10.Some people feel the rain. Others just get wet.
――血の海に沈んだ君の恋人が、何を祈ったか考えたことがある?
そう言って、黒曜石の瞳が嗤う。
三年前のあの日、トーマは教会へ行った。
そこには、傷を負い、絞り出すような声で泣き叫ぶクレイグがいた。
普段、滅多なことでは表情を崩すことのない男が、泣いていた。
赤い赤い、血だまりの、そばで。
トーマには、わからなかった。その血だまりの正体が。
傍らに膝をつき、血だまりに手をついて、そうして、指にからんだ、細い、糸のような――。
トーマはそれを血だまりから掬い上げた。目を凝らし、じっと、見つめた。
手が、震える。
プラチナの髪。
そうして、血だまりを見る。
「どこだ……?」
トーマは、うわ言のようにつぶやいた。
「マリア……どこだ……?」
どこもかしこも、赤い。
白い肌も、青碧の目も、桃色の頬も、唇も、指先も。
――どこに消えた……?
トーマは見なかった。その人の、最期の時を。
しかし、知っている。その愛の、結末を。
「懐かしい顔だ」
その声に、トーマは我に返る。
彼は教会にいる。灰色の空は、容赦なく雨粒を落とす。屋根が半分しかない教会の床には、あちこちに水たまりが出来ている。小さな祭壇に掲げられたリナムクロスは、完全に光を失って薄闇に紛れていた。
いつの間にここに来たのか、記憶は曖昧だった。
「……いいや」
残った半分の屋根の下、暗闇の中からまた、声がした。抑揚のない、低い声。
「誰かと思った、の方が正しいな」
トーマは声のする方を見た。暗闇の中で、空気が揺れる。トーマは目を細める。ぎしり、と床が軋む。
「変わり果てたということならおれもそうだがね」
暗闇に浮き上がったその顔に、トーマは総毛だった。
「ランク=キルヒか……!?」
「久しぶりだ、トーマ=ウルストンクラフト。随分失礼な反応じゃないか」
それは、三年前タグヒュームで会った、ウェクシルム王国騎士団の副騎士長だった男だ。
その姿は確かに「変わり果て」ていた。眼帯をしているし、顔の左半分の皮膚が、ただれたように崩れている。
「その顔は……」
「タグヒュームから帰ってすぐ、熱病にかかった」
「……そう、……か」
「びしょ濡れだな」
「ああ……」
トーマは雨に濡れた顔を拭う。その瞬間、急激に現実に引き戻される思いがした。ランクの顔を見る。ランクは、トーマの顔をじっと見ていた。
――この男は、あのリストに名前が載っている。
もしも、ステルラ王国騎士団がこの男がここにいることを知っていたとしたら――。
心臓が大きく脈打つ。吐く息は白い。息が急くにつれ、視界は霞んでいった。
「……ランク」
「なんだね」
その名を呼び終わらない内に、ランクは応じる。
「……お前が反逆軍に加担しているというのは」
「その通りだ」
またもや、質問が終わる前の返答だった。話しにくい。
「トーマ=ウルストンクラフト、タグヒュームの悲劇を覚えているか」
ランクが聞く。トーマは答えない。あの場に居合わせた者の答えなど、一つしかない。
「誰もが思った。なぜ悲劇は起こったのか。どこでどうすればよかったのか。しかし、そんなことを考えても仕方がないのだ。悲劇が起こるのは必然だった」
どこかで聞いた台詞だと、トーマは思った。
「……悲劇が必然だと言うのなら、反逆を犯す必要はあるのか?」
「問題はなぜ必然なのかということだ」
トーマの脳裏に、グリゼルダの言葉がよぎる。
「……引き起こす者がいるから……?」
「そうとも」
――引き起こす者がいる?
トーマは考える。あの悲劇を引き起こしたのは誰だったか。それは、アレクセイ=ライティラではなかったか。しかし、アレクセイは三年前、首を落とされて死んだのだ。
トーマには、悲劇を引き起こす者と反逆がどう関わるのかまったく理解できなかった。
「しかし、我々は暫くの間は地下に潜ることになろう」
ランクが言った。
「ローク様が捕まったからか」
「そうだ。あの方に代わるリーダーがいないのだよ」
不意に、眼前の男への拒絶感が湧いた。なぜかはわからないが、これ以上聞きたくないという気がした。
「……ご苦労なことだ……」
そう言って、立ち去ろうとした瞬間、ランクは言った。
「候補はいるのだがな」
トーマは、反射的にランクを睨んだ。聞くまいと思ったその内容を察してしまった。
「リル……リリーのことを言っているのか?」
ランクの口元が、微かに笑っているように見えた。
「さすがに反応が早い」
「それで、ここでおれを?」
「そうとも、待っていた。お前が内親王殿下と懇意にしていたことは、元親衛隊の同胞が教えてくれた」
トーマは歯噛みした。唯一の救いは、その案を考えたのがロークではないということだ。雨粒を振りはらい、声を荒げる。
「何をしたいのか知らんがリルを巻き込むな!それでもなくてもローク様が捕まり、実妹であるリルにどういう目が向けられているか!そこにお前たちが近付いたりしたら」
「だからしばらく地下に潜るのだ」
この男は、人の話を最後まで聞くと言うことができないのだろうか。文末を遮られると、次に言いたいことまで遮られる気がした。
「求心力のある者を組織が求めるのは当然だ。リリー=ウェルグローリア然り、ヴェルナー=ウルブリヒト然り」
唐突に出てきた名前に、トーマは眉を寄せた。
「ヴェルナー……?」
「知らないのか?リヒャルト=ウルブリヒトが亡くなった後、その後釜にヴェルナー=ウルブリヒトを据えるという話があったのだ」
淡々と、ランクは言った。トーマは大きく両目を見開く。心臓が、ざわめいた。
「……だが、そうはならなかった……」
確認するように、トーマはつぶやいた。
「そう、ならなかった。ステルラの総騎士長に就いたのはダミア=ガルシアだ。今や、あの男の一派が何と呼ばれているか知っているか?“反ウルブリヒト派”だ。“ダミア派”ではないあたりがいかにも、だな」
トーマは目眩がした。
――反ウルブリヒト派?
リヒャルトとダミアは、よく言い合った。と言うより、リヒャルトを盲信するステルラ王国騎士団の中で、ダミアだけがリヒャルトに面と向かい意見する男だったのだ。
しかし、それは派閥になるようなものではなかった。少なくとも、リヒャルトとダミアの間では、そうであったはずだった。
「馬鹿な……!」
「その通り、馬鹿な話だ。“反ウルブリヒト”なぞ毒にも薬にもならん派閥を拠所にするような騎士など、残らず追い出してしまえばよかったのだ。そうすることもできず、結果として、ステルラ公のしたことと言えば、決定的にあの陰気な男のプライドを傷つけたことだ」
「プライドだと……?」
トーマは聞き返す。ランクは抑揚なく、淡々と話し続ける。
「ヴェルナー=ウルブリヒトを総騎士長にと望んだのは民衆だ。その声を承けて、ステルラ公、ウーゴ=マラキアメールは、こともあろうにダミアに相談したのだそうだ」
「……!」
さすがに、トーマは言葉を失くした。
「ダミアが受け入れるはずもない。ヴェルナー=ウルブリヒトを総騎士長に据えるのなら、自分は辞めると言ったらしい。それでウーゴ=マラキアメールは大慌てで、ダミアを総騎士長にしたというわけだ」
トーマは固く拳を握りしめた。
ダミアがもし、トーマがここにいることを知っていたとすれば、そして、まず間違いなく反逆軍に与しているこの男が、ここにいることを知っていたのだとしたら――。
ただ王命に背き、ルドビルへやってきたことが問題ではないのだ。ダミアはそれ以上のことを望んでいる。ダミアは、徹底的にヴェルナーを排除しようとしているのだ。
事もなげに、ランクは言った。
「ヴェルナー=ウルブリヒトは反逆の罪で処刑されるそうだ」
トーマの視界が、ぐらりと歪んだ。体中の血が沸騰して上り詰め、どろどろとマグマのように体を下る気がした。足元の影は、血だまりのように深い。息が、苦しい。
「堕ちたな、トーマ=ウルストンクラフト」
ランクの声がする。
「おれがお前を見たのはあの一度限りだが、それでもわかる。あの頃のお前は、毅然としていた。それが今は……」
トーマは、ただれた左半分の顔を、憎悪と共に見た。
「堕ちたな、だと……?そう言うお前は何様のつもりだ!?何が反逆軍だ!この国はとっくに終わってる!これ以上何が出来るって言うんだ!何も変わらない!何も!どんなにあがいても!滑稽だな、ランク=キルヒ……!」
あえぐように叫ぶトーマを、ランクは憐れむような目で見た。
「滑稽かもしれんな」
そう言いながら、ランクの残された右目は、薄闇の中のわずかな光を集めてトーマを見据える。トーマは無意識に後ずさった。
「あの悲劇を目の当たりにして、心は折れ、その象徴のように、顔の半分がただれ落ちて……、醜さを抱えて、それでも生きている。滑稽だよ。しかしおれはもう恐れてはいない。恐れ、怯え、囚われて、生きながらに腐っている、今のお前のように、過去を、過ちを、あの悲劇を恐れてはいない」
「違う!」
トーマは叫んだ。
叫び、両手で顔を覆う。
「……お前は知っているはずだ……!」
うめくように、トーマは言った。
そう、知っているはず。同じ道を、歩んだはず。
タグヒュームから帰るあの道を、重たい体を引きずるようにして、馬に乗るのもやっとで、汚辱と絶望に塗れ、なぜこんなことになったのかと、憎しみに溺れたその道を――。
「お前だって歩いたはずだ……!」
*****
ルドビルの裏通りで、僕は一人、立ち尽くしている。
あの後、トーマさんはゆらりと立ち上がり、ふらふらとよろけながら、部屋を出て行ってしまった。慌てて引き止めようとしたが、手は振り払われた。追いかけてみたものの、見失った。
ルドビルの裏通りは、冷たく湿った空気に覆われていた。どこへ行けばいいのかもわからず、俯いたまま動けない。
「危ないぞ」
不意に、横から声をかけられた。そちらを見ると、トーマさんに「バー」と呼ばれていた男性が、木箱に座って本を読んでいた。
「……バー、さん?」
窺うように僕は問う。彼は、ぱらりとページを繰り、本に目線を落としたまま話す。
「トーマに言われなかったのか?ここは表通りよりよほど危ない場所だ。例えば、そう。今この場所で、誰もお前さんを見ちゃいない。そうだろ?」
僕は辺りを見回す。バーさんだけでなく、裏通りには小さな露店を開く人や、壁を背にして眠る人、黙々と何かの作業をしている人たちがいた。そのどれもが、どこか気だるげに、誰とも目線を合わせることなくうつむいている。
「……はい」
僕が答えると、バーさんは微かに笑んで、またページを繰る。
「でもな、お前さんがその腰のとこに隠してるものにちょっとでも触れてみろ。そうすれば……」
バーさんは、ゆっくりと目線を上げ、含み笑いを浮かべて、首を傾げた。僕の腰には、マロリーさんから借りた短剣が隠れている。
見ていないようで、見られている、ということなのだろう。
でも今、僕にはそんなことはどうでもよかった。
「トーマさんを、見ませんでしたか」
「トーマ?さあね、見たかもしれないし、見てないかもしれない……」
バーさんは、口元に笑みを浮かべたまま僕を見ている。僕はうつむいた。後悔が、体中に渦巻いている。
トーマさんを初めて見たとき、僕は彼が怖いと思った。彼は似ているのだ。マザーに。
マザーは、コルファスの孤児院の子どもたちの母だ。彼女にはたくさんの息子がいた。そのうちの最初の一人を、十一年前、彼女は失くした。
彼女が息子を失うことになった原因は、僕だ。僕が手を下したわけではない。それでも僕がいなければ、彼女が息子を失うことはなかった。
そうして、僕は、僕自身の全てをマザーに捧げた。それ以外に差し出せるものなどなかった。マザーの息子の代わりに、マザーの側で、マザーの息子の名を名乗り、マザーの息子が歩んだであろう道を歩んできた。
そうしろと言ったのはジェロームだった。僕は償わずにはいたたまれず、マザーはそのままでは生きられなかった。
でも、それが何になったのだろうと、僕は思う。
代わりのものを与えられても、マザーは苦しみ続けたのだ。再び失うことを恐れ、彼女は僕を離せない。それでも、僕は僕でしかない。そうして僕を拒絶しながら、すがりつかずにいられない。
失われたものは、戻らない。永遠に。それだけは、どれだけ願っても、祈っても、叶わない。
――それは悲しいことだ。悲しい、ことなのだ。
「……泣きそうな顔だ。何が悲しい?」
バーさんが問う。僕はうつむいたまま首を振った。
「……トーマさんを、探してるんです……」
「トーマをねえ……。そうか、つまり、お前さんが悲しいのはトーマが見つからないからか?」
まるで、迷子の子どもをあやすように、バーさんは優しく言った。
「わかるよ。あいつはどこにいるんだろうねえ……。おれも探してる、もうずっと、長いこと……」
よく意味が飲み込めず、僕は彼を見た。バーさんの目は、どこか遠くを見るようだ。
「ルドビル……、この愛すべき無法地帯が誕生したのは、この国が、栄光に彩られていた頃さ。偉大なる王、輝かしい継君、勇ましい騎士たち、伝説から抜け出たような英雄――、そんなものは息苦しい、鬱陶しい、面倒だ……、そういうやつらが集まってできた、小さな楽園だった」
ぽつりぽつりと話しながら、バーさんは本のページを、ぱらり、ぱらりとめくる。
「だがね、今からほんの数年前……、そんな小さなはぐれ者の楽園すら許さないと、ウェクシルムと、ステルラの騎士たちが町に乗り込んできた。あっという間、ほんの一瞬で、おれたちは楽園を失った」
ふと、僕はルドビルの表通りの様子を思い出した。焼き討ちか、暴動でも起きたのかと思った、建物の残骸。あれは、ルドビルが一度滅んだ跡だったのかもしれない。
ぐしゃりと、紙を握りつぶす音がした。見ると、本のページを握りつぶした手をぶるぶると震わせながら、バーさんの顔が歪んでいた。
「今でも覚えているよ……。あの恐怖、琥珀色の、おれを見下ろす、あの、騎士の冷たい目――。ああ、絶対に忘れはしない。必死に逃れて、神代の化物どもの気配におびえながら螺旋山をみっともなく這いずりまわった、あの、屈辱……!忘れるまいと、いつか必ず、報復してやると、そう誓った……!」
バーさんは一瞬歯を食いしばり、握りつぶしたページを引きちぎったかと思うと、本を投げ捨てた。そして立ち上がり、本を勢いよく、繰り返し踏みつけた。
「それが!ようやく再会できたと思ったら!ああ!つまらない!悪をくじき正義が勝つだけの山も谷もひねりもねえ勧善懲悪の三文小説並みに!あいつはふぬけてやがったんだ!」
僕は一体何が起きているのかわからず、ただ見ているしかできなかった。やがて本が踏みつけられぼろ紙の集まりになると、バーさんはぴたりと足を止め、大きく息を吸って、吐いた。
「どこに行ったんだろうな……?あの、凍てつくほどに気高く、美しい騎士は……」
そう言って、乱れた髪の間から、怪しげな光を帯びた目をこちらに向け、歪に嗤った。