1.狼煙
「ルドビルの封鎖が解かれる?」
あの雨の日の翌日だった。昼過ぎにワイン筒とパンを抱えて訪ねてきたバーさんが、そんな情報を知らせてくれた。
「ルドビルの捜査は終わったってことですか?」
銀色のカップにワインを注ぎながら尋ねると、トーマさんは少し渋い顔をした。その顔を遮るように、バーさんはテーブルに勢いよく腰掛け、僕に顔を近付けて、あからさまに悪人の顔をしてみせた。
「大した捜査もできなかっただろうよ!見てみろ!裏通りはこの通り平穏無事、ふんぞり返った騎士団に、表通りの荒くれ者どもは協力しねえ。ざまあねえな!」
「じゃあ、諦めたってことですか?」
これでも、ない頭を振り絞って考えているのだが、バーさんは下唇を突きだしてヘの字に曲げて、舌を鳴らした。
「ウェクシルムから圧力がかかったらしいぜ」
「ウェクシルム……」
小さく繰り返すと、バーさんの腰の後ろから、トーマさんの静かな声がした。
「ステルラと同じ、騎士団を擁する街だね。東の国境を見張る城塞都市だ」
「城塞都市」というものものしい響きからは、見習い騎士が多いというステルラの、どこかのんびりとした空気は感じられない。同じ騎士団を擁する街といっても、それぞれ特色があるのだろう。
しかし、そのウェクシルムから圧力がかかる、というのはどういうことなのだろう。首を傾げると、バーさんがにやにやと楽しそうに、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「領民たちが頭を抱える、力自慢の無法者がはびこるルドビルを制圧すれば、掲げた旗が輝くってもんだろうよ!どっちが手を出すか睨み合ってるところに、ステルラが抜け駆けしやがったってんで、ウェクシルムの領主が憤慨したってわけさ」
「はあ……」
僕にはいまいちバーさんの上機嫌がわからないのだが、これもこの人なりの反骨精神なのかもしれない。結果として、ルドビルの制圧はままならなかったのだ。
「ステルラとウェクシルムの関係がよくないことの表れだな……」
トーマさんがぽつりとこぼした。
「で、どうすんだ?」
バーさんは、トーマさんの方を振り返って尋ねる。
「このお坊ちゃんを逃がすルートはもういらねえんだろ。ルドビルは解放された」
「あ……」
思わず声が漏れた。そうなのだ。ルドビルの封鎖が解けたということは、ここを出ていくことができるのだ。ルドビルを出て、そして――。
「ステルラに行くつもりか?」
ぎくりとした。低く、濁りのない声。
バーさんが机の上からベッドに移動する。どうやらこの話題に興味はないらしい。
その姿を覚束なく追ってから、目線を戻す。
トーマさんはじっと僕を見ている。琥珀色の瞳に、陰りは見えない。
過去に囚われ、うずくまる彼の姿を思いだした。それを奥底に隠し、それゆえに濁り、虚ろで、昏く沈む姿。
でも、ヴェルナーさんが言った通り、彼は僕を見捨てなかった。あのとき、僕を助けたその時のトーマさんには、濁りも、陰りもなかった。
ヴェルナーさんが信じた姿も、リリーが信じる姿も、隠れていただけで、ずっと目の前にあったのかもしれない。
僕は大きく息を吸った。
「トーマさん、助けてくれて、ありがとうございました」
トーマさんは怪訝な顔をする。
「でも、何もしないままでは、旅を続けることも、コルファスに帰ることもできません。ヴェルナーさんが処刑されてしまう。何もできないかもしれなくても、どんなことをしても、ヴェルナーさんを死なせたくないんです」
ヴェルナーさんをこのまま死なせてしまったら、それはもう取り返しがつかない。取り返しがつかない後悔を抱えたまま、何もせず、何もできず、そんなのはもう嫌だ。
僕はもうコルファスを出たのだ。どんなことをしてもいい。「僕」というただ一つ、それだけしかないのだから。
トーマさんは、しばらく僕の顔を探るように見ていたが、やがて大きく一つ、ため息をついた。
「ジウ」
トーマさんが、「僕」を呼んだ。その新鮮な響きに、少しだけ頭が冷える。確かに名乗った記憶はあるが、覚えてもらえていると思っていなかった。
「どんなことをしてでも、なんてことを言うものではないよ」
静かな声で、トーマさんは言った。
「君は、リルの友人なんだろう」
僕は一瞬目を伏せた。うなずいていいのか、少しだけ迷った。でも、迷ったことを聞いたら、リリーは怒るような気がした。何だか和やかな心地がした。
もう一度トーマさんの目を見て、小さくうなずいた。
「それなら、おれは君をリルのもとへ、無事に連れて行かなきゃならない」
その言葉の意味を、数秒理解できず、僕はただトーマさんを見つめた。
――リリーの、もとへ。
「……行って、くれるんですか……?」
恐る恐る問うと、トーマさんは困ったように眉を下げる。そして、机の上の布包みを指で指した。
手に取り、光沢のある濃紺の布を丁寧にめくると、指輪が出てきた。
リリーの髪と同じ色の、小さな指輪。教会で失くしてしまったと思っていた。
「あ……」
「おれがステルラに行くときに、それをリルがくれた。約束したんだよ、おれを最初の臣下にすると。彼女はおれを、大事な人だと言ってくれた、最初の人だ……」
「……あなたは手強かったって、言ってました。どこに隠れても、すぐに見つかるんだって」
「大変だった。リルはかくれんぼの達人だったんだ」
僕は笑った。マーンカンパーナで出会ったとき、彼女が国衛軍の制服を着て荷車で寝ていたことを話すと、トーマさんも笑った。まだ、ぎこちないけれど。
僕はトーマさんに指輪を差し出した。リリーは僕に持っていてくれと言ったが、きっとこれでいい。
トーマさんは、少しためらったが、指輪を手に取った。しばらく見つめて、握りしめた。目を伏せて、指輪を握った手に、そっと口づける。悲しみや、苦しみや、寂しさをにじませながら、清らかに。
指輪は、リリーが彼に懸けた思いそのもの。
彼が愛した人の最期を、彼が見ることの出来なかった最期を、看取ったものでもある。
だから、これでいい。
「リルは、怒るだろうなあ……」
「ええ、きっと」
即座に僕が答えたので、トーマさんは目を細めて僕を見た。そして、緩やかに笑んで、指輪を握った掌を胸に当てた。
「君の涙に突き動かされて、ということにしておこう」
その姿は、きっと、リリーや、ヴェルナーさんの記憶の中にいる、彼の姿だ。手強くて、厄介で、スマートなトーマさん。
また涙が出そうになる。こんな泣き虫の涙など、その姿に見合う価値があるはずもない。
「で?ステルラに行くのか?」
ベッドに寝転んだまま、あくびをしながらバーさんが問う。僕は慌てて目尻を拭った。
「……ヴェルナーを見捨てて、リルに合わせる顔はないだろうな」
トーマさんは、彼を冷たく一瞥して言う。彼はにやりと口の端を上げた。
「おーお、古傷が痛むツラだ」
そう言いながら、彼はどこか嬉しそうだ。
「しかしどうやって処刑を止める?英雄の孫を反逆罪で処刑なんて、大層なシナリオだぜ。仕掛けるにも覚悟がいる。違うか?」
「覚悟ね……」
冷ややかに、トーマさんは繰りかえした。
そうなのだ。ヴェルナーさんが見たというリストに書かれたトーマさんの名前。リリーは休暇をとるだけにしろと言ったが、彼は騎士団を辞め、ステルラを飛び出した。そうしてルドビルで捕えられた。反逆者として。
「一体、誰が……?」
トーマさんは厳しい表情でうつむいた。
「議会が下したリストにおれの名を書き加えることができた者は限られている。その中で、ヴェルナーを処刑しようとする動機があるとしたら、ステルラ王国騎士団総騎士長ダミア=ガルシア。それ以外には考えられない」
その名前には、聞き覚えがあった。
ステルラの宿で騒動を起こした騎士。彼はその、ダミア=ガルシアの腹心だと言われていた。
「リヒャルト=ウルブリヒトの後釜としちゃあぱっとしねえな」
バーさんが嘲るように言う。僕にはわからない。
ヴェルナーさんに反逆者という汚名を着せ、処刑する。
ダミア=ガルシアはそうしなければならなかったのだろうか。
一体なぜ?
「場合によっては、少々手荒い手段を使うことも考えるが……、会っておきたい人がいる。王命違背も反逆も、王が下すからこそ絶対なんだ。騎士は、王の剣。王の意志の代弁者にはなりえない」
「ステルラ公ウーゴ=マラキアメールか?気の弱い男だって話だがなあ」
「いや……」
トーマさんは、少し考えてから、言った。
「ステルラ公の副官、クレイグ=メルウィル卿だよ――」
*****
その日、ステルラの領主、ウーゴのもとに客人があった。
リリーの副官、トビーである。
執務室で、二人は向き合って座っている。
ウーゴの副官であるクレイグは、扉の側に、いつものように彫刻のごとく微動だにせず立っていた。
「……内親王殿下は、お元気ですか?」
おどおどと、ウーゴは口を開く。トビーは、穏やかな老人のように、にこにことほほ笑んでいる。
「それはそれは、あの通りのお方でございますから」
「そ、そうですか……。それは、よいことです……」
ウーゴは、顔中の筋肉に無理を強いて笑顔を作る。
彼は、大層気弱な男だった。
それは父から受け継いだものであったかもしれない。父は、王妃の弟であり、三人兄弟の末っ子である。気性の荒い兄と姉は結託し、徹底的に弟を苛めぬいた。
息子であるウーゴには、幸いにも兄弟はいない。しかし、父母に似て気質の激しい従兄弟たちに、幼い頃からいびられ続けた。
そうして、彼は大層気弱な男になった。
従兄弟たちを差し置いて、騎士団を擁するステルラの領主となったとき、父と二人でひどく青ざめるほどに、である。
そんな彼には、もう一人、恐ろしくてならない人物がいた。先の王妃の子、王太子であったロークである。
年が近い二人は、幼い頃から王城で度々顔を合わせていた。ロークはウーゴをいびりこそしなかったが、おおよそ歯牙にもかけなかった。ロークの前で、彼は平凡な己を恥じずにはいられなかった。
そのために、ロークによく似た妹であるリリーのこともまた、ウーゴはおそれていた。
「ただ」
トビーが口を開く。ウーゴは、ぎこちない笑顔のまま硬直した。
「時折ふと、おつらそうになさっておいでなのですよ……。ここステルラの英雄、リヒャルト殿が亡くなったことは、ベジェトコルにとっても大きな損失でしたが、我が公には、師と慕っていた者を亡くしたわけですから。そのお姿が、なんともおいたわしく……」
トビーは、眉を下げ、声を震わせて、目尻の涙を拭う仕草をする。
ウーゴは、壊れかけのからくり人形のような動きで首を傾げる。
「は、あ……?」
「それで思い出しましてな」
顔を上げたトビーの目は、すでに乾いている。そして、ウーゴの目をまっすぐに捉えて言った。
「確か、リヒャルト殿には孫君がおられたと」
刹那、ウーゴの背筋が凍った。体中に緊張が走る。ダミアに言われるままに、リヒャルトの孫、すなわちヴェルナーの処刑を決めたのは、数日前のことである。
「もし、孫君が我が公に会ってくださるなら……、思い出話でもして、我が公の痛みが少しでも和らげば、と思って参ったのですが」
「あ、あ、あの、彼は、今」
体中から冷や汗を噴き出しながら、ウーゴはどう事情を説明したものか思案する。
「王命違背、反逆の罪で処刑されるそうですな」
ウーゴは、口を開いたまま固まった。
ぎしぎしと首をずらし、クレイグに視線を送るが、クレイグは遠くを見つめて動かない。
「それっ、それっ、は」
「大変残念な話ですが、確かなことなのでしょうな」
「は、は……」
「確かな証拠をもって、断腸の思いで処刑をお決めになったのでしょうな」
「は……」
トビーは、念を押すように繰り返す。
一言、調べ直せと言われる方がまだいいと、ウーゴは思った。
再び、クレイグに目線を送る。クレイグは目を閉じて瞑想に入っていた。
ウーゴは目を白黒させる。確かな証拠があって、処刑を決めたわけではない。ダミアに押し切られただけだ。
「いや失礼、ステルラ公のなさることに口出しするつもりなどございません。しかし、我が公になんとお伝えすればいいのか、いや、これもこちらのこと……。これ以上お邪魔してはいけませんな。これで失礼いたしましょう」
ウーゴは、天地がひっくり返るような目眩を感じた。
トビーは立ち上がり、ウーゴに頭を下げる。
「突然お伺いして、お時間をとらせ申し訳ない。それでは」
「……お見送りいたします」
トビーが動き出した途端、クレイグは瞑想から戻り、そう言った。
そうして、トビーは丁寧に礼をして部屋を出て行き、クレイグもその後に続いて出て行った。
ウーゴは一人取り残され、頭を抱えた。
「なぜ、こんなことに……?」
領主館を出て、クレイグはトビーを船着き場まで見送った。
「……もう少し留まるおつもりかと」
クレイグは言った。
「ほほ。とにかく手は尽くしましたゆえ。スタウィアノクトは収穫の季節。戻らねば。ご協力感謝しますよ、メルウィル卿」
「……おそらく処刑は見送られるでしょう。マラキアメール公は、そういう方だ」
クレイグは、苦々しげに言った。
トビーは小首を傾げ、そして、優しくほほ笑む。
「不満がおありのようですな」
クレイグは眉をひそめ、ぽつりとこぼした。
「あの方は臆病が過ぎる」
「ほほ」
「笑い事ではありません。このままでは、騎士の街たる誇り高きステルラは、ダミア=ガルシアの思うがままです。ウェクシルム公の圧力にやすやすと屈したことといい……。マリア内親王が亡くなり、リヒャルトが死に、ヴェルナー=ウルブリヒトが処刑されれば、この街はもう――」
トビーはほほ笑みを浮かべたまま、クレイグを見ている。
そんなトビーに、クレイグは苦笑いを浮かべる。
「……貴方が羨ましい、マロリー卿」
彼はようやく三十を超えたばかりだった。仕えていた主人を失い、その後の三年は、まるで時が止まってしまったようだ。
それでも主人が愛した街を守るために、クレイグはステルラに留まった。しかし、彼はウーゴとマリアを比べずにはいられない。気弱で、臆病なウーゴを、疎まずにはいられなかった。
トビーの前で、ウーゴを「ステルラ公」ではなく「マラキアメール公」と呼ぶことも、そうした葛藤の現れだった。
「貴方が手を貸して差し上げればよいのです、メルウィル卿」
トビーは言った。
「……私は副官です。決定権はマラキアメール公にある」
「そうはじめからうまくはいきますまい」
「もう三年……!それに、マリア内親王は何もかもをご自分で決断なされた!ステルラの領主となったときからずっと!」
はじかれるように、クレイグは声を荒げた。トビーはじっと、クレイグを見つめている。
「し、つれいをいたしました。それではこれで。内親王殿下によろしくお伝えください」
我に返り、クレイグは、気まずそうに会釈をして、踵を返した。
「メルウィル卿」
トビーは彼の背に向けて言う。
「全てをご自分で決断なされたがゆえに、間違いをも全て負おうとなさったのでしょう」
背に刺さった言葉に、クレイグは顔を歪める。
「また会いましょう、メルウィル卿。貴方は少なくとも、ステルラを想っておいでだ。想いが遂げられるよう……」
トビーは、クレイグの背に小さく会釈をし、船に乗り込む。
クレイグは振り返ることができなかった。横腹の傷が、鋭く痛む。
三年前から、時は止まってしまった。
塞がりきった傷が、今もなお痛み続けるように。
彼はステルラを愛している。
ただ一人愛した人が、愛した街を。
街の様子を一通り眺めてから、クレイグは領主館に戻った。
玄関ホールから階段を上り、ウーゴの執務室からかすかに聞こえる、ぶつぶつと何かをつぶやく声に、小さくため息をついて、扉の前を通り過ぎる。
クレイグの執務室は、ウーゴの執務室の隣にある。
扉の前に、小さな木箱が置かれていた。クレイグは首を傾げる。
蓋の隙間に、「頼まれもの、ニーノより」と書かれた紙が挟まれていた。
ニーノは、ステルラの鍛冶屋の隠居老人だ。彼に何かを頼んだ記憶はないし、ウーゴが鍛冶屋に頼み事をするとも思えない。
玄関ホールで物音がした。見ると、掃除番の老人が、隅のベンチに座って曲がった腰をさすっている。
「誰か来ましたか?」
二階からクレイグが尋ねると、老人は周囲を見回し、視線をさ迷わせながら上を見て、何回かうなずいた。
「ああ、ああ、お帰りなさい。ニーノさんがね、来ましたよ」
聞き取りづらい声で掃除番は言った。
差出人は確かであるらしい。
木箱を開けると、中には短剣と、「夜に」と書かれた小さな紙が入っていた。
クレイグは、驚きのあまり木箱を取り落としそうになった。次に湧いてきたのは怒りだった。
紙を手に取り、握りしめる。短剣に、見覚えがあった。
「……なぜ……」
その声が、自分のものとも思えなかった。
生涯許すまじと決めた男からの手紙だった。