プロローグ
ベジェトコルの西、湖畔の街スタウィアノクトは長閑な街である。
街のあちこちに小さな東屋が建てられ、老人たちの休憩所になっていた。彼らは、ほとんど毎日そこに集まり、おしゃべりをしたり、ゲームをしたり、豆の鞘抜きをしたりして過ごすのである。
しかし今日、東屋では、鞘抜きをする老人たちの側で、スタウィアノクトの領主、リリー=ウェルグローリアがゲーム盤を見つめていた。
その前には、身なりのいい貴族の青年が、眉間に深い皺を刻みながら、手にした駒をどこに置くか思案している。
「……決めました!ここに置きます」
そう宣言して、盤の上に駒を置くと、老人たちからため息が漏れた。
「あ~あぁ……」
「だめじゃあこりゃあ……」
「見込みがないのう……」
「進歩もないわい……」
「横でやいやい言うのやめてくださいよ!まだ勝負はこれから……」
老人たちの落胆の声に、青年が反論しかけた瞬間、リリーは頬杖をついたままにんまりと笑むと、あっさりと青年の駒を奪いとった。
「ああー!?」
「ほれみたことか」
「弱いのう……」
「いつになったら勝てるのかのう……」
「……だから!」
青年の名は、ノア=リードといった。
十六歳になったばかりで、リリーの副官トビー=マロリーの遠縁にあたる。トビーを慕い、二年ほど前にスタウィアノクトを訪れ、そのまま居座っているのである。
「この盤の上に置かれている駒は、互いに結びつき、影響し合っているのだよ」
昼寝から覚めたばかりのようなゆったりとした調子で、リリーは言う。
「君は手にした駒を見ていた。だが見るのは盤の方だ。ただ一つの駒が、盤をどう変えるかを見るのだよ」
「そうじゃそうじゃ」
「わしらも何度も言うたぞ」
「まったくじゃ。どうせじじいの妄言と思うておったんじゃろ」
「そんなこと思ってませんったら!」
老人たちは、嬉々として便乗する。
普段、スタウィアノクトの街には若い男がいない。ノアをからかうのは、彼らの何よりの楽しみだった。彼は素直で、反応のよい青年だった。
「でも、僕はまだまだ未熟者ですから……、未熟者なりの手を打つんですよ」
ノアは新たな駒を一つ手に取ると、リリーの駒の真正面に置いた。リリーは眉を下げて苦笑する。
「真っ向から問いただすか。勝負にはならんな。……が、面白い。褒美に聞きたいことを答えてやろう」
ノアは頬を染めてにんまりと顔をほころばせた。
「それでは……、件の行商の話なんかいかがです?」
「行商?はて、何だったか……」
「とぼけないでくださいよ」
ノアは、そわそわと体を揺らし、目の奥に幼い子どものような好奇心をのぞかせる。リリーは口元に笑みを残したまま、眠たげに目を閉じた。
「その話なら私も聞きたいねえ」
額の汗を拭いながら、大きな籠を抱えて、アナがやってきた。女性と子ども、老人ばかりのスタウィアノクトで、面倒見がよく、慕われている中年の女性である。
「ほれ、次は芋の皮剥きだよ!そうしたら今夜は豆と芋のおいしいスープを作ってやるからさ!」
アナは老人たちが鞘抜きをした豆を取り上げると、今度は芋の入った籠を彼らの前に置いた。
「老人使いが荒いのう……」
「わしの豆をうばいおった……」
「豆の代わりに芋がきとる」
「芋……、芋かあ……」
ぶつぶつと文句を言いながら、老人たちは芋を手に取り、慣れた手つきで皮を剥き始めた。
「で、行商の話さ。螺旋山の麓の盗賊町をステルラ王国騎士団が片付けるって、ホセじいさんが話して回ってさ、そうしたら、あの行商、大慌てで荷物をまとめて飛びだしていっちまったんだよ」
「それはそれは」
リリーはくつくつと満足げに笑う。
「あの行商、ブラックモア卿の回し者だったんでしょう?」
「おや、そうだっだのかい?」
リリーはにんまりと笑んで、ゲーム盤の駒を一つ手に取った。手にしたのは「砦」の駒だ。
「ルドビルはな、騎士城ウェクシルムに、兄上が残した課題なのだよ」
「課題?」
「左様」
リリーは、「砦」の駒を盤に戻す。ノアはゲーム盤に身を乗り出して、口をへの字に曲げた。
「……次は“騎士”じゃよ」
老人の一人がつぶやく。ノアは、言われた通りに「騎士」の駒を手に取るが、そのまま指先を空中にさまよわせている。
リリーは老人にほほ笑みかけ、話し続けた。
「ルドビルは罪人の住処……。三年前、領民の不安を承けて、掃討作戦が行われた」
「……思い出しました!確か、ウェクシルムとステルラで連合軍を編成したんでしたよね。当時の領主はローク様とマリア様で、蜜月関係にあった両騎士団の連合軍が、それは華やかだったって」
「ただ華やかなだけではないのだよ」
「え?」
「はよう駒を置かんかのう……」
「ほれ、そこじゃ。そこじゃよ」
老人たちがきれいに剥けた芋を持った手で、盤上の「山」のエリアを指さしている。
「そこじゃあ、『騎士』は動けな……」
言いかけて、ノアは顔を上げた。
「そうか、螺旋山ですね?」
リリーは笑んだまま、黙っている。
「螺旋山は、神代の山……。戦いが長引けば、獣たちの怒りを買うでしょう。ローク様は、ウェクシルムとステルラが蜜月関係にある時を好機として、早期決着のために、精鋭部隊を編成した……」
ノアは、「山」のエリアの手前に「騎士」の駒を置いた。老人たちからまた、ため息が漏れる。
「では、その顛末を知っているかね?」
「そういえば……、成功したとも失敗したとも聞きませんでした」
リリーは、「騎士」の駒を動かし、背後からノアの「騎士」を奪い取る。
「そう。成功とも失敗とも言えない結末に終わったのだ。確かにルドビルは制圧されたのだが、ルドビルにいたはずの重罪人たちが、誰一人として捕まらなかったのだよ」
「一人もかい?」
アナが口を挟む。
「一人も、だ。つまり、ルドビルには抜け道があったのだよ」
「抜け道?」
ノアは、首を傾げる。
「でも、掃討作戦というからには、こう、ルドビルをぐるりと囲むように布陣したはずですよね」
ノアは指先で円を描く。
「そうだな」
「連合軍の布陣に隙がなかったとすれば……、抜け道なんて、無理じゃないですか?」
「なぜ?」
「だって、螺旋山を抜け道になんて、できないでしょう」
「そうか?」
リリーは、にやりと笑う。
「そうか、って……」
ノアは言いかけて、静止した。目に、雲に覆われたおぼろ山が映る。
「おぼろ山の薬師たち……」
ノアはつぶやいた。その声を、アナが拾う。
「ああ、そういやあ、あの連中が言ってたね。神代の山を抜けるには、正しい手順で歩かなきゃならないとかって」
「翻せば、正しい手順を踏めば、螺旋山も抜けられる!」
リリーはほほ笑んだまま、目を伏せる。
「左様。さらに言えば、神代の山の中に人間の住む“場”を設けることも不可能ではないそうだよ」
「螺旋山の中に、重罪人の隠れ場所があるってことですね?」
「そういうことだ。それゆえに、兄上はそれ以上に手を出せなかった。隠れ家に入る正しい道がわからないのだからな」
ノアは大きな目をさらに大きく見開かせる。そして、はっとして口元に人差し指を当て、少しの間考え込んだ。
「なるほど、そうか……。だから、あの行商、大慌てで帰っていったんですね」
「だから、って、どういうことだい?」
アナが首を傾げる。
「ローク様の後を継ぐ形で、ブラックモア卿はウェクシルムの領主になりました。でも、残念ながら役者不足の感は否めません。もし、ローク様の残した課題を自分が代わりに片づけることができれば……」
「ふむ」
「ところが、ステルラがルドビルに兵を出した。名目は反逆者の捜索と捕縛ですが、本当の目的はわからない。ステルラもまた、英雄の死によって求心力が低下してますからね。あの行商、こんなところにいる場合じゃないと思ったんでしょうねえ」
「こんなところ、とは何じゃ」
「面白かったのにのう……」
「からかい甲斐のある男じゃった」
的外れな老人たちを、リリーは和やかに笑んで見つめている。
「ブラックモア卿も、まさか甥っ子のマラキアメール卿が自分を出し抜くとは考えていなかったでしょうから、それはそれは驚いたでしょうねえ」
ノアは腕を組み、うんうんと頷いた。
「まあ、邪魔だったからよかったよ」
「何よりだ」
リリーは立ち上がると、大きく伸びをして、東屋の外に出る。雲一つない快晴である。
「姫様?」
ノアは、窺うようにリリーの背に問いかける。
「ここ数日、マロリー卿がいらっしゃらないのも、何かの布石なんでしょうか?」
リリーは艶然と笑み、振り返ってノアを見やる。そうして、唇にそっと人差し指を当てた。
ノアは小さく首を傾げ、老人たちと顔を見合わせて肩をすくめる。
西に広がる青空は、季節が変わったことを告げている。リリーは悠然と笑んだ。
「さて、宴の準備をせねば」




