7.羊の戯れ
「なあなあ、隊長、どうしてるかな?」
ナコルが言った。
「さあなー」
エクトルが鷹揚に答える。
「まー隊長だし」
フレンが応じる。
「隊長だしってそれがむしろ心配だろ……」
マリノが言う。
「ああー……、ってブレーだなおい!」
フレンが笑う。
「いやでも隊長だしね!?」
ナコルが便乗する。
「隊長だもんなあ……」
エクトルがしみじみと言う。
そして一瞬の沈黙の後、全員で爆笑しはじめる。
「うるさあい!何がおかしいんだよ!」
牢番は怒声をあげた。何度目かの牢番の叫びに、彼らは悟りを開いたかのような顔で沈黙する。
牢番は、肩で息をしながら涙をこらえる。
ステルラ王国騎士団の地下牢である。
騎士館には、地下一階と二階に牢がある。その一階に今、第一分隊の面々がいる。外ではなく、内にである。
隊長に似て大雑把で、緊張感のない彼らは、数分おきにこんな遣り取りを繰り返し、牢番は苦行と化していた。
なぜこんなことになったかといえば、数日前のことである。
第一分隊の隊長であるヴェルナーが突然、王国騎士団に辞意を告げた。それだけでも大事だったが、事は思わぬ方向に進んだ。総騎士長ダミア=ガルシアは、それを受理しなかった。さらに、ヴェルナーを王命に背いたとして捕縛しようとしたのである。
そこで、ヴェルナーは自分を捕えようとするダミアの腹心を叩きのめして逃走した。
ヴェルナーに心酔している第一分隊の騎士たちは、理由も事情もよく知らないまま、ただ自分たちの隊長のすることだと、その逃走を助けたのである。
その罰として、今、彼らは地下牢にいるのである。
「隊長……」
茶色の短髪をぴょこぴょこさせて、ナツが呟いた。
第一分隊に配属されたばかりの十六歳である。精鋭揃いの中にあっては剣の腕も今一つだが、見習いの時分から、ヴェルナーの髪型や服装を真似して回るほど彼を慕っていた。そんな彼を、第一分隊の面々は弟のように可愛がった。ときにからかい、ときに使い走り、稽古と称していじり倒し可愛がる、のである。
「何、何!?ナッちゃん泣いてんの?」
フレンが身を乗り出して言う。
「泣いてないッス」
「なあ~んだよ~、大丈夫だって!泣くなナッちゃん!」
ナツの答えをかき消して、ナコルが続く。
「泣いてないッス……」
「そうそう。隊長は大丈夫に決まってるからな!」
エクトルがうんうんと頷きながら言う。彼らにはそもナツの答えを聞く気などない。
「エクトルが言うと心配になるよな」
マリノが言った。
「マリノこらあ!」
エクトルが鉄の格子をガタガタと揺らしながら暴言に抗議する。
「うるさいって言ってるだろ!」
耐えかねた牢番が、怒鳴りながら彼らの眼前に滑り込んできた。
「もうたくさんだ!何度も何度も同じこと繰り返しやがって!」
至極当然の牢番の憤慨に、理不尽にもブーイングの嵐が巻き起こる。
「人をボケ老人みたいに言うな!」
「牢番の分際で、もうたくさんだと!」
マリノとエクトルが格子をガンガンと蹴る。牢番は、エクトルの牢を外から蹴り返しながら積もり積もった不平を叫んだ。
「牢番の分際で、だと!俺は第二分隊の隊員なんだよ!お前らがつまらんことするから見張りに回されて」
「下っ端じゃねえかあぁ!」
エクトルは下唇を突き出して言う。彼はこれで、第一分隊の副隊長である。
「ハッハ!ありがたく見張りやがれ下っ端ァ!」
「下っ端ァ!下っ端~!」
フレンとナコルが手を叩き尻を叩いて下っ端コールをする。
「だまれえええええ!!」
牢屋番は悲痛な叫びをあげる。そうしてあちこちに飛び火しながら、地下牢が静まることはないのだった。隣で展開される口論などどこ吹く風で、ナツはぼんやりと言った。
「あ~あ~……たいちょ~……」
*****
ヴェルナーがステルラへ連れ戻されたのは、深夜だった。
出迎えたのは、総騎士長ダミア=ガルシアである。
手足を拘束され、自分の前に引き出されたヴェルナーを見て、ダミアはぬるりとした笑みを浮かべた。
「英雄の孫が笑わせる。ひどい様だな、ヴェルナー」
ヴェルナーは顔を上げ、ダミアを見る。
第一分隊の隊長と隊員であった頃からの因縁の仲である。
「仁義にもとる真似をするなって家訓なんでね」
ヴェルナーは片目を眇めて笑う。
いつもと変わらぬその様子に、ダミアは表情を昏くした。
「王命に反する仁義などない」
そして、ヴェルナーのあごを乱暴に引きつかみ、歪んだ笑みを間近に見せる。
「なあ、英雄の孫……、お前が一体何を受け継いだと言うんだ?リヒャルトから……」
ヴェルナーは、その顔をじっと見ている。
この男は本当に、いつまでも変わらないと、ヴェルナーは思う。騎士館の廊下を歩くたびに祖父の七光りと囁かれたのはもう、八年も前のことだ。今、こんなことを言うのは眼前のこの男だけである。ヴェルナーには彼が、常に後ろを向き、過去に囚われているように見えた。
ダミアは、ヴェルナーのあごをつかんでいた手を乱暴に引き離すと、吐き捨てるように言った。
「リヒャルトの後を継ぐ者などいない……!連れて行け!」
その言葉は、ヴェルナーの心に微かな痛みを覚えさせる。
祖父の血を引き継いだことは、何かの使命であったのだろうか。
否――、ヴェルナーは笑んだ。「百年早い」のだ。
幼い頃から、祖父のようになりたいと口にする度に、変わらなかった答え。百年の差は、ついに一年も縮まることなく祖父はこの世を去った。課せられた使命など、どこにあるというのか。
地下牢へと続く暗い階段を歩きながら、ヴェルナーは思う。
――今、ステルラは病んでいる。
マリアの死によって、この街は、タグヒュームの悲劇を身を以て味わった。そして今、リヒャルトという光を失って、いよいよ暗闇に呑まれようとしている。
ダミアは、いつもその暗闇の中にいる。
王国議会のリストにトーマの名を見つけた時、ヴェルナーは思った。昏く、ぬめった笑みを浮かべるこの男は、何が何でもトーマを捕え、その罪を負わせるだろうと。
――ジウは、トーマに会えただろうか……?
不安がよぎる。
無事だったろうか。トーマに会えていれば、何とかなったはずだ。そして、リリー――。
宿に彼女を訪ねて行った晩、正面からその顔を見て、ヴェルナーは驚いた。往年のステルラ公が甦ったようだった。
――巻き込んでしまった。
そう思った。彼女の彼を守ろうとして言ったことは、一つも聞けなかった。それが、彼女をも危険に巻き込んだ。
ヴェルナーは自嘲する。これでは、英雄の孫として生まれただけの無力を謗られても、言い返す言葉もない……。
地下二階の牢の入口に、見慣れた顔があった。第一分隊に入ったばかりの頃は、まさに犬猿の仲だった。それがトーマによって、そして八年という時間をかけて、ようやく戦友と呼べるようになった男である。
シン=ウィーラントは柔らかく笑んだ。
「……おかえり」
嫌味の割に優しい声に、ヴェルナーは苦々しく笑い、言った。
「うるせえ、くそったれ」
騎士館の地下二階は重犯罪者が入る牢である。そこに押し込められたヴェルナーを見て、シンは呆れたように言った。
「お前、ざまあねえなあ」
「うるせえっつってんだろ!」
ヴェルナーが怒鳴る。
牢番が鍵を閉め、ヴェルナーを引き連れてきた騎士たちは、シンに軽く礼をして出て行った。
牢番は、のっそりと入口の鉄柵の側にある、壁をくり抜いただけの扉のない小部屋に入る。ここの牢番は、地下一階の牢とは違い、番を仕事として、交代制で常駐している。騎士団の内情など知らず、格子の向こうにいる人間が、いかなる罪でそこにいるのかに興味もない。ただそこで、番をするだけである。
シンは、煙草に火を点けながら言った。
「第一分隊の連中、この上の牢にいるぞ」
その言葉に、ヴェルナーは顔をしかめた。シンは平然と煙草をふかしている。
ふと、一体いつから吸い始めたのだろうと、ヴェルナーは思う。ともに第一分隊にいた頃は吸っていなかった。
「……シン」
ヴェルナーは、一瞬視線を床に落としてから、窺うようにシンを呼んだ。
「“さん”を付けろよ?」
「……っ」
ヴェルナーが言わんとしていることなどわかりきっているらしい。シンは、素っ気なくヴェルナーに煙を浴びせかける。甘ったるい煙草の香りに咽る。ヴェルナーは下唇を突き出し、ぼそりと言った。
「……シン、さん」
「……」
プライドをずたずたにして「さん」付けで呼んだというのに、シンは目を閉じ、黙っている。そうしてしばらく煙草を楽しんだ後、火先を石の床に押し付けて火を消すと、あっけらかんと言った。
「予想外に気持ち悪いわ。聞く気失せた。じゃあな!」
「待たんかコラあッ!」
すたすたと出口に向かう背中に、鉄格子をガンガン蹴って全力で抗議する。シンは、「冗談だ」と言いながら飄々と元の位置に帰ってきた。
彼は今、ステルラ王国騎士団の副騎士長である。その権限で以て、自分はともかく、巻き込んだ部下たちを助けてほしかった。
「ま、それくらい何とかなるんじゃない。少々の罰は受けるとしても、若気の至りってことで。俺らもいろいろやったしなあ」
「……」
ヴェルナーは口の端を下げる。出会った当初はこうではなかったと思うのだが、どういう経過を経てか、今現在、シン=ウィーラントはこういう男だ。
暖簾に腕押しのような手応えのなさ、しかし勢い余って転がり込んだ暖簾のうちで、のんびりと座ったままひらひらと手を振って迎えてくれる。
「で、お前は何でまたこんなバカな真似をしたんです?」
「……」
ヴェルナーは目をそらし、黙る。次の瞬間、鉄格子の隙間から容赦のない蹴りが飛んだ。ヴェルナーは尻もちをつき、げほげほと咳き込む。
「てめえ……!」
「あ、ごめん起きてた?寝てんのかと思って」
「目ェ開いてただろうが!?」
「あ、ごめん節穴かと思って」
「~~っ!」
ヴェルナーは歯噛みする。大体口げんかでシンに勝てた試しはない。
「……トーマに、会いに、行ったんだよ」
口ごもりながら言うと、沈黙が流れた。顔を上げられずにいると、シンは率直な感想を簡潔に述べた。
「バカめ」
それでも、軽やかな声に重みが混じって、それが心からの言葉であることが伝わる。
救われるような思いがして、また救われるような思いがしたことがばかばかしく、ヴェルナーは自嘲する。
「返す言葉もねえよ」
両手を上げてシンを見ると、その目は予想外に厳しく自分を見ていた。ヴェルナーは眉を下げて小さく笑う。
第一分隊に配属された頃から、幾度となく喧嘩を繰り返してきた。祖父の七光りと揶揄され、許しあえず、認め合えず、ドロドロと憎み合った頃があった。トーマがやって来たその日、彼が自分たちを打ちのめして叩き壊してくれなければ、今もそうだったかもしれなかった。
だが今、自分を見るその厳しさに、かつて感じた憎悪の色はない。
「なあ、お前、あの時何て言われたの?」
ふと思い立って、ヴェルナーは尋ねた。
「あの時?」
「トーマに最初にぶっ飛ばされて、その後呼び出されただろ?」
「ああ……」
シンは、渋い顔をする。その顔に、ヴェルナーはまた笑みをこぼす。その締まりのない顔に、シンは口の端を下げる。
「お前なんかに言うか」
「何だよ、いいだろ、もう。時効だろうが」
「言わんと言ったら言わん」
シンはぷいと顔をそむける。その横顔に、ヴェルナーはへらへらと笑う。
「バカめ」と言われて救われた気がした時点で、もはや張るべき意地もありはしない。
ぽつりと、こぼした。
「……すげえ、堪えたんだ」
シンはヴェルナーを見る。うつむいた顔は、微かに笑む口元しか見えない。
「じいさんが死んで、つらいとか悲しいとか以前に、ぼっかり大穴が空いた気分……」
シンは、眉を寄せた。
「これ以上は、ダメだと思ったんだ。トーマだけは、トーマのことだけは、何とかして止めなきゃダメだと、思ったんだよ。どうしても……」
タグヒュームの悲劇から、祖父は、彼にとっての監視者だったのかもしれなかった。監視者になったのかもしれなかった。
膝を折るわけにはいかない。地面を見つめて歩くわけにはいかない。目標にし続けてきた祖父が、すぐそばで自分を見ている――。
しかし、祖父はこの世を去った。そこに、あのリストだ。ヴェルナーの足を、腕を、全身を、過ぎ去ったはずの重たい過去がからめとり、引きずり、圧し掛かった。
「バカめ」
二度目の言葉に、ヴェルナーはゆっくり顔を上げた。
「どうせ、はねつけられたんだろう」
しかめ面で放たれたシンの言葉は、あまりにも図星で笑いが出た。笑ったところを、再び格子越しに蹴りが飛ぶ。
「いてえんだよ!何度も蹴るな!」
「笑ってんじゃねえよ!バカか!」
「バカで悪かったな!」
お互いに喧嘩腰になるが、鉄格子を挟んで取っ組み合うのもばかばかしい。ため息をついて、顔をそむける。
「俺、追放かな?」
「ああ、いいね、胸がすくね」
「寂しいだろうが」
「ふざけろ」
そんなやりとりをしながら、ヴェルナーは笑った。
ダミアは言った。「リヒャルトの後を継ぐ者はいない」と。しかし、それは黙っていた。
かつて、どうしようもなくいがみ合った相手と、こうして笑っている。それだけで、何も後悔はないと、そんな気がした。