6.真偽
教会に辿り着いたとき、日はすっかり高くなっていた。
トーマさんはまだいない。他に当てがあるはずもなく、僕は歪んだベンチのそばに座り込んだ。自分の体を抱くようにしても、震えが止まらない。何を考えようとしても、考えがまとまらない。こんな状況は、生まれて初めてだった。
どれくらいそうしていただろう。不意に、頭上から声がした。
「……何してる?」
顔を上げて見ると、トーマさんがいた。怪訝な顔をしている。
「あの、リリーがいなくて!ヴェルナーさんが王国騎士団の人に捕まって、それで、どうしたら」
準備なく話し始めたせいで、内容がさっぱりまとまらない。トーマさんはゆっくりと言った。
「落ち着け。何だって?」
僕は、もどかしい気持ちを押さえながら胸に手を当てて息を整え、言い直す。
「朝起きたら、リリーがいなくなってたんです。ヴェルナーさんが、誰かに連れ去られたんだって、そう言って」
トーマさんは、ほんの少し眉間の皺を濃くしただけで、黙っている。
「そうしたら、いきなりステルラ王国騎士団の人がたくさん来て、王命違背の罪でヴェルナーさんを捕まえるって」
そう言うと、トーマさんは片目を眇め、小さく首を傾げた。
「王命違背?ヴェルナーを?なぜ?」
「わ、わからな――」
言いかけて、ふと、ステルラでのことを思い出した。リリーは一度、ヴェルナーさんを止めたのだ。
「も、もしかしたら、あれのことかな?王国議会が下したっていう、反逆者の取り調べリスト……」
「反逆者の取り調べリスト?」
トーマさんは、鋭い目で僕を見ている。
「ヴェルナーさんが言ってたんです。それにあなたの名前があって、でもあなたは反逆者じゃないって……。だけど、でも、だからリリーは、休暇をとるだけにしろって……」
トーマさんは、一瞬視線を落とし、言った。
「……王国議会が下した反逆者のリストにおれの名前がある?」
「ヴェルナーさんがそう言ってました」
トーマさんは、口を手で覆う。目線は空中を彷徨い、何事か考えている。
そしてもう一度呟いた。
「おれの名がある……?」
確かに、トーマさんにとっては大事だろう。そうは思っても、今はリリーやヴェルナーさんのことが気にかかる。耐えかねて、僕は言った。
「あの!どうしたらいいんでしょう!?リリーが、ヴェルナーさんが!」
トーマさんは、狼狽えたような目で一瞬こちらを見た。それから周囲に視線を巡らせる。周囲には、誰もいない。
「王国騎士団が来る前に、リルはいなくなっていたんだな?」
トーマさんは緊迫した声で言った。その声に、昨日聞いた濁りはない。
「そうです。荷物もなくなってて」
「それならおそらく、問題はない……」
「え?」
「連れ去った相手に心当たりがある」
「え?」
それ以外に言葉をなくしたように、僕は聞き返すしかない。
トーマさんは、いろいろな可能性をぐるぐると頭の中で巡らせるように、また視線を動かした。
「あ、あの、じゃあ、ヴェルナーさんは?僕に教会に行けって言って、窓から出ていって」
トーマさんは厳しい顔で僕を見た。
「君は何者だ?」
普段、そんなことを聞かれることは滅多にないのだが、そういえば、神官の恰好をしていないのだった。
「あ、僕……、僕は、ジウ=シガン……。コルファスの神官です。」
「神官?」
トーマさんは、僕の姿をじろじろと見る。
「なぜ神官が?」
「リリーの、ええと、友達、なんです。スタウィアノクトに連れて行ってもらう予定で」
「なぜそんな恰好を?」
「この街じゃ目立つからと」
「神官服は?」
「マロリーさん……、人に、預けてます」
「ああ……」
トーマさんはため息交じりに呻き、額を押さえた。質問攻めにされて、僕には何が何だか全く訳が分からない。
「あ、の」
口を開きかけた時、そう遠くない場所で王国騎士団の笛の音が聞こえた。
「ついておいで」
トーマさんは顔を上げ、踵を返して歩き出した。
「ど、どこに?」
「君をかくまう」
「ど、どうして僕を?リリーが、ヴェルナーさんが!」
そう叫ぶと、トーマさんは立ち止まり、振り返って怒鳴った。
「わからないのか!?ヴェルナーは君を逃がしたんだ!」
僕は目を丸くする。
「僕を?どうして!?」
言われるがままに隠れはしたが、僕がステルラ王国騎士団に追われる理由などない。
どういうことだろうと考えてみても、混乱したままの頭では何も思い当たらない。
トーマさんは苛立たしげに言った。
「神官である君が、なぜか明らかにその身分を隠してどう考えても用のないこの無法の町にいる!」
そう言われてようやく思い至った。
確かに、僕は完全に不審者だ。
「ルドビルはもうとっくに封鎖されているんだぞ!もし取り調べられたらどう説明するつもりだ!?反逆者が潜む町に、リルに連れられてきたと言うつもりか!?あるいは身分を隠している君自身、反逆に関わる者と疑われたら!」
血の気が引いた。その通りだ。
ここは無法の町だ。だからこそマロリーさんはリリーを止めようとし、リリーは僕とヴェルナーさんを止めようとしたのだ。
わざわざ神官服を着替えてこの町に入り、「迷い込んだ」では済まされない。リリーの名を出すわけにいかない。この町にいる明確な理由を僕自身が持たないがゆえに、不自然さは疑念を呼ぶだろう。
青ざめた僕に舌打ちをして、トーマさんはさっさと歩いて行ってしまう。
遠くに王国騎士団の姿が見えた。
とにかく、捕まって問い質される事態は避けなくてはならないのだ。僕は、唇を噛んでトーマさんの後を追った。
トーマさんに連れられて、川沿いに、森へ入った。
薄暗い森は、あちこちから気配がした。人の気配ではない。どこかで感じたことのある気配だ。コルファスの後ろにそびえる死の山マヌモルト、それを囲む惑いの森――、神代の時をそのまま残す地が放つ気配。ひそひそと囁きながらこちらを窺い、木々の、草々の間から覗く目と、もし目が合ってしまったら、一瞬のうちに引きずり込まれ、きっと二度と帰れないのだ。
日が出ている間、僕たちは森でじっと隠れていなければならなかった。ステルラ王国騎士団の騎士たちが、何かを探すように森にやってきては、引き返す。
日が傾きはじめた頃、トーマさんは立ちあがった。
「行くぞ」と一言だけ言うと、すたすたと森の奥に進んでいく。僕は慌てて後を追う。急に立ち上がったせいで、真っ直ぐ歩けない。
森は、夜の気配を放ちはじめている。これ以上、ここにいてはいけない。
やがて森を抜けると、峡谷に出た。鬱蒼と茂る木々が、そびえ立つ岩壁を覆っている。見上げると、岩壁の間に、青白い月が覗く。岩壁に挟まれた道をしばらく進み、飛び石伝いに川を渡る。渡った先に、木の枝で隠されてわかりづらいが、岩壁をくり抜いた入口があった。
トーマさんの後に続いて、一歩入って驚いた。入ってすぐの階段を降りると、中は洞窟になっていて、たくさんの蝋燭の明かりが灯っている。
「ルドビルの裏通りだ。一部の住人しか知らない隠れ家のようなもの……」
トーマさんが言った。僕はただ目を丸くするばかりだ。
ここを「裏通り」と呼ぶなら、外の町は「表通り」なのだろうか。でも、こちらのほうが秩序のある町のように見える。酔っ払いがいないし、喧嘩をしている者もいない。壁面には、扉や窓があり、その側で、木箱やベンチに座って作業をしたり、本を読んでいる人々がいる。
「バー」
黒い扉の前でトーマさんは立ち止まると、そこで本を読んでいる男性に呼びかけた。男性は顔を上げると、眠そうに目をしぱしぱさせて言った。
「……おう、あんたか」
男性は立ち上がると、座っていた椅子の上に本を放り、伸びをした。
「部屋を貸してくれ」
トーマさんは言う。首をコキコキと鳴らしながら、男性はにたりと笑う。
「部屋ぁ?しばらくこっちにいるのか?昔のお仲間と顔を合わせたくない理由でも?」
「……いくらでも」
トーマさんの答えに、男性はけたけたと笑う。
「まあいいだろう。二階の奥だ」
そう言って、男性はトーマさんに鍵を投げる。それを片手で受け取り、トーマさんは黒い扉を開け、先に入れと目線で促した。
僕はちらりと男性を見る。男性は、口元にうっすらと笑みを浮かべ、観察するような目で僕を見ていた。思わず目を逸らし、扉の中に入る。
「後で話がある」
トーマさんは、男性に向かって言った。男性は、片手を挙げて返事をする。
扉の中は、酒場のようだった。これも、「表通り」のそれとは趣が違う。
まばらな客たちは、こちらを見向きもしない。奥のカウンターで、店主はもくもくと、大事そうにガラスの杯を磨いている。
「誰とも目を合わせるな」
トーマさんが耳元で囁く。僕はその顔を見るが、目は合わない。トーマさんはカウンターの端に置かれている蝋燭に火を点け、燭台を持って奥の階段に向かう。僕はうつむいて、その後を追った。
店の奥の階段を上ると、いくつもの扉が並んだ廊下に出た。その奥にまた階段がある。
「裏通り」は、岩壁の中をアリの巣のようにくり抜いて作られているらしい。
トーマさんは廊下の一番奥の扉に男性から渡された鍵を刺し、扉を開けた。
「中に」
半月型の部屋が、トーマさんの持つ蝋燭の明かりにぼんやりと照らされる。
ベッドが一つ、毛織を被った揺り椅子と、小さなテーブル。テーブルの上には、食べ物やワイン筒、食器が散乱している。
トーマさんは、壁にくり抜かれた穴に、燭台を置く。
「街が封鎖されていると言っても、こちらからなら、抜け道はある。手筈を整えるまで時間はかかるがね。君はここにいろ。外には出るなよ」
トーマさんはそう言うと、部屋を出ていこうとする。僕は慌てて呼びとめた。
「待ってください!リリーは、ヴェルナーさんは!?」
トーマさんはため息をついてから、振り返る。
「リルのことは大丈夫だと言っただろう。連れ出したのは、グリゼルダ=ビスケジーン。べジェトコルの宰相だ」
「グリゼルダ」――、どこかで聞いた名だ。記憶を辿り、一年前、マーンカンパーナでリリーがその名を呼んだことを思い出す。黒い髪、漆黒の瞳……、音もなく僕の背後に立っていたあの人。
そして彼と共に現れたのは、顔の下半分を隠した覆面集団だった。ヴェルナーさんが見たのは、やはり夢ではなかったのだ。
「得体の知れない男だが、リルを悪いようにはしないはずだ。この状況でここに彼女がいることが知れたら、それこそ大事だからな」
ほんの少し、肩の力が抜けた。マーンカンパーナでのやりとりを思えば、リリーがあの人を信頼していることはわかる。それならばリリーは大丈夫なのだろう。
「ヴェルナー、さんは……?」
続けて問うと、トーマさんは眉を寄せ、目を伏せた。そして、言った。
「ヴェルナーのことは、おれに関係があるのか?」
その言葉を、どう受け取ればいいのかわからず、僕は聞き返す。
「どういう、意味ですか……?」
トーマさんは、腰のベルトに下げていた皮袋から煙草を取り出し、咥える。髪をかきあげて蝋燭から火を移す。一息ついてから、トーマさんは言う。
「あいつはステルラの騎士だ。何もしなければ、王命違背で追われるなんてことにはならない」
ジェロームが吸うせいで、嗅ぎ慣れたはずの煙草の煙が、鼻につく。
「ヴェルナーさんは、あなたのために追われることになったんじゃないですか!あなたの名前がリストにあって、でも、あなたを反逆者じゃないと信じてるから!」
僕の言葉を遮るように、トーマさんは大きく息を吐いた。煙の向こうで、彼は冷ややかに僕を見ている。
「おれの名は、王国議会のリストには載っていないよ」
一瞬、何と言われたのか理解できなかった。
リストに載っていない?
しかし、ヴェルナーさんははっきりと言った。「トーマの名前がある」と――。
「君もリルも知らなかったんだろうが、ヴェルナーはこれまでにも幾度かルドビルに来ている。顔を合わせたことはないがね。騎士団に戻ってこい、こんなところにいつまでいるんだ、言うことはいつも同じだ。これがどういうことかわかるか?」
僕は沈黙する。
琥珀色の瞳は、あらゆる光を失ったように、ぼんやりと煙草の先の炎を映すだけだ。
「あいつはリルを利用したんだよ。彼女がどうやってヴェルナーと知り合ったかは知らないが、議会のリストに名前があるとすれば、一騎士の手に負える話じゃない、だから手を貸してくれ。言い分としては、不自然じゃない」
虚ろな目で、トーマさんは言う。
僕の混乱は、徐々に覚めていった。別の感情が、こみ上げてきたせいだ。
「君も、リルも、ヴェルナーにかつがれて巻き込まれたんだ。それでも君は、おれにヴェルナーを助けろと、そう言えるのか?」
「言います」
僕は、はっきりとそう答えた。トーマさんは、虚ろなままの目を、ゆっくりと僕に向けた。僕は歯を食いしばる。
「仮にヴェルナーさんが、リリーを利用したのだとしても、あなたが言う通り、ヴェルナーさんの望みがあなたを騎士団に戻すことなら、彼が騎士団を辞めては意味がない。違いますか」
トーマさんはゆっくりと目を閉じた。
わかっていたはずだ。知っていたはずだ。僕よりもずっと、ヴェルナー=ウルブリヒトという人のことを。リリーの前にひざまずいた横顔。薄闇の夜明けに、飛びこんでいった背中。
「ヴェルナーさんがリリーに出会ったのは、ただの偶然です。出会わなかったら、彼は一人であなたを逃がすためにここに来てたはずだ!そんなこと、わかってるんじゃないんですか!」
僕は悲しくてならない。
トーマさんは億劫そうに動き出し、また出口に向かう。
「トーマさん!」
「無駄だよ」
呼び止めようとする僕の声に、彼は今度は振り返らない。
「おれは何もできない……」
「トーマさ――!」
僕は彼の後ろ姿に駆け寄った。辿り着く前に、扉は締められた。外から鍵をかける音が聞こえる。幾度か扉を押してみるが、ギシギシを音を立てるだけだ。
「トーマさん!」
僕は叫んだ。扉の向こうに、気配がある。まだ彼はそこにいるのだ。しかし、反応はなかった。
うろうろと部屋の中を歩き回る。窓はない。扉が唯一の出入口なのだ。
「……出るなって……」
――出られなくするんじゃないか。
もう一度扉のそばに戻る。もうそこに、トーマさんの気配はない。
「……っ」
僕は扉に頭を打ちつける。
何とかなればいい、何とかしたいと、そう思った。それなのに、この有様はなんだ。コルファスを出れば、僕は自由で、何でもできると思ったのか。
それでも、なけなしの根性で目を固くつぶって、涙を堪えた。ここはコルファスじゃない。ジェロームはいない。泣き虫でいていいはずはないのだ。
そう自分に言い聞かせて、大きく息を吸い、吐き出す。胸元に、何かが触れる。
指輪だ。
リリーが叔母さんの亡骸から拾い上げた、トーマさんの指輪。取り出すと、指輪はちらちらと輝いている。
*****
トーマは扉の前で、しばらく動けずにいた。今自分がどんな顔をしているのか、考えたくもない。扉の向こうで自分を呼ぶ声が、鬱陶しい。壁に手をついて、ようやく歩き出す。
とにかく、あの神官をルドビルから出す。そうすれば終わる。
――何が?何が終わる?
自問する声に、トーマは片手で顔を覆う。
――やめてくれ……。
何も考えたくない。考えても、答えなど出ないではないか。
酒場へ戻ると、バーは酒場のカウンターに足を上げて座っていた。
「ひでえ顔だ」
トーマは眉をひそめ、バーを見下ろす。
「……今朝の話だが」
「あぁ?」
「ステルラ王国騎士団は、誰かを追ってきたと言ったな?そいつは捕まったんだな?」
「そう言っただろ?捕まえて終わりかと思いきや、ってよ。知り合いか?」
「……」
バーは、含み笑いを浮かべたまま、上目使いでトーマを見ている。
ルドビルの住人同士で関係が成り立つとすれば、それは敵対関係か、あるいは持ちつ持たれつの協力関係だ。バーとトーマの間には、一応の協力関係が成り立っている。しかし、持っているカードを伏せたままでは、この関係はひと時に崩れてしまう。
トーマは靴の裏で煙草の火を消すと、目を合わせずに言う。
「ヴェルナー=ウルブリヒト……、リヒャルト=ウルブリヒトの孫だ……」
バーの顔に、きらきらと光る宝物を見つけたかのような笑みが広がる。
「英雄の孫が王命違背で捕まったってことかよ!傑作じゃねえか!」
膝を叩いて笑うバーを一瞥して、トーマは表情を険しくする。
――王命違背だと……?
ここに来て、その言葉が引っかかった。
「で?何だって?」
バーはカウンターから足を下ろし、身を乗り出して尋ねる。冒険譚の続きを知りたがる子どものように目を輝かせるバーを、トーマは荒んだ目で見る。
「さっきの青年を町から出したい。案内人がいらない道を確保できるか」
「あん?なんだ、英雄の孫の話は終わりか?」
「こっちが本題だ」
「へぇ……」
バーは首を傾げる。
「ま、二、三日ありゃあな」
「頼む」
「一人分でいいのか?」
さらりとバーは言う。トーマは目を細め、彼を睨んだ。
「どういう意味だ?」
トーマが問うと、バーは嘲るような笑みを浮かべた。
「お前はここにいるのかってこった」
「……詮索するつもりか?」
「いや?親切ってやつだ」
「慣れないことはするな」
「ははは!」
トーマはバーの横を通り過ぎ、店を出る。頭がじくじくと痛む。それを手で押さえ、こぼす。
「もう、やめてくれ……」