9.幻
水滴が頬に落ちる。僕はベッドの上で目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。
部屋の空気が冷たく湿っている。雨音は聞こえないが、雨が降っているらしい。
僕はゆっくりと体を起こす。今は何時だろう。時間の感覚がまるでない。薄暗い部屋を見渡すと、テーブルのそばの揺り椅子で、毛織を被ってトーマさんが眠っていた。テーブルの上には、鍵がある。
僕は、極力音をたてないように立ち上がった。ゆっくりとテーブルに近づいて、トーマさんの様子を窺う。目がしっかりと閉じられていることを確認して、僕は鍵に手を伸ばした。
しかし鍵に触れようとした瞬間、僕の手は強い力でつかまれた。
「い……っ」
僕の手をつかんだ先を見ると、先ほどまで閉じられていた目が鋭い光を帯びてこちらを見ていた。
「トーマさ……」
その目に怯み、手を引こうとした瞬間だった。
僕のお腹が間の抜けた音を立てた。
トーマさんの目から鋭さが消え、僕の手をつかむ力が緩んだ。僕は顔から火が出そうだ。手を引いて、お腹を押さえる。
「……そこに、座って」
静かな声で、トーマさんはベッドを指で指した。僕はうつむいたまま、素直に従う。
トーマさんはテーブルの上の布袋から、いくつかの包みを取りだす。包みの中身は、小麦のパンとチキンだった。それをナイフで切りわけて器に入れ、渡してくれる。
「……ありがとう、ございます……」
僕はおずおずと器を受けとり、パンとチキンを口に運んだ。昨日の晩から何も食べていなかった。
トーマさんはしばらく僕の様子をじっと眺めていたが、やがて腰に下げた袋から煙草を取りだし、煙草を吸い始めた。
その横顔を見ながら、ふと、ヴェルナーさんの言葉が浮かんだ。
――トーマは絶対、ぎりぎりのとこで人を見捨てたりしない。あいつが絶対助けてくれる。
教会での再会の後だというのに、ヴェルナーさんは、はっきりとそう言いきった。
そして、確かにトーマさんは、僕を見捨てはしなかった。自分が危険な状況にいることにすら気付いていなかったのだ。もしトーマさんが助けてくれなければ、今頃は牢の中だったのかもれない。
最後のパンの一かけらを飲みこむと、トーマさんがワインを渡してくれた。それを一気に飲み干す。
「……あの」
僕はトーマさんの様子を窺う。
トーマさんは、ため息をついたが、片手を差し出して「どうぞ」という仕草をした。
「僕、やっぱり行こうと思います」
「……どこへ、何をしに?」
「ステルラへ。ヴェルナーさんの罪が少しでも軽くなるように」
トーマさんは黙っている。彼が纏う空気が険しくなるのを感じながら、僕はできるだけまっすぐ背を伸ばして続けた。
「議会のリストにあなたの名前がないのだとしたら、あなたに会いにきただけのヴェルナーさんは王命違背にはならないでしょう?でも、ヴェルナーさんがここに来た目的を知ってるのは僕とリリーだけです。リリーは言えないだろうから、僕が言います。ステルラに行って、ヴェルナーさんは王命に背いてなんかいないって」
そこまで言って、僕は怯んだ。
トーマさんは僕を見ていた。紫煙の中で、アッシュブロンドの髪の隙間から、苛立ちを露わにした目が、こちらを見ていた。
「意味がない」
トーマさんは、濁った声で言った。
「そう、議会のリストにおれの名はない。事実だ。だが、君は言ったな?ヴェルナーがおれを騎士団に戻すためにリリーを利用し、嘘をついたのだとしたら、あいつが騎士団を辞めたことの説明がつかない、と。では、ヴェルナーが嘘をついていないのだとすると、ヴェルナーに渡されたリストには、おれの名があったということだ」
僕には、トーマさんが言わんとすることがよくわからなかった。確かに、ヴェルナーさんが見たリストにトーマさんの名前があったとするなら、中身の異なるリストが二つ存在することになる。
「ヴェルナーは、リストにおれの名があると知って、何をした?」
トーマさんが問う。
「ルドビルに……」
わからないまま、僕は答える。
「そうとも、ルドビルに来た。騎士団はヴェルナーを捕えても、それで引きあげず町を封鎖した。なぜか?ここが無法の町だからだ。わかるか?リストが下された直後に、唐突に騎士団を出て、そういう場所にあいつは来たんだ」
そこまで言われても、僕にはまだわからない。
「でも、ヴェルナーさんはリストにあなたの名前があると思ったから――」
言いかけて、はっとした。
そうだ。リストは二つあったのだ。
トーマさんの名前のないリスト。そして、トーマさんの名前が加えられたリスト。真実でないリストを、誰かが作った。
そして、その誰かは知っていた。反逆者のリストにトーマさんの名前があれば、ヴェルナーさんが動かずにいられないこと。
結果、ヴェルナーさんは捕まった。王命違背の罪でもって。
僕は、トーマさんの顔を見る。唇が震える。
真実がどうかなど、「意味がない」のだ。
誰かがヴェルナーさんを貶めようとしている。あのとび色の瞳の、まっすぐな騎士を。
「……ヴェルナーさんは、どうなるんですか……?」
「これまでの奴の功績を考えれば、爵位剥奪、家督没収、永久追放……、そんなものだろう」
トーマさんの目は、徐々に光を失っていく。彼の目はもう、僕を見てはいない。
「……トーマさん……」
僕は、彼の名を呼んだ。
しかし、彼はぼんやりと、遠くを見るような目で、言うのだ。
「君が外に出るためのルートはじきに確保できるよ。数日の内に手筈が整うそうだ。故郷に帰るなり、旅を続けるなり、もう忘れたまえ。君にできることはないよ」
その言葉は、僕の胸にぐさりと刺さった。
僕は拳を握りしめる。自分の無力など、噛みしめてわかっている。でも、そう言ってしまったら、もう諦めるしかないではないか。
歯を食いしばって、指先まで広がる、しびれるような痛みを堪える。
目の端に、ぼんやりと床を眺めているトーマさんの姿が映る。
その姿に、痛みは全身に広がった。
どうしてそんなにも、どうでもいいという顔をしていられるのか!
僕は立ち上がり、トーマさんに前に立った。彼はゆっくりと、僕を見上げる。
薄暗い部屋の中で、その目の光は、鈍い。
僕は、胸元から指輪を取り出し、トーマさんの眼前に突き出した。
トーマさんの視線が、指輪に落ちる。
「これが、何だかわかりますか!?」
トーマさんは、じっと指輪を見つめている。
「リリーが、マリアさんの亡骸から拾い上げた指輪です!あなたがマリアさんにあげたものでしょう!?」
声をあげたら、こみ上げる悔しさや悲しさや切なさが、ごちゃごちゃになってあふれ出して、止められなかった。
「あなたはこれの代わりに、マリアさんの指輪を受け取ったんでしょう?それを捨てて、拾ったのはヴェルナーさんだ!どうして!どうしてそう簡単に捨ててしまえるんですか!あなたが捨てたものを、拾う人がいるのに、どうして!?今度はそれまで捨ててしまうつもりなん――」
そこまで言って、僕ははっとした。
トーマさんは、完全に硬直していた。
指輪を見つめるその両目は、あの日教会で、リリーの肩越しに見たのと同じ――。
――怯えている。
そう、見えた。
僕は、咄嗟に指輪を握りしめて隠した。トーマさんは動かない。
今更に、ヴェルナーさんの言葉を思い出した。
―――お姫さんって、マリアさんによく、似てる。
微かに、震えるような呼吸音が聞こえる。トーマさんは、息を覚束なくしながら、がくがくと震える両手を体の前に差し出して、目をぐるぐるさせながら何かを見ている。
彼の手には、何もない。
「……トーマさん」
僕は彼の名を呼んだ。
トーマさんはびくりと反応して、僕を見上げた。琥珀色の瞳が、揺れる。
彼は、もう一度自分の両手を見た。そして歯を食いしばり、うつむき、震える両手で自分の体を抱きかかえるように体を曲げてうずくまった。
―――この人は……。
これが、この姿が傷の在り処なのだ。
その姿に、僕は何よりもまず、思い知らされた。
簡単では、なかったのだ。
リリーの顔かたち。出会った場所で、ともに過ごしたヴェルナーさん。もう、この人の他には誰も知らない、指輪を交わしたその日、そのとき。
何もかもが、マリアさんの面影につながる。
それは、秘められた愛だった。この人がどんな風に、どれだけマリアさんを愛していたのか、誰も知らない。
後悔が怒涛のごとく押し寄せた。
ああ、そうだ。蓋をして隠して、嘘をついてごまかして、何でもないようにするしかなかったのだ。
この姿では、とても生きてはいけない――。
動けなかった。声を発することもできなかった。ただじっと、トーマさんを見ていた。