11.死と同じように避けられないものがある
遠く、過去の思い出に、トーマはいる。
「トーマ、これをやろう」
呼び止められて振り返ると、そこには小さな姫がいた。
「何ですか?」
「ん」
リリーは小さな手をしっかりと閉じて、トーマに差し出している。しゃがんで目線を近づけて、差し出された手の下に掌を広げる。彼女はそれをじっと見つめて、注意深く指を開いた。
掌に、ころんと指輪が現れた。リリーの髪と同じ色の指輪だ。
「これは何です?」
「センベツだ」
「餞別ですか。へえ」
指輪を手に取り、じろじろと眺めまわすトーマに、リリーは頬をふくらませる。
「へえ、とはなんだ!」
「いえね……」
トーマは目頭を押さえて、わざとらしく涙声で話す。
「まさかこんなものをいただけるとは思ってなくて……。てっきりリル姫様はおれを嫌って王城から追い出そうとしているんだと……」
「何!?そん、そんなつもりでは……!」
「だっておれをステルラへと、陛下に進言したのはあなたでしょう?ああ、きっとおれのことが邪魔なんでしょうね?お転婆な姫君が怪我でもしたらと、行く先行く先探し当てて付いて回ったのがよほどお気に障ったんでしょう」
「違うんだ!」
リリーはぽかぽかとトーマの腕を叩く。大して痛くはないが、その必死な様子がおかしくて噴き出しそうになる。
今日、トーマは王城を去る。
ステルラ王国騎士団総騎士長リヒャルト=ウルブリヒトから、申し出があったためだ。鬱屈したステルラ王国騎士団の状況を変えるために、外からの風を入れたい、ということだった。そのような場合、通常は他の王国騎士団から異動、ということになるのだが、今回、親衛隊からトーマが異動することになった。
それは、事態をよく呑み込んでいないからこそのリリーの奇抜な発案を、国王とリヒャルトがいたく面白がったためだった。
「いいか、トーマ」
「はい?」
リリーは大きな目をくりくりとさせて言う。
「大事な人間には指輪を贈るのだ!一生を誓うという意味だ!」
「はあ……」
「君を私の最初の臣下にしてやる!」
何だか色々なものが混ざっている気がする。しかし特に異論はない。尊大な口調が可愛らしい姫君を、気に入っていた。
トーマは上流貴族の長男として生まれたが、父に疎まれた。原因が何だったのかは定かではないが、最終的に父が養子をとったことで、決別は決定的なものになった。憐れんだ母方の祖母がトーマを養子として迎えてくれたが、その家の子としてトーマが背負うべきものなど何もなく、王の側に仕え得る身分を得ただけであった。
そのせいか、それとも生来の気質ゆえか、トーマは家や国や主君に対する帰属意識が薄かった。誰に仕えるかなど、気に入るか気に入らないか、そんなことで決めていい。
たとえ眼前の姫が、いつかこの約束を忘れたとしても。
トーマは緩やかに笑んだ。
「光栄なんですがね、リル……、これ」
「何だ?」
「ちっちゃいです」
「!」
指輪は左手の小指の第二関節までがやっとのサイズだ。リリーはトーマの手を取り、眉をひそめてしげしげと眺めた。
「兄上のサイズに合わせて作ったのに……」
「……王太子殿下はまだ指が細くていらっしゃる。ま、おれは剣を振るうのが仕事ですからね。太くなるんですよ、指」
「……」
リリーはしばらく、トーマの指をじっと観察していた。手を握る指も、うつむいた頬も、小さくてぷっくりと可愛らしい。トーマは眉を下げてそれを眺める。
ぱっと、リリーは顔を上げて言った。
「では私の指もこうなるな!」
「はい?」
「私も毎日剣を振るっているぞ。父上にはグリゼルダがいるが、兄上が国王になられたら、私がお守りせねばならんからな。だから、そのうちこうなる!」
リリーは目を輝かせて言うが、トーマは想像してげんなりとする。
「嫌ですよ、そんなの」
「なぜだ!?」
「というか、ならないと思いますしね」
「だからなぜだ!?」
トーマは、自分の手をつかんでいたリリーの手を取る。リリーは、トーマの顔を窺うように覗き込む。トーマは伏し目がちに、笑みをこぼす。
小さな指を一つ一つ触れて確かめながら、兄を守ると夢を抱く彼女の未来を想った。どのように生きるとしても、彼女が歩むのは安穏な道ではないだろう。
それを思うと、少し胸が痛い。
トーマは、その小さな指に、そっと口づけた。
「生涯を尽くし、お仕えすることを誓います、我が主君、リリー=ブランヴィータ=ウェルグローリア」
顔を上げると、つい先ほどまで輝いていたリリーの目は、涙をいっぱいためて、じっとトーマを見ている。
その姿を、愛おしくトーマは見る。
――そうして王城を出て、ステルラでの日々が始まる。
ステルラ公、マリア=ウェルグローリアを初めて見たとき、トーマは驚いた。それは、成長したリリーの姿を見るようだった。
プラチナに彩られた大きな青碧の瞳、少し吊り上った眉の形、薔薇色のふっくらとした唇、桃色の頬。ゆるやかに胸元に落ちるプラチナブロンドの髪――。マリアは、涼やかな声でゆっくりと話す女性だった。トーマより少し年上で、ステルラに領主としてやって来てもう六年になるのだといった。
それにしても、王族の側仕えのために礼儀作法を徹底して教え込まれる親衛隊と比べると、ステルラ王国騎士団の若手騎士はまるで猿だ。赴任したその日に大喧嘩が勃発した。
最初に手を出したのはヴェルナー=ウルブリヒトだった。リヒャルトの孫である。前任の隊長の鼻を折り、謹慎させられた直後だというのに、まったく懲りていない。
そんな彼に最初に殴られ、掴み合いになったのはシン=ウィーラントという宗教家の息子だった。ヴェルナーとは同い年の同期で、そのせいもあってか対立意識が強かった。
止めようにも口で言っても通じない。結局初日から実力行使に出るはめになった。
その後、一人一人を呼び出して話を聞いた。後々には好感が持てる彼らの素直さは、そのときには呆れるほどの幼さに見えた。一番ひどいのはヴェルナーの言い訳だった。なぜ殴りかかったのかと問うと、「悪口を言われた」と答えが返ってきた。
そんな話をマリアにすると、彼女は眉を下げて笑った。普段は背筋をまっすぐに伸ばし、凛とした表情を崩さない彼女は、柔らかく、少女のように笑う人だった。
笑う彼女を初めて見たとき、これは困ったと、トーマは思った。
リリーと違うところを発見してしまった――。
そうして、ステルラで五年の時を過ごした。
慌ただしくも幸福な日々は、最悪の形で終わった。
何度も夢を見た。夢の中で、トーマは教会にいる。
実際には見ることのなかった、マリアの最期を何度も見た。
いつもいつも、彼の体は動かない。足を、手を、動かそうと必死に力を込める。でもぴくりとも動かず、叫ぼうにも声も出ない。
繰り返し貫かれ、跳ねる細い体。血しぶき。
とても見ていられず、目を閉じる。
――そして次に目を開けるとき、血まみれの剣を握っているのは――。
そしてまた、教会にいる。
冷たい雨。薄闇の中。幸福をすべて置き去りに、一人で。
*****
「……トーマさん」
その人はまた、教会にいる。僕は彼の名を呼んだ。雨に濡れて、俯いた背中は動かない。
「……何の真似だ?バー……」
消えてしまいそうな声で、トーマさんは尋ねた。僕の後ろに立っているバーさんは、無表情で、ほんの少し首を傾けた。
「こちらのお坊ちゃんがお前を探していたんでね」
「これも、親切のつもりか……?」
そう問われると、バーさんは憐れみと悦びを同居させたような、歪んだ笑みを浮かべた。
「報復だよ」
一言そう言うと、くるりと背を向けて去っていった。
僕はその背中を見送る。
彼もまた、かつてのトーマさんを求める一人だった。随分と歪んではいるが、リリーやヴェルナーさんと同じように。
でも、本当はどうなのだろう?
今のトーマさんは、かつてのその人とは、本当に別人なのだろうか。僕は改めて、トーマさんを見る。ふと、ある疑問が浮かんだ。
――なぜ、この人は教会にいるのだろう。
疑問と同時に、思い浮かんだのはステルラの教会だった。固く鎖で閉じられた、その向こうに、あるもの。
「……トーマさん」
僕はもう一度、その名を呼ぶ。反応はない。手の中の指輪を握りしめた。暴いてしまったのだ。この人の傷の在り処を。
プラチナの指輪。
マリアさんが身につけた指輪。
その人は、教会で死んだ。
教会で、最後のときに、何を祈ったのだろう。
うつむいた背中に、雨が落ちる。跳ねる雨粒が、ほんの少しの光を集めて、薄闇の中で、トーマさんの姿をぼんやりと照らしていた。
目の奥に、静かに熱が広がる。
「マリアさんを、愛してましたか……?」
そう、尋ねるために。
しとしとと、雨音だけが聞こえる。
トーマさんはずっと、黙っていた。僕は、ただじっと、その背中を見つめて答えを待った。
長い長い沈黙の後、震えるような吐息が聞こえた。
「愛していたか、だって……?」
浅く、短く、息は急く。うつむいたまま、両手で顔を覆う。
「おれは、彼女に会わなかった。タグヒュームからステルラに帰って、一度も会わなかった……!……恐ろしかった、彼女の清らかさが!消えないんだ、いつまでも……!炎の臭いが、舞い散る煤と、白い砂塵……、土埃でドロドロに汚れて、拭っても、消えない……!どうしても!だから会いたくなかったんだ!」
会えなかったのではない、会わなかった、会いたくなかった。それは確かに、心の底からの叫びに聞こえた。
タグヒュームからの帰り道、足を進める度に、体は重たくなったのだろう。自責、そして、憤りは、憎しみに変わった。背負いきれない重さに、思わずにはいられなかった。
――なぜ、止めてくれなかった――!
「ああ、そうとも!何度も夢に見た……!血まみれの剣を握って、何度もマリアを刺した……。あれは、おれだ……!」
声が、濁る。悪夢は、毎夜訪れて彼を苛み、やがて、彼は悟った。
「止めようとした!でも、そうだ……!剣を振り下ろすのも、おれなんだ……!憎しみに溺れたのは、おれだって同じだった!」
消え入りそうな声を、彼は永遠に忘れることはない。
――必ず、無事に戻ってくださいね……。
そんな些細な願いすら叶わないまま、そして。
「会える、はずがなかった……!もうだめだった……!タグヒュームで地獄を見た、その瞬間に、おれたちは終わったんだ!」
嵐のような懺悔が終わると同時に、トーマさんの体は脱力するように崩れた。僕はあわてて駆け寄り、彼の体を支えようとした。
「トーマさ――」
しかし、差し出した手は振り払われ、次の瞬間には、僕の体は宙に浮き、床に押さえつけられた。閃光が走るように抜かれた剣が、首に突き付けられた。
乱れたアッシュブロンドの間から、苦しそうに、白い息が漏れる。
「君が目障りでならない……!」
震える手で、強い力で、押さえつけられた胸が苦しい。リリーに見せたのと同じ、僕を拒絶する鋭い光が、琥珀色の瞳に映る。
「どうして今更……?もう、何もかも終わってしまったんじゃないのか……!もう、何も……」
言葉の先は続かない。
雨は、静かに、空間を閉じる。
「……会いたかったんじゃ、ないんですか……?」
不意に浮かんだ疑問が、口をついて出た。
会いたくなかったというのも、マリアさんの死よりも前に、終わっていたのだということも、確かに真実の一端なのだろう。
でも誰が予測しえただろう。その後に訪れる、永遠の断絶を。
「死んでしまうなんて、思わなかったんでしょう……?」
そうでなければ、トーマさんはいつか、マリアさんのもとへ帰ることができたかもしれない。長い時間がかかったとしても、違う結末を迎えたかもしれない。
「だから、今もずっと、苦しいんでしょう……?憎しみだけじゃなくて、望みがまだ、あったんじゃないかって、思うから……!」
震える唇が、うわ言のように、こぼす。
「どうすれば……どうすれば、どうすれば……?」
僕は、口を結ぶ。
それはきっと、幾度となく繰り返された問いだったのだろう。
「タグヒュームの出兵を止めていれば……?タグヒュームで、もっと、何か、対処できていたなら……?あのとき、会いに、行けたら……っ」
しかし何度問うても、答えが出ることはない。
僕は、唇を噛んだ。そうではないのだ。そうではない。目の奥にこみ上げた熱が、もう堪えきれず、あふれ出した。
「あなたのせいじゃ、ありません」
僕は、ジェロームの言葉を思い出した。
――もういいよ。
彼は僕に、そう言った。
その言葉が、僕にはどうしても必要だった。失ったものと、別れるために。
振り向けばまだそこにあるのだとしても、前を向くために。
「あなたが悪いんじゃ、ないんです」
僕は繰り返した。
トーマさんの目が、やっと、僕を見た。琥珀色の瞳。マザーと同じ光を宿した、その瞳。
「……でも、過去は変えられない……!」
――それは、悲しいことだ。悲しい、ことなのだ。
それでも、僕は告げなくてはならない。
「悲劇は起きてしまった。マリアさんは死んでしまった。もう、戻らない……」
トーマさんの顔が、歪んだ。剣を握る手に力が籠もる。それが痛ましくて、悲しくて、苦しい。でも。
「でも、リリーの、ヴェルナーさんの望みは、まだ叶うのに!」
涙が、次から次にこぼれ出た。
「……ヴェルナーさんが……」
僕は、嗚咽を漏らしながら必死で話す。
伝えなくてはならなかったのだ。それが自分のすることだと、ようやく思い至った。
「あなたを、引き止めたいと……」
トーマさんは眉を寄せる。
ヴェルナーさんは言った。もしも反逆者として捕まったら、トーマさんは自分を投げ出すかもしれないと。それだけは絶対に嫌なのだと、両目を震わせて言った。
「リリーが、トーマさんは、最初の臣下だと……」
そうして、彼女は泣いた。大事な人を失くすのはもう嫌だと。止めたいと、終わりにしたくないと、そう叫んだ。
それは、未来へ向かう願いだ。トーマさんとマリアさんが叶えられなかった、遠い未来の、別の結末。
「僕は、二人の願いが叶えたい……!二人の思いが、言葉が、きっと届くと信じたい……!あなたが頷いてくれさえすれば、二人の願いは叶うのに!お願いです!トーマさん……!」
涙で、視界が霞む。でも、トーマさんはそこにいる。
この人を、引き止めたい。ヴェルナーさんとリリーの手を取って、生きてほしい。
失ったものは返らないから。
誰かの願いを借りて、生きることができないのだとしても。
誰かが抱く願いが、喜びになるのなら。
「これが、望みになりませんか……!」
ふと、脳裏に浮かんだ。
ステルラの街の向こう。
北の湖。
封鎖された教会。
舞い上がる白い花びら。
リリーは言った。
――……大好きだった。
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。
そうやって、生きていけるなら。