりとも動かない。爬虫類のような大きな淡い碧の目は、いつも見開かれたまま、瞬きをするのを見た者はない。散らかった黒髪が暗闇に紛れ込み、ただでさえ不気味な目が存在感を増している。

「……それは、知ってます……」

 トーマはげんなりして言う。そうではなく、一体いつの間に、どうやってここに、ということを問いただしたかったのだが、聞くだけ無駄な気がした。何しろあのグリゼルダの右腕なのである。

 ジリアンは、トーマの覚醒を確認すると、すたすたと出口へ向かった。扉の手前で、操り人形のような奇妙な動作で振り返り、じっとトーマが起き上がるのを待っている。人間らしさの一切をそぎ落としたようだ。背中から見えない糸が伸びて、それをグリゼルダが満足そうな笑みで操っている……、そんな不気味な想像をしてしまう。

「……一体」

 トーマが口を開こうとした瞬間、ジリアンは言った。

「国王陛下がお呼びです。疾くご準備を」

 トーマの心臓が跳ねる。慌てて飛び起き、髪をまとめ、身なりを整えた。

 宿の外には、馬が用意されていた。ジリアンの後について夜の王都を駈け抜ける。ちりちりと、指先が痛んだ。

 王城に入り、最初に案内された小部屋で、もう一度服装を整えなければならなかった。きれいにまとめ直された髪を青い紐で束ね、清潔な服に身を包んだトーマを、ジリアンは意図の読めない目でじっと見ていた。

「では……、参りましょうか」

 ジリアンは口だけを器用に動かして言った。

 城内の廊下を歩きながら、最後にここを歩いたのはいつだったかと、トーマは思う。王国騎士団に異動してからは、マーンカンパーナを訪れることはほとんどなかった。

 それでも、よく覚えている。お転婆な姫を探し回って、幾度も歩き回った廊下だ。

 天井や床の隅に暗闇を残して、蝋燭の明かりが揺れる。人の気配はほとんどない。

 ――何としてでも、ヴェルナーの命を助けてもらわなくてはならない。

 ヴェルナーが反逆を犯していないという証はない、とクレイグは言った。状況としてはそうだ。理解している。それでも、ヴェルナーが反逆を犯していないということは、トーマには疑う余地もなく真実だった。

 ヴェルナーという男は、どこかに属する、ということをしない男だった。

 「しない」のか「できない」のかということは、本人にそういった願望が存在しないのだから、問題にする意味がない。ヴェルナーを取り巻くすべては、それぞれが彼と一対一に向き合っている。ウルブリヒトの家にも、王国騎士団にも、あるいはベジェトコルという国にも、彼は属してはいない。

 つまるところ、ヴェルナーには反逆という考え自体が浮かばない。反逆とはそもそも、どこかに身を置くという前提のもとにしか成り立たない。そんな男が、仮に何らかの不満を抱えていたとして、思いつくのはせいぜい「国王に直談判」程度のことであろう。

 反逆の同志を求めてルドビルへ向かうなど、彼には到底考えられない。

 ――しかし。

 助命を請う自分自身に、懸念があった。指先を焦がすような不安を押し殺しながら、長い廊下をジリアンに連れられて歩く。

 案内された先は、謁見の間ではなく、王の執務室である。

 ジリアンは数回扉をノックし、返事を待つことなく勢いよく扉を開けた。そんなノックは無意味だろうと心の中で思いながら、深呼吸をして一礼し、トーマは執務室に入った。

 覚悟を決めて入ったのに、執務机は無人である。ジリアンは、時間を巻き戻すように扉の向こうに吸い出されて出て行った。部屋を見回すと、隅から、張りのないかすれた声が聞こえた。

「おはよ~」

 ひらひらと手を振りながら、革張りの椅子に沈み込み、サイドテーブルに足を載せるその様は、王の執務室で臣下のすることではない。

 声の主は、グリゼルダである。

「……相変わらずですね」

 トーマは、冷ややかに言った。グリゼルダは薄く笑う。

 この男には聞きたいことが山ほどあると、トーマは思った。反逆者のリストを彼に渡したとき、グリゼルダはその目的を語らなかった。しかし、いかにも含みのある物言いに、去り際の一言。

 ――今度は大事なものを守れるといいね……?

 この男は、そう言った。

 そして今、トーマはヴェルナーの命を守るためにここにいる。何もかもを知っていたかのようではないか。それでいて、当人はこうして何もせず、だらしなく座っているのである。

 聞きたいことも、言いたいこともある。だがその薄ら笑いを見るだに、真っ当な答えなど期待できそうにもない。

 ――が、グリゼルダは事もなげに言った。

「リストは役に立ったでしょ?」

 トーマは眉を寄せ、グリゼルダを見る。グリゼルダは、にんまりと笑う。

「なあに、その顔は?もしかして国王陛下の忠実な臣たるこのボクが、独断で君にリストをくれてやったとでも?」

 グリゼルダは両腕を高く天に掲げ、大袈裟な節回しで言う。主君の執務机に足の裏を向ける忠実な臣がどこにいる。トーマは心中で歯噛みした。

 不意に、何かの気配に反応するようにグリゼルダの目線が動いた。彼は両手を下ろし、舞台をかけまわる役目を終えた人形のように、口元を緩ませたまま目を伏せた。

「……リストを渡すように指示したのは私だ」

 隅のカーテンの向こうから声がした。空気が張り詰める。雷に打たれたように、トーマの体中に緊張が走った。

「国王陛下……」

 トーマは身を引き、胸元に手を当てて礼をする。

 カーテンの向こうは書斎になっている。深紅のマントが絨毯と擦り合う音がして、美しい織の施された向こうから、ゆっくりとウォルド=ウェルグローリアが現れた。ウォルドは重たげに体を執務机の椅子の背に預け、深く腰掛けた。

「久しく無音に打ち過ぎ、ご無礼の段、平に……」

「決まり文句などいらぬ。顔を上げよ」

 額に、じわじわと汗がにじんだ。

 一度は忠誠を誓い、しかし果たせなかった相手である。自分にも忠誠心と呼べるようなものがあったのかと、トーマは心中で自嘲する。

 なんとか平静を装い、顔を上げる。

 ウォルドは、トーマを見ていない。重厚な机の天板を、指先でコツコツと叩く。その指先を見つめながら、独り言のようにウォルドは言った。

「……報告を聞こうか……」

 何のことかわからず、トーマは聞き返す。

「……報告、に、ございますか?」

「そうだ。ルドビルで見たもの、聞いたこと、話すべきことを話せ」

 トーマは眉を寄せる。ますます、何を問われているのかがわからなくなった。否、何を問われているか、ではなく、なぜ問われているのか、だ。

 窺うようにウォルドを見ると、今度は彼もトーマを見ている。青碧の瞳の中に、トーマを探る色がある。トーマは思いなおした。ルドビルでのことで、国王に報告しなければならないことは確かにある。

「3年前、ウェクシルム王国騎士団の副騎士長だったランク=キルヒに会いました」

「話したか?」

「はい」

「何を話した」

「彼が反逆軍の一員であること、そして、ローク様に代わる新しい旗印を求めていることを」

 話し始めてみると、不思議と落ち着いた。ウォルドは、椅子の背に預けていた体を起こし、執務机に両肘をつき、口元で両手を組んだ。

「それが誰か、聞いたか」

「リリー内親王殿下の名を」

「それで?」

「かの方はローク様の実妹にあらせられますゆえ、ローク様が捕えられた今、少なからず疑いの目が向けられているはず、と伝えたところ、反逆軍はしばらく地下に潜ると申しました」

「……接触はしていないということだな」

「そのようです」

「ルドビルには、他にも反逆軍に属する者がいると思うか」

「出入りはあるでしょう。表立って動けない者には便利な町です。ただ、留まれば住人の間にすぐに情報が広がってしまいます。そして、それは彼らにとって守るべき秘密にはなりえません」

「反逆軍の本拠地にはなりえない、か?」

「可能性は低いかと」

 どうやら結論である。ウォルドは質問をやめた。しばらくの沈黙の後、ウォルドは手を解き、再び椅子の背にもたれた。

「では……、これを以て貴様のルドビルでの任を解く」

 トーマは眉を寄せる。

「……どのような意味でしょう?」

 ウォルドは、眉一つ動かさずトーマを見ていた。築き上げた揺るがない信頼関係の内に、諦めと侮蔑が同居している。

「三年前、リヒャルトが私のもとへ来た。奴はこう言った。貴様にルドビルの調査を任せたい。そのために、一時的に騎士団から籍を抜いた、とな。」

 トーマは、膝から崩れるような脱力感を覚えた。

 ルドビルでの任務など、トーマにはまったく身に覚えのない話だった。

 しかし、覚えている。三年前、タグヒュームの直前に行われたルドビルの掃討作戦。トーマは、ステルラとウェクシルムの連合騎士団の指揮を任されていた。作戦は不完全に遂行された。トーマは、表通りの奥、神代の森の向こうの調査が必要だと、リヒャルトに報告した。

 その後、タグヒュームの悲劇によってマリアが死に、トーマは騎士団を離れ、ロークもまた、ウェクシルムを去った。そうしてステルラとウェクシルムが協力関係を結ぶことはなくなり、ルドビルの森の向こう、螺旋山に息を潜める裏通りの存在は、うやむやのままになっていたのだ。

 かの老人の笑い声を聞いた気がした。

 リヒャルトはトーマの辞意を受け取らなかったのだ。それどころか、ありもしない任務を以て、今このときまで、トーマの後ろ盾となっていた。そして、目の前の主君もまたそうだ。リストにトーマの名前がない理由。リヒャルトの策略に、彼が乗ったからに他ならない。

「……合点がいったか?」

 ウォルドは問う。

 言葉が見つからず、トーマはただ彼を見つめるしかない。

「しかし、友は逝ってしまった……。この上いつまでも、貴様がルドビルでくすぶり続けるならば、見限るつもりでいた」

 ウォルドの目は、冷ややかにトーマを射抜く。

「……だから、宰相殿にリストを渡すよう命じられたのですね……」

 トーマはやっと、言った。

「そうだ。貴様は生かされた。リヒャルトによって、そしてこの私によってな」

 何もかもを捨てたつもりで過ごした日々すら、生かされていた。

 手渡されたリストには、自分を生かそうとする人間の意志が綴られていた。

 ――情けない。

 トーマは拳を握った。自らを恥じた。

 しかしそれ以上に、力が与えられる思いがして、それもまたじれったかった。

「身の程を知ったか?」

 問いかける国王の目を、トーマはまっすぐに見た。それしか、思いを形にする術がなかった。

「……よろしい。ならばもう一つ、尋ねよう」

 ウォルドは執務机の一番上の引き出しを開き、小さな箱を取り出した。それを机に載せ、蓋を開ける。

「これを、知っていような」

 トーマは、慄然とした。

 小箱の中には、指輪があった。赤い石のついた指輪である。

 それをつけていた細く、白い指までも鮮明に思い出せる。

「釈明するがいい」

 ウォルドは、冷然と言った。

 トーマは口を結ぶ。

 王城に入ってから、否、マーンカンパーナに向かう道すがら、トーマが懸念していたことは、これだった。

「王族の血に触れる無礼を、釈明せよと言うのだ!」

 怒気を孕んだその声に、トーマは歯を食いしばる。

 部屋は、一時、静まり返る。

 ウォルドはトーマを見ている。トーマもまた、ウォルドを見ている。この期に及んで目を逸らすなどできない。痛みに怯え、震える時は去ったのだ。そして今、彼はここにいる。

「釈明など申しません」

 トーマは言った。厳しくトーマを見据える目。その青碧の瞳は、唯一心から愛した人と同じ色をしている。

「何も、赦されなくていいのです。咎人のまま、永久に罰せられていい。釈明など申しません」

 不思議だった。

 ルドビルにいた頃、思い出すマリアはいつも教会にいた。

 惨すぎる死の際にいた。

 しかし今、ステルラの領主として、そして自らの恋人として、生きていた彼女が鮮明に思い出せる。

 ウォルドは、じっとトーマを見ている。トーマは、それ以上は何も言わず、黙って沙汰を待った。




「……くっ」

 沈黙は、あろうことか笑い声で破られた。

 けたけたと笑うのはグリゼルダだ。

「あっははは!愚か者め!」

「……グリゼルダ」

 ウォルドの咎める声も聞かず、グリゼルダは腹を抱え、足をばたつかせて笑った。トーマは、歯を食いしばって耐える。

「一体何をもって己を咎人と言うのさ?君はマリア内親王に触れたことを罪だなんてこれっぽっちも思ってないんじゃないの。君が罰せられていいと思うのは、自分のせいで彼女が死んだと思うからだろう。思い上がりもいいところだ」

 思わず、トーマはグリゼルダを見る。

 グリゼルダは、相変わらずの薄ら笑いで、目を細めた。

「与えた幸福も、与えられた幸福も、咎には値しない。その結末が死であったとして、どうしてちっぽけな人間ごときが人の生き死にを定められるというのか……、ねえ?」

 黒檀の目は、深淵だ。

 一体この男は何者であるのか。ずっと抱えていた疑問が、再び浮かび上がる。

「……トーマ=ウルストンクラフト」

 静かな声で、ウォルドがトーマを呼んだ。

 トーマはウォルドに目線を戻す。

 ウォルドは、椅子に背を沈め、遠くを見るような目で、うつむいている。

「マリアは、幸福だったと思うか?」

 トーマは口を結ぶ。その問いに答えることは、トーマには決してできない。尋ねることはできない問いだ。

 ウォルドは続ける。長い長いため息のように漏れる言葉は、力ない。

「ステルラの領主として、王家に生まれた者として生きること……。それが不幸であったとは言わん。人の上に立ち、導く力が、あの子には確かにあったのだ。しかし、女として、妻として、母として生きる、そこで得る幸福もあるのではないかと、そういう思いもあった……。リアナと共に生きる中で、そう――」

 ウォルドの顔が、歪む。

 怒りのような、悲しみのような、その歪みの正体を、トーマは察した。

 リアナ=ウェルグローリア、トーマが王城にいた頃、王の傍らにいた、ただ一人の女性。

 賢王の妃として、絶対の継君の母として生き、そしてその人は、咎人の娘として死んだ。

 その死は、王によって父とともに裁かれたのだとも、自死であったのだとも、病死であったのだとも言われた。

 真実がどうであるのか、トーマは知らない。

 わかっていることは、彼女が、ウォルドが心から愛し、求めた女性であったことだけだ。

 ほんの少しの間目を伏せて、ウォルドはまたゆっくりと話しだす。

「だが、女として生きるよりも、ステルラの領主として生きることが、王家の娘として生まれた自分の役目なのだと、マリアはそう……」

 遠い記憶の中で、マリアは笑って言った。妹の幸福を想い、良縁を授けようとする兄に、穏やかに、柔らかく、そしてどこか、寂しげに。

 ――もう、十分です。

 体の力が抜けるのを、トーマは感じた。抗いようもなく、重たい喪失感が、体を突きぬけて、立っているのがやっとだった。

 約束は何もできなかった。どこにも辿りつけない恋だった。

 それでも彼女は笑っていた。その笑顔に、寂しさを滲ませながらも。

 こみ上げる熱を、大きく、震える息と共に吐き出す。うつむいた。目を逸らすしかなかった。涙を見られるわけにはいかなかった。

 ウォルドはゆっくりと立ちあがった。そうして、空の白みゆくバルコニーへ向かう。

「トーマ、私は老いた……」

 重たい体をバルコニーの手すりにあずけるようにして、ウォルドは言う。

「タグヒュームから三年……、アレクセイ……、リアナ……、マリア……、そして……。私は、失ったものばかりを数えるようになった」

 ウォルドは遠くを見ている。その先に、失ったもののすべてがあるかのようにして。

「喪失を重ね、恐れが生まれる。恐れれば老いる。私は老いたのだ。亡き友が背負った英雄の名……、それを受け継ぐやもしれぬ若い騎士の命一つ、請け負えぬほどに」

 トーマは、絶対的継君としてこの国の未来を支えた人を思った。その名をウォルドは口にできなかった。

 ローク=ウェルグローリア――、その人は反逆を犯した罪によって、北の果てに幽閉された。タグヒュームの悲劇のために。

「クレイグの手紙は読んだ。ヴェルナー=ウルブリヒトの反逆の罪、真実である証はない……、が、真実でない証もない。それでは話にならぬ。私はヴェルナー=ウルブリヒトを知らん。反逆の疑いありと言われれば、それを軽視することはできん」

「……わかります」

 トーマはやっと顔を上げた。

 ロークの反逆は、混乱と失望を生む一方で、全く別の、大きなうねりを成しはじめている。反逆の火は、灯されてしまったのだ。

「しかし――」

 トーマは歯噛みする。考えても考えても、次の言葉が浮かんでこない。

 ロークを反逆者として裁いた決断の重さを前に、想いだけを語るわけにはいかなかった。

 ウォルドの背に、夜明けが空を赤く染めていく。

 トーマは息を呑んだ。

 ――違う。

 東の地平線は、赤く、赤く、燃え上がる炎のようだった。

「陛下……、きっと私も同じです。失ったものを、思わずにいられない。そうして三年もの時を、恐れ、怯えながら過ごしたのですから……」

 ウォルドがトーマを見る。トーマもウォルドを見ている。

 もはや、二人は主従ではない。それはもう、三年前に崩れ去ってしまったのだ。

 リヒャルトの奇策も、そのほころびを結ぶことはできない。

 しかし、二人は静かに目を合わせている。

「ヴェルナーも同じだったのでしょう。タグヒュームによって、彼だけが何も変わらずにいられたはずはない……。祖父と同じ騎士の称号、祖父の生きたステルラの街。それらのものは、ヴェルナーにとって、簡単に捨てられるようなものではなかったはずです。タグヒュームが彼に与えたものがあるとすれば、私には、それらを捨てたことであるように思えてならない。騎士の称号よりも、ステルラよりも、タグヒュームで失ったものを、引き止めるために走る足を止められなかった。ヴェルナーは、私を迎えにルドビルへ足を踏み入れたのです」

 たったそれだけのものを求めて、そんなつまらないものを欲して。

 それは何て愚かで、純粋な望みだろう。

「私がここに立つ理由は、それ以上にありはしません。三年前、もはや死んだも同じと捨てたものを、拾い上げる人がいた……。ならば再び捨てられるまで、その、望みのままに」

「……ヴェルナー=ウルブリヒトの助命を請うのは、全くの私情だと、そう言うのか?」

 ウォルドが言う。トーマが静かにうなずくと、呆れたように、ため息をついた。

「こうして私の前に立つからには、私を説き伏せる策の一つでもあるのかと思ったのだがな」

 トーマは、小さく笑んだ。

 策など、あるはずがない。この人こそ、多くのものを失ったのだ。

 最愛の妃を、未来を託した子を、タグヒュームの悲劇を引き起こしたアレクセイですら、先王の時代から王家を支え続けた忠臣であったのだ。名君として名を残すはずだった治世は、悲劇とともに語り継がれるだろう。

 それならば想い一つ、それ以外に何があるだろう。

「陛下を前に、いくら策を講じたところで……」

「……戯け!」

 ウォルドは、吐き捨てるように言った。執務机に戻り、引き出しから一通の手紙を取りだした。

 その封蝋の印章に、トーマははっとした。

「ヴェルナー=ウルブリヒトの処刑については……、実は他の者からも報告を受けている」

 幾重にも伸びた枝から、花のように小さな鈴を垂らす樹木。リリーの印章である。

「……読むがいい」

 ウォルドは、手紙をジリアンに渡す。ジリアンは手紙を受け取り、トーマの眼前に不自然に距離を詰め、手紙を両手で差し出した。

 トーマは、ためらいながら手紙を受け取った。


*****


親愛なる父上

 どうか、出過ぎたことを申しますことをお許しください。

 父上は、ヴェルナー=ウルブリヒトという騎士のことをご存じでしょうか。私は、騎士の街ステルラでこの者と会い、話をしました。血の繋がり以上に、かの英雄を彷彿とさせる実直な男です。

 彼は今、王命に背き、そして反逆を犯したという罪によって、命を絶たれようとしています。王命とは、議会が作成した取り調べ者のリストのことです。

 ただ、私の知る限り、彼は自らを騎士にした者を信じ、そしてその身を案ずるが故に、並び立たないものを置かざるを得なかったのです。

 もしも、そうして得るものが新しい剣であるならば、私は何も申しません。

 ですが、騎士としての身分を、称号を、あるいは英雄の孫としての誇りと引き換えに彼が求めたものは、身分によってでも、称号によってでも、生まれによってでもなく、彼の魂を騎士にせしめた者の命だけです。

 私は、その望みに価値を見出したい。

 私は考えます。魂や信頼などという目に見えないものに誠実たらんとすることは、この上なく遠く、果てしない望みであるのではないかと。

 それでも、望みを捨てられないのです。

 どうか、お聞き届けくださいますよう。

                      忠信と、愛を込めて

                               リリー


*****


 それは、細く、美しい線で綴られていた。

 食い入るように手紙を見つめるトーマに、ウォルドは静かに言った。

「この一件……、この国の新たなる未来に懸けようと、私は思う」

 トーマは顔を上げる。ウォルドの一言に、トーマはいくらかの懸念を抱いた。

 それでもその人は、先ほどまでとは違う男に見える。

「真実を見極めるには、常に二つの目が必要なのだ。信ずる目と、疑う目。どちらかを閉じれば、見誤る」

 不意に、トーマの横顔に巻物が差し出された。いつの間に立ち上がったのかわからなかった。巻物を差し出したのはグリゼルダだ。含みのある笑みを浮かべるグリゼルダの手から、巻物を受け取る。

「その巻物を、リリーに届けよ。王たる者として見定めよ、と」

「……陛下……!」

 トーマは巻物を胸に抱え、頭を下げた。そのまま、地に伏してしまいたいほどだった。

「もう一つ」

 頭上から、ウォルドが声を落とす。

「貴様はもはや、私の臣ではあるまい」

 トーマは目を見開く。

「貴様が王と定める者に忠誠を誓え、トーマ=ウルストンクラフト。二度と破られることのない誓いを」

 ウォルドは、静かに告げる。その重みのある深い声に、再び表出した微かな老いが、胸を刺した。トーマはまた、頭を下げた。深く、深く。

 そうして、彼は日の出とともにマーンカンパーナを発ち、スタウィアノクトへと向かった。


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