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白い花の歌  作者: タク
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2.たまゆらの浮き舟

 西の空が夕焼けに染まるのを、ステルラの外れの小屋の前に火を囲んで、トーマさんと眺めた。

「まだ冷えますなぁ」

 小柄な老人が、湯気の立ったカップを持って、小屋から出てきた。

「ありがとうございます、ニーノさん」

 お礼を言うと、老人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑う。失礼かもしれないが、なんだか可愛いおじいさんだ。

「さ、トーマさんも」

 ニーノさんは、トーマさんにもカップを渡す。

「どうも」

トーマさんが受け取ったカップを口に運ぼうとする。ニーノさんはそれをじっと見つめている。トーマさんはカップを膝に下ろし、ニーノさんの顔を見上げた。

 ゆったりとほほ笑んで、ニーノさんは言った。

「きっと、戻ってくると思っていましたよ」

「……そうですか」

 トーマさんは、困ったように笑った。

 ニーノさんは、ステルラの鍛冶屋のご隠居さんだ。

 騎士団御用達の鍛冶屋さんで、トーマさんとも顔見知りらしい。今はお店を息子さんに任せて、この小さな小屋に奥さんと二人で暮らしている。

「……現役時代は、それはそれは恐ろしい人だったんだけどね……」

 トーマさんがこっそりと教えてくれた。

 マロリーさんといい、ベジェトコルの老人たちは、優しそうに見える人ほど曲者なのかもしれない。

「ところで、クレイグさんっていうのはどういう方なんですか?」

 僕はトーマさんに尋ねた。

 ここに着いてすぐ、ニーノさんを通じて、その人を呼び出した。トーマさんは頬をかいた。

「名門メルウィル家の次男で、マリアがステルラの領主として来たときからずっと、ステルラ公の副官の任に就いている。補佐に徹する余り、目立った功績はないが、話してみる価値はある……、と、思うがね」

「その人なら、ヴェルナーさんの処刑を止めてくれるかもしれないんですね……?」

「……そうであれば、できるだけ事を荒立てずに済ませられると思っている」

 僕は何度も頷く。穏便に事が済むならその方がいい。

 僕の反応に、期待するなというふうにトーマさんは苦笑した。

「まずおれの呼び出しに応じてくれるかどうか」

 ぼそりとつぶやいて、苦いものを飲み込むようにカップの飲み物を飲んだ。カップの中身は甘い蜂蜜酒だ。

「……応じてくれないかもしれないんですか?」

 尋ねると、カップに口を付けたまま、ちらりと僕を見て、くぐもった声で言った。

「恋敵だからね」

 その答えに、僕はカップを取り落としそうになった。

 西の地平線が赤い線になっていく。空から、青い夜の帳が降りてくる。

 きれいだと思ったが、口には出さなかった。




 ニーノさんの奥さんが作ってくれた夕食を食べ、客人がいつ来てもいいように、テーブルの上をきれいに片付ける。奥さんは座っていていいと言ったが、僕は何だか落ち着かなくて、手伝っていた方が気が楽だった。

 トーマさんは、椅子に腰掛けて奥の部屋で何かの準備をしているニーノさんと話している。平然としているように見える。テーブルの上を必要以上に拭き上げながら、こういう余裕が僕には足りないと反省した。

 そうして過ごしているうちに、小さく扉を叩く音が聞こえた。

「はい、はい」

 奥さんが、扉へ向かう。

 僕はトーマさんを見やる。トーマさんはばつが悪そうに苦笑して、立ち上がった。

「お客さんですよ」

 奥さんが客人を中に迎え入れた。

 身長が高い。深緑のマントを羽織り、フードを被っている。

 ニーノさんが奥から顔を出して、「やあ、こんばんは」と和やかに言った。それに応ずるように、彼はフードを取った。

 薄茶色の髪をきっちりとまとめ、眉間には深い皺が刻まれている。神経質そうな人だ。グレーの瞳がニーノさんのいる方を見たのは一瞬で、刺すようにトーマさんを見ている。

 トーマさんは深く礼をする。

「……ご無沙汰しております、メルウィル卿」

「さ、さ、こちらに座って、クレイグさん」

 奥から出てきたニーノさんがにこにこと案内するが、笑顔が完全に浮いていた。クレイグさんは、トーマさんから全く目を逸らさない。凍えるような鋭い目で、じっとトーマさんを見つめている。

「……マリア内親王の貴様への思いを思えば」

 その場に立ち尽くしたまま、クレイグさんは口を開いた。トーマさんがわずかに眉を寄せる。

「とうに後を追って死んだかと思っていた……」

 暗い声だった。声を張るわけでもないのに、足下から、お腹の底に響くような声。

 その内容もあいまって、僕は全身が石になる魔法をかけられたかのように硬直してしまった。

 トーマさんは何も言わない。

「さあ、さあ、座ったらどうです。マントも脱いで」

 ニーノさんは場の空気を全く読まないでいてくれる。クレイグさんのマントに手をかけたので、彼は仕方なしと言った様子でマントを脱ぎ、ニーノさんに渡した。

「どうぞ、どうぞ」と言いながら、奥さんがテーブルの上に温かい蜂蜜酒を置いて、椅子を促す。

 二人の存在に感謝した。魔法は解けたようだった。

 クレイグさんは、ニーノさんに背中を押されるようにして、椅子についた。彼が座るのを見届けてから、トーマさんも椅子に腰かける。

 離れていたほうがいいかと思ったが、奥さんが僕の分の蜂蜜酒をテーブルに置いて勧めるので、仕方なく座った。

 緊迫した空気に落ち着かない。誰も蜂蜜酒に手を付けない。カップから漂う甘い蜂蜜の香りも、場の空気を一切和ませはしない。

「呼び出した用件は何だ」

 クレイグさんは、くしゃくしゃになった小さな紙切れを、短剣と一緒にテーブルに投げた。短剣はトーマさんのものだ。ステルラにいたとき、ニーノさんが鍛えてくれたものらしい。

「……先日、ヴェルナー=ウルブリヒトが私のもとに」

 トーマさんは紙切れと短剣を一瞥し、またクレイグさんに目線を戻しながら、静かに答えた。

 クレイグさんの表情が、微かに動いた。反応を探るように、トーマさんはゆっくりと話す。

「妙な話を聞きました。私の名が、王国議会の下した反逆者のリストに載っているとか」

 クレイグさんは、眉間の皺を濃くしたが、鼻を鳴らして言った。

「……何が妙だというのだ。貴様はステルラを捨て、騎士であることを放棄した」

 トーマさんは眉をひそめ、目を伏せた。部屋の隅の布袋に目をやると、ニーノさんが素早く察知して布袋を運んできてくれる。ほほ笑んでお礼を言うと、布袋から巻物を取り出した。

 立ち上がり、彼はそれをテーブルの上に投げるようにして広げた。ずらりと並んだ文字列は、短いものも、長いものもある。

 クレイグさんの顔色が変わった。

「なぜ、これを……」

「宰相殿が私のもとへ」

「宰相だと?」

 クレイグさんは一瞬訝しむような顔をしたが、すぐに口を結んだ。問い質しても無駄だというような様子だった。

「ヴェルナーはこのリストに私の名があると言いました。しかし、ここに私の名はない。さらにおかしなことに、ヴェルナーは王命違背の罪で騎士団に捕えられ、反逆罪で処刑されようとしている」

 トーマさんの目は、クレイグさんの反応を注意深く観察しているようだ。そうして、彼を追い詰めている。

 頭の回転が鈍い僕でも、クレイグさんが本物の、つまりトーマさんの名前のないリストを見たはずだということはわかる。「何が妙か」という彼の一言は、トーマさんへの拒絶を形にしたようなものだ。

 しかし、トーマさんの冷ややかな目は、事態がそれでは済まないことを彼に突きつける。

 クレイグさんの固く結んだ唇のその奥から、ぎしりと軋む音を聞いた気がした。

「メルウィル卿、ダミア=ガルシアがリストの写しに手を加えたことをご存じないのですね?」

 クレイグさんは鋭く、トーマさんを睨み上げた。

「それが何だというのだ?このリストに、貴様の名がないことがそもそもおかしいのではないのか。だとしたら、ダミア=ガルシアが団命として、貴様の名を書き加えたとして――」

「団命ではない」

 トーマさんは、ぴしゃりとクレイグさんの反撃を遮った。

「団命であったなら、ヴェルナーが騎士団を辞す理由などないでしょう。真っ向からダミアと戦ったはずだ。そうしなかったのは、リストが王命であると思っていたからではありませんか。決して覆らない、そう思っていたからこそ、戦うこともできなかった」

 クレイグさんは、眉間の皺を一層濃くしてトーマさんを見ている。

 その険しい目の奥に、あえぐような息づかいの奥に、炎のように何かが揺らいでいる。

「王命だと思いながら、それに背き、貴様を逃がそうとしたのだろう!それもまた、罪ではないか……!」

「本当にそうお思いですか。ダミアがリストに手を加えたことを、貴方がご存じでないということは、ステルラ公もご存じではない。そうでしょう」

 僕は、テーブルの上に置かれたクレイグさんの手を見ていた。

 閉じられている。強く、固く。

「王の剣たる王国騎士団が、王の意志によってではなく、自らの意志で動くなど、あってはならない。そしてそれを、王の臣下たるステルラ公がご存じではないなど。知らぬでは済まされない。見過ごすつもりか!」

 拳が震えている。

 目が怒りに燃えている。

 怒りを抑えるように、彼はもう片方の手で震える手を握り締める。

「どうせよと言うのだ……」

「ステルラ公を説得していただきたい」

「説得?」

「ヴェルナー=ウルブリヒトの処刑を推し進めたのは、ダミアなのでしょう。ウェクシルムから圧力がかかって、反逆の証拠となりうるものも手に入らなかったはずだ。処刑を決断するための材料をステルラ公はお持ちではない。違いますか」

「……無礼者!」

 爆発するようにクレイグさんは怒鳴り、立ち上がった。怒りを押さえていた手が、テーブルからリストを跳ね除けた。

 リストは床に落ち、その下に隠れていた短剣がテーブルの上を滑って、カラカラと音を立てる。

 クレイグさんは肩で息をしている。のどの奥から、うなるように彼は叫んだ。

「王国騎士団を辞め、貴様は逃げた!もはや騎士でも、臣下でもない、浪人風情が何を言う!」

 テーブルの上の短剣を、トーマさんが取った。僕は驚いて止めようと思わず手を出す。あっという間に鞘から放たれた短剣は、僕の手の間をすり抜けて、テーブルに突き立てられた。

 クレイグさんは、大きく目を見開いて、テーブルの上の短剣を見た。よろめいた足が、椅子に当たる。

 僕は、そろりと手を引いた。

「……目を覚ましていただきたい」

 低い声で、トーマさんは言った。

「あなたはステルラを治める者を支える柱だ。だからこそ、ここに来たはず。ステルラ公の判断に何の疑念もなく、ヴェルナーを処刑しようと言うのなら、あなたはここには来なかったはずだ」

 クレイグさんは、目を見開いたまま沈黙している。

「……おれへの恨み言なら、後でいくらでも聞きます」

 それは、同情であったように思う。クレイグさんは、本来はこうして人に怒りをぶつけるような人ではないのかもしれない。トーマさんは、彼の尊厳を慮ったのかもしれない。

 しかし、その一言で、クレイグさんの目に憤怒が蘇ってしまった。

 怒りは、すぐには形にならなかった。

 クレイグさんは口を開きかけては、歯を食いしばった。

 かみ合わない歯車を無理に回すように、怒りは彼の体にねじ込まれ、軋めく音が聞こえる気がした。痛みを伴って、ぎしぎしと。

 見えない攻防の末に、やがて、それは荒い呼吸とともに吐き出された。

「ヴェルナー=ウルブリヒトを助けたいとでも言うつもりか……!?マリア内親王を、たった一人で死なせた貴様が――!」

 トーマさんは大きく目を見開いた。

 嵐のような、叫びだった。

 恋敵だと、トーマさんは言った。

 クレイグさんもまた、マリアさんを愛していたのだと。

「どうせ貴様は何も知らないのだろう!あの方がどれほど、どれほどの思いで、覚悟で、貴様を愛していたのか!何も知らないんだろう!」

 トーマさんは黙っている。黙ったまま、目を見開いたまま、クレイグさんの怒りを受け止めるその顔は、色を失くしている。

「生き延びる道もあったのだ!女性として、穏やかに、平和に生きる道も!あのおぞましい悲劇に身を打たれることなく!命を奪われることなく……!」

 トーマさんの顔が、歪んだ。

 クレイグさんは止まらない。堰を切ったように叫び続ける。

「だがあの方はステルラに留まりつづけた!何のためだ!?誰のためだ!!貴様だろう!貴様のせいで、貴様のために!なぜだ、トーマ=ウルストンクラフト!最後の最後で、見捨てるくらいなら……!」

 唇が、震える。

 目の奥が熱い。

 狂ったように叫ぶクレイグさんの目に浮かぶ、苦渋に満ちた悔恨の色が、こぼれ出ることも許されずに暴れている。

 雨の日、ルドビルで、誰にも言えずに抱えてきた苦悶を吐露したときのトーマさんのように。

「あの方は、たった一人で亡くなられた……!」

 僕は堪らず、目を閉じた。

 目を閉じた暗闇に、たった一人、血だまりに沈むその人を見た気がした。

「ジウさん」

 ニーノさんが、僕を呼んだ。

「……ジウ?」

 トーマさんも、窺うように僕を呼んだ。

 僕だけが、堪えきれなかった。

 暗闇にぽつんと浮かんだ幻に。

 僕は、泣いていた。

「……どうしたの」

 トーマさんが、優しい声で尋ねる。

 僕は、何とか話そうとするが、声が詰まって音にならない。大の男が、ぼろぼろと泣く姿がはさぞおかしかっただろう。僕が口を開くまで、誰も何も言わなかった。

 嗚咽を堪えながら、やっと言う。

「……マリアさんは、どんなに、無念だっただろうって……」

 たった一人、教会で亡くなる瞬間、きっと思っただろう。

 トーマさんや、クレイグさん、ステルラの人たちの顔を。

 今日の次の明日を、明日の次の朝を、一日一日の未来を迎えること。たったそれだけのことを望む顔がよぎって、抗って、足掻いて、しかしその全ては虚しく、マリアさんは亡くなった。

 それは、何て苦しい瞬間だろう。

 ニーノさんが手拭いを渡してくれた。受け取って、ぐすぐすと鼻をすすりながら涙を拭く。

「……彼は誰だ?」

 クレイグさんがぼそりと問う。

「……神官です、コルファスの。ジウ=シガン」

 トーマさんが答える。

「……神官」

 クレイグさんは繰り返した。

 ニーノさんが、テーブルの下に落ちたリストを拾い、巻き直す。トーマさんは、気まずそうにテーブルに突き立てられた短剣を抜いて、鞘に収めた。

 ニーノさんは平和に笑って、テーブルにきれい巻き直されたリストを置くと、座るように二人に促した。少し冷めた蜂蜜酒を温め直すと言って、奥さんが一度下げた。

 二人は一瞬だけ視線を通わせて、無言で座った。

 テーブルに、改めて湯気の立った蜂蜜酒が出てくるまで、二人はそのまま無言だった。僕の鼻をすする音だけが、間抜けに響いた。

「……おそらく処刑は日延べになる」

 温かい蜂蜜酒を一口飲んで、クレイグさんは言った。

「スタウィアノクト公に圧力をかけられたからな」

「スタウィアノクト……」

 繰り返して、急に寂しくなった。何だか、彼女といた時間が遠い昔のことのようだ。

 西方の静かな湖畔の街――、リリーが治める街。

「確たる証拠もなしに処刑を行うべきではないと、遠回しに忠言を受けた。聞き捨てて、予定通りに処刑を行うことは、マラキアメール公にはできないだろう」

 会話が成立しそうな様子を見届けて、ニーノさんが部屋の奥に戻っていく。

 そっと覗くと、彼は一本の剣を取り出した。トーマさんの剣だ。鞘を抜き、刃に指先を滑らせて、その感触を確かめている。僕は視線を元に戻した。

「……日延べ、ですか」

「そうだ。中止にはならないし、私がマラキアメール公を説得できたとしても、マラキアメール公はダミアを止められない。スタウィアノクト公も、立場上これ以上の手出しはできまい」

 僕はクレイグさんを見る。彼は僕の視線に気づいたようだったが、よほど情けない顔をしているらしい。眉をひそめて一瞬で目をそらされてしまった。

「ヴェルナーを反逆者とする証拠はないが、そうではないとする証拠もない。ダミアは、ヴェルナーがローク殿下に代わる反逆軍の旗印になりうると言った。それは一面の真理だろう。ヴェルナーとて、タグヒュームに赴いた一人なのだから」 

 苦々しい思いがこみ上げてくる。感情の上では絶対に違うと否定しながら、クレイグさんの言うことも理解できる。

 ルドビルで昔話をしながら、ヴェルナーさんはタグヒュームの悲劇については話さなかった。ヴェルナーさんの手からもこぼれ落ち、止められなかったものがきっとあっただろう。トーマさんのことだけでなく。

 それが、反逆を疑う理由になってしまう。なぜだろう。傷ついた、傷つけられた、それは彼の罪ではないはずなのに。

「……さらに悪いことに、マラキアメール公はダミアの信頼を得られていない。私とて同じであろうが。説得では、止められん」

 少し考えて、トーマさんは少し前のめりになって言う。

「リストの改ざんを調べることはできませんか」

 調べることはできるが、と前置きして、クレイグさんは言った。

「改ざんを立証することも難しいのではないか」

「リストの写しは、騎士団の書記官が?」

「そうだ。ダミアから団員全員に王命の概要が通達された後に、各分隊の隊長にリストが配られたと聞いている。だが、全てのリストに手を加えれば、改ざんの証拠が複数の人間の手元に残る。ダミアの性格から考えても、改ざんを書記官に任せたとは思えん。ヴェルナー=ウルブリヒトだけを狙うなら、第一分隊に配るリストにだけ自分で手を加えただろう。思惑通りにヴェルナーが騎士団を出奔すれば、そのたった一つのリストを処分することなど、奴の立場なら難しくはないからな」

 トーマさんの指先が、いらいらと細かい音を立てる。クレイグさんは、彼の指先の動きに一瞬目をやって、また蜂蜜酒に口をつけた。

「第一分隊の隊員は、リストを見たのでは?」

「見たかもしれない。だが、ヴェルナーが騎士団を出るときに騒動を起こして、数名は地下牢、他の者も自室で謹慎だ。証言は重視されないし、こうなった今となっては、思想を疑われもする」

 トーマさんは呆れたように眉間の皺を濃くする。クレイグさんは静かにカップをテーブルに置いた。

「そもそも、ヴェルナーが騎士団を出るように仕向けられさえすれば、疑念は生まれる。第一分隊の人間はヴェルナーに心酔しているからな。騒動を起こさなくても、結果は同じだ。……少し落ち着いたらどうだ」

 最後の一言に、僕は思わずトーマさんの反応を窺ってしまった。彼は苦りきった顔をしている。深呼吸をして蜂蜜酒に手を伸ばす。つられて何となく手を伸ばした。

 温かいカップを両手で持ち、ふと、ずっと抱えていた疑問を口にしてもいいような気がした。

「……あの」

 もちろん、聞いたところで何がどうなるわけでもないのだろうけれど。

「ダミア、さんは、なぜこんなことを?」

 トーマさんとクレイグさんは揃って僕を見て、そしてまた揃って互いの顔を見合わせた。それから、二人ともテーブルの木目を見つめて黙ってしまった。そこを見ようとしているわけではないのだろうから、考えようとしたらそこで視線が止まった、という方が正しいだろうが。

 二人が特に追及しないので、暗黙のうちに理解しているのかと思っていた。でも、当然といえば当然の反応とも言える。なぜ?――その答えを確かに知っているのは、ダミア=ガルシアただ一人しかいない。

「……一つには、マラキアメール公がヴェルナーをリヒャルトの後任にしようとしたことがあったかもしれない」

 思案顔で、クレイグさんが言った。

「……おれには、務まらないような気がするんですが」遠い目をして、トーマさんがつぶやく。

「務まるはずがない」

 トーマさんの評価に傾げかけた首は、クレイグさんの容赦のない断定に動きを止めるほかなかった。ヴェルナーさんの名誉は守れなかった。

「騎士としての才覚も、人を惹き付けるカリスマ性も認めるが、集団を維持するための計算というものが彼にはない。英雄にはなれるだろうが、長には向かない。……だが、それも一つの案かもしれないと、私も思ったのだ」

「……ダミアが補佐をするなら、ですか?」

 少しだけ、責めるような調子に聞こえた。

 クレイグさんはトーマさんを一瞥して、目を伏せた。図星であるらしい。

「ヴェルナーの欠点は、リヒャルトにそっくりだ。無論、彼は私がここに来たときには十分に長としての素養を身につけていたが、それでも、組織をどう維持していくかという問題に当たるとき、リヒャルトの言うことはどうにも的を射ない。ダミアがリヒャルトの補佐に甘んじたからこそ、リヒャルトは英雄であり、騎士団の長たり得た」

「……わかります」

 ため息と共に、トーマさんはうなずいた。五年間、リヒャルトさんのすぐ近くで働いたトーマさんにも、思い当たるところがあるらしい。

「……しかし、ダミアがリヒャルトの補佐役だったというのは、ダミアの技量もあったでしょうが、リヒャルトの度量による部分が大きかったと、おれは思いますよ。リヒャルトの方が、ずっと年上でもありましたから」

「その通りだ。打算という他ない。マラキアメール公も私も、ダミアがリヒャルトを助けたように、ヴェルナーを助けてはくれないかと期待したのだ。ヴェルナーの若さゆえの無分別すら、許容して」

「……つまるところ、ステルラの状況はそれほど厳しいということなんですね」

 トーマさんが言うと、クレイグさんは目を伏せてうなずいた。

「リヒャルトの死が、問題をはっきりと表面化させた」

 それは、今のステルラの苦境を作ったのは、やはり三年前の悲劇であるという意味なのだろう。

 ふと、ダミアさんはいくつぐらいの人なのかが気になった。問うと、トーマさんは少し首を傾げ、「五十を過ぎた頃かな」と疑問符を付けて言った。クレイグさんが特に訂正を入れないところを見ると、間違っていないのだろう。リヒャルトさんは、さらに二十ほど年上だったのだという。

 ヴェルナーさんはいくつだろう。二十代の後半、三十にはならないように見えた。そこから年の差がもたらす関係性について考えてみようかと思ったのだが、無駄だった。僕の周りに、二十も三十も離れた近しい男性はいなかった。

 話題は自然に元に戻る。

「ともかく……、問題はその案が、領民たちの意を汲んで出てきたものだったということだ。領民たちは未だにダミアを認めようとせず、ヴェルナーこそがリヒャルトの後を継ぐべきだと信じている。だが、騎士団の内部事情はもう少し複雑だ」

「分裂してしまったわけだ……」

 クレイグさんはため息まじりに肯定した。

「タグヒュームの悲劇によって、騎士たちは大きな屈辱と、挫折に苦しんでいる。三年経った今もなお。あるいはダミアは、そうした騎士たちの代弁者であるのかもしれない。ダミアは彼らを肯定し、その受け皿になったが、同じく悲劇を味わったはずのヴェルナーは何も語らない」

 ナツさんのことを思い出した。十六、七であろう彼に、悲劇の陰は見えなかった。この三年のうちに騎士団に入ったのだろう。悲劇を知らない彼は、無邪気にヴェルナーさんを慕う。

 何だそれは。

 おかしいだろう。

 お前だって、同じはずなのに。

 昏い挫折の影を、引きずっているはずなのに。

 なぜ、お前だけが、何事もなかったかのように?

 光ある方へ向かおうとする者がいる。その足に、無数の亡者がしがみつく。そんな絵がコルファスの教会に飾られてあったのを思い出した。一枚の絵の中で、光と影は繋がっている。光ある方へ向かう者は、足をひきずる亡者たちに背を向けている。一瞥すらしない。

「……でも、僕はあの人が、苦しまなかったとは思えない」

 思わず、口からこぼれ出た。僕はカップを力いっぱい握りしめていた。気付いて、テーブルの上に戻した。

 トーマさんとクレイグさんが、言葉の続きを待っている。でも、説明なんてどうしてできるだろう。

 ステルラで、会った彼。彼に道を示した人に、どこまでも忠信を尽くそうとした。自分の全てを投げ打ってでも。情熱の人。嘘を許さない、真実の人。

 抱えた苦しみを呑み込んで、それが彼の内で嘘もごまかしもない真実になるまで、どれほどかかっただろう。それを、見せずにいることに、どれだけ苦労をしただろう。

 背中を向けて光を目指す者の顔は、見るも哀れな苦悶に満ちているかもしれないのだ。

「トーマさんを、引き止めたいとしか、言わなかった」

 口から出たのは、中途半端な一言だけだった。でも、トーマさんは僕の言葉を待つのをやめた。静かに、目を閉じた。

 それ以上のことを、彼は望まなかった。

 遠い過去を、愛おしみ、慈しむのに。

 そこに戻れないことを、彼は知っていたのだ。

だから、僕はやはり納得できない。ヴェルナーさんが汚名を着せられ、処刑されようとしているなんて。

 部屋の奥から、「難しいことですなあ」と、ニーノさんの声がした。

「でもねえ、ダミアさんは極端だから誤解されやすいですがねえ。人のために自分を犠牲にすることはあっても、自分のために人を踏み台にすることはありませんよ」

 僕は少し困惑した。それではまるで善人のようだ。

「誰かのために、ヴェルナーさんを陥れて処刑しようとしているってことですか」

 言葉の棘を自分でも感じて、僕は口をつぐんだ。

 ニーノさんは手を止めて、顔を上げる。

「人のためでも自分のためでも、悪いことは悪いことですよ」

 噛んで含めるような柔らかい調子で、ニーノさんは言う。

「ただねえ、ステルラは、色々ありましたからねえ。こういう中で、正しくないことを避けようとすると、何もしないことになってしまうんですよ。なぜだかね。あの人はね、それが許容できない。それでも、時間は経つものですから、いつかは何とかなるのだろうけど、いつかを待てなければ、それはもう、苦しいんでしょうねえ」

 ニーノさんは、また手を動かし始めた。

 わかるような気もするし、わからないという気もした。

 近づける気もしたし、理解したくないとも思えた。

 少しの間、沈黙が流れた。クレイグさんが、冷めてしまった蜂蜜酒を飲み干した。丁寧にカップをテーブルに置いて、言った。

「トーマ=ウルストンクラフト、国王陛下にお会いしろ」

 トーマさんは目を丸くして、クレイグさんを見やる。

「もはや、ステルラの内で何をどう動かしても事態は好転しない。私が貴様の後ろ盾になってやる。ただし、何を告げるかは貴様の自由だ。ダミアが王命を侮辱したと告げるもよし、ヴェルナー=ウルブリヒトの助命を請うもよし……。思うようにするがいい」

 トーマさんは眉を寄せ、クレイグさんを見る。

「……メルウィル卿、なぜです?それは、どうあれステルラの統治への不信を陛下に告発するということです。ただでは済まない。それを、あなたが……」

 クレイグさんは、目線を落とし、落ち着いた声で、ゆっくりと話し出す。

「十四年、私はステルラで生きた。マリア内親王と共にステルラに赴き、最初の一年は前任のステルラ公の下で、次の年からは試行錯誤を繰り返して、共に。共に、歩んだはずだった……」

 また、クレイグさんの拳が閉じる。でも、それはもう軋むように音を立てたりしない。

「だがそうであるなら、あの方の過ちは、私の過ちでもあったのだ。過ちに対する罰が、死であったというのなら、私とて共に、罪を背負うべきだった……」

 僕は、唇を噛む。トーマさんを責め立てた裏で、その目に映った、悔恨の色。

「あれから三年、私はマラキアメール公の、マリア内親王と違うところを見つけては嘲った。嘲って、そうすることで過去にしがみついたのだ。役目があるはずだとステルラに居続けながら、失われていくばかりのステルラを、受け入れられなかった」

 不意に、クレイグさんは僕を見た。小さく笑んで、言った。

「……懺悔だ」

 そして、トーマさんに視線を戻す。

「タグヒュームの悲劇より、ステルラは今、暗闇の中にいる。たとえさらなる混沌を呼ぶことになっても、ステルラをまた、悲劇の地にするわけにはいかない。壊すがいい、トーマ=ウルストンクラフト。それでいいのだ。そして十四年前、マリア内親王と共に始めたように、もう一度……。もう一度、歩むのだ。それでいい……」

 トーマさんは口を結び、クレイグさんを見ていた。そびえ立つ石の壁のように、静かで重い、灰色の瞳を。

 その覚悟を呑み込むように、深く頭を下げた。

「感謝します、メルウィル卿」

 クレイグさんは幕を下ろすように目を閉じた。

 



僕は、その横顔から目が離せなかった。

 ――これは、何の予感だろう。

 安堵と共に、小さな胸騒ぎが胸に落ちた。



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