3.追懐
目尻に涙を残したまま、リリーは眠ってしまった。疲れてしまったのだろう。
僕は、ベッドの脇に座って、その寝顔をしばらく見ていた。
「タダイマ?」
ヴェルナーさんは、日がすっかり落ちてしまってから部屋に戻って来た。
「腹減ってない?」
そう問うと、ヴェルナーさんは皮のワイン筒と、紙袋を軽く持ち上げてみせる。そういえば、朝食を食べたきり、今日は何も食べていない。
ヴェルナーさんは、眠っているリリーの顔をひょいと覗くと、「寝てんのか」と小さくつぶやいて、ワイン筒と紙袋を僕に手渡した。
紙袋の中には、小さな黒いパンが六つ入っている。彼は他にも、荷物の中から麻袋を取り出し、中の紙の包みを開いて、干し肉とドライフルーツを僕に渡してくれた。
僕たちは、火を入れた囲炉裏に向かい合って座る。
「買い物に行ってたんですか?」
「いや、見回りして、実は一度戻ったんだけど」
黒いパンをかじりながら、ヴェルナーさんは何やらもじもじする。頭の回転が遅い僕は、ヴェルナーさんの恥じらいがよくわからない。
「邪魔しちゃ悪いかと思って――」
「!」
慌ててパンを落としそうになった。
言われてみれば、先ほどまでの光景は傍からはそう見える。
マロリーさんがいたら、きっと僕は大惨事になっていたことだろう。
「違いますよ!さっきのは、ええと」
言いかけて、困ってしまった。
リリーが泣いたことを話すのは気が引けた。何しろ、彼女はこれまでそういう姿を見せてはこなかったのだ。
「あっは、ははは!悪い、ごめん、わかってる」
慌てる僕に、ヴェルナーさんは笑って言った。
「お姫さんだってまだ十八なんだもんな。あれは堪えるわ。あーあ」
ヴェルナーさんは背中に積まれた藁の山に体を投げ出す。
「ヴェルナーさんも、堪えたんですね」
言うと、ヴェルナーさんはけたけたと笑った。
「堪えたよー」
彼は、片手をひらひらさせる。もしかして酔っているのだろうか。語り口がふわふわしている。
「おれの話、聞いてくれる?」
「いいですよ、何でしょう?」
ヴェルナーさんは、のたのたと体を起こすと、にっこりとほほ笑んだ。遠く、幸福な記憶にそうするように。
それは、トーマさんとの出会いの話だ。
トーマさんがステルラにやって来たのは、今から八年ほど前だったのだそうだ。その年は、ヴェルナーさんが見習い騎士から正式に騎士となり、第一分隊に配属された年でもあった。
「じゃあ、いい年だったんですね」
そう言うと、ヴェルナーさんはうなだれて片手を振る。
「全然。ひどい年だった。どうせじじいの七光りで第一分隊に入ったんだろうって、陰口の嵐」
そういえば、第一分隊はステルラ王国騎士団の精鋭なのだと、ナツさんが言っていた。見習い騎士から第一分隊にすぐに入るのは、そう簡単なことではないのかもしれない。
「ぐれたね。あのじじい、他の誰より厳しかったんだぜ?ガキの頃から毎日休みなくしごかれ続けたこのおれが、七光りもクソもあるか!ってね」
そうしてやさぐれたヴェルナーさんは、第一分隊の騎士たちと日々喧嘩に明け暮れた。その果てに、止めようとした当時の隊長の顔を正面から殴り、鼻を折る怪我を負わせた。ちなみにその隊長とは、現在の総騎士長ダミア=ガルシアなのだそうだ。その名前は、確かステルラの宿で聞いた。
ともあれ、精鋭であるはずの第一分隊の惨状に、事態を重く見たヴェルナーさんのおじいさんは、外部の人間を入れることで状況の打開を試みた。そうしてやって来たのがトーマさんだった。
しかし、すぐにうまくはいかなかったという。それどころか、トーマさんがやって来たその日に、ヴェルナーさんはまたしても第一分隊の騎士たちと大喧嘩をしでかした。
「それでどうなったんですか?」
「二メートルくらい飛んだ、意識ごと」
「……」
「喧嘩両成敗っつーか、全員成敗された。初日から」
閉口した。
そうしてその後、トーマさんは騎士たちを一人ずつ部屋に呼んだ。他の騎士たちがどんな話をされたのかは知らないそうだが、ヴェルナーさんはこう聞かれたのだそうだ。
――お前にとって、祖父の名はそんなに軽いのか。
その問いに、ヴェルナーさんは「ゾッとした」という。厳しく問いかけるトーマさんの目に、自分が祖父の名を汚して回ったことを初めて認識した。
「――百年早い」
つと、ヴェルナーさんは言った。僕が首をかしげると、彼は寂しそうに笑みを浮かべた。
「じいさんみたいになりたかった。そう言うたびに、じいさんには笑われたよ」
――百年早い。
ヴェルナーさんとおじいさんは、何度も同じ遣り取りを繰り返した。ヴェルナーさんが、騎士になるよりも前、見習い騎士になるよりもさらに昔から、何度も。
「トーマにそう言われて、ああそうだった、軽くねえや、おれはじいさんみたいになりたかったんだって思い出して。思い出したら、やべえ、恥ずかしいって。おまけに笑えるんだけどさ、次の日顔合わせたら、他の奴らも皆そういう顔してんの」
「“やべえ、恥ずかしい”って顔ですか?」
僕が問うと、ヴェルナーさんはにっこりと笑う。
「そう。何言われたんだろうな、今でも気になる。そんで一人だけ飄々としてんだよ、トーマが。負けたって気がしたね。それから、トーマには誰もぜんっぜん逆らえない」
ヴェルナーさんは明るく思い出を語る。僕にはよくわからない世界の話なのだが、少なくとも、僕はヴェルナーさんのことが好きだと思えた。
「負けた」と思ったというそのときから、トーマさんのことが大好きになってしまったのだろうこの人が。
「いいですね」
僕の顔を、ヴェルナーさんはしばらく見つめて、柔らかくほほ笑んだ。
「騎士団にはいないタイプだった。なんつーかこう、スマートで、野郎所帯だっていうのに身ぎれいで、何気ない仕草がすごくキマってんの。王城に仕えてたってこういうことか!って、皆で真似とかしてな。全然キマらねえ。」
想像して、僕は笑う。おまけに、ヴェルナーさんがトーマさんの真似なのか、とてもそうとは思えない顔で、唇を突きだして煙草を吸う仕草をしてみせるのだ。僕の笑い声に、満足そうにヴェルナーさんはワインを口に運ぶ。
きっと、同じように笑いあったのだろう。ついこの間まで喧嘩をしていた者同士で。何だか、体が温かくほぐされるような気持ちがする。
しかし、カップを唇に当てたまま、不意にヴェルナーさんの表情が曇った。
「マリアさんも――」
うつむきがちにこぼれたその名に、空気が沈んだ。
笑みを消した僕に、ヴェルナーさんは申し訳なさそうに小さく笑う。そして、片膝を抱きかかえるようにして彼は話した。
「おれたちに接するときは、母ちゃんか!って人だったのに、トーマの前では全然違った。あれ、こんなにきれいな人だったっけ?みたいなさ」
「トーマさんから、聞いたんですか?」
「いいや、あいつはあんまり自分のこととか話さない奴だったんだ。何かちょっと家庭が複雑だったんだって、じいさんが言ってた。そのせいかな。大体マリアさんとのことなんてそうそう言えねえよ。知れたら首が飛ぶ話。何となくそうかな?って思ってた程度」
ヴェルナーさんは、カップを床に置き、暗くなっていく表情を拭おうとするように顔を撫ぜた。
「はっきりわかったのは、タグヒュームに行くときだった。トーマが、いつもの指輪の代わりに、マリアさんの指輪を首から下げてて、ああやっぱりそうか、って」
リリーの予想は正しかった。二人はお互いに大切な指輪を交換したのだ。悲劇の地に赴く前に。
「じゃあやっぱり、マリアさんの指輪はトーマさんが持ってるんですね」
「やっぱり?」
「トーマさんの指輪は、リリーが持ってました。もとはリリーがトーマさんに贈ったもので、マリアさんの……、亡骸から、拾ったんだそうです」
「ああ……、それでか」
ヴェルナーさんは、細く笑んだ。ステルラで、リリーが彼にみせた表情の理由を、理解したのだろう。
「トーマは指輪を持ってないよ」
そう言ったヴェルナーさんの顔は、昏く、虚ろに見えた。
言葉の意味を、僕はすぐには呑み込めない。
トーマさんが持っていないのだとしたら、マリアさんの指輪はどこにあるのだろう。僕の疑問を見透かすように、ヴェルナーさんは続けた。
「たぶん、国王陛下が持っておられると思う」
マリアさんは、トーマさんの指輪をしたまま亡くなった。
それはつまり、指輪をお互いに返す機会はなかったのだろうと、僕は思っていた。
トーマさんは指輪を返したが、マリアさんは返さなかった、そういうことだろうか?
でも、リリーは言っていた。マリアさんの遺品の中にも、赤い石の指輪はなかった――。
「捨てて行ったんだ、あいつ」
ヴェルナーさんは、静かに言った。冷たい水を頭からかけられたような心地がした。
――捨てて、行った?
頭の中で繰り返す。
「タグヒュームから帰って、一回も会わないままマリアさんが死んじまって、王国騎士団を辞めるって、そう言って……、指輪を投げ捨てて、出て行ったんだ」
それは少なからず、ショックだった。捨ててしまえたということが、ショックだったのだ。自分が愛した人の、大切にしていたものだ。自分が愛した人から、託されたものだ。
「おれが拾って、じいさんに渡した。その後、たぶんじいさんがうまいこと言って国王陛下にお返ししたと思う。マリアさんのものは、王家の財産だからな」
小さな囲炉裏の火は、ヴェルナーさんの顔をおぼろに照らす。
どこか遠くを見ているようなその顔を見ながら、僕は想像する。トーマさんが投げ捨てていった指輪を拾う、ヴェルナーさんの姿。
止める声も聞かず、ステルラでの五年間を捨てるようにして、トーマさんは指輪を捨てた。捨てられた指輪を、その五年間を今なお嬉しそうに、楽しそうに語るヴェルナーさんが、拾う。
それはひどく、寂しい光景だった。
ふと、ヴェルナーさんは、リリーが眠るベッドに目をやる。
「お姫さんって、マリアさんによく、似てる」
その言葉に、脳裏をかすめた。リリーの肩越しに見た、トーマさんの顔だ。
あのとき、彼は何を思っていたのだろう。
*****
夜遅く、トーマは自宅に戻った。彼の家は、螺旋山を二分する川を渡った先の集落にある。蝋燭に火を入れ、それを持って奥の寝室へ入る。
――風が動いている。
その気配に、覚えがあった。王城に仕えていた頃、身近にあった気配だ。
「何の用です」
窓際の暗闇に向けて、トーマは問う。くつくつと笑う声がした。
蝋燭の灯りに照らされた部屋で、その人の黒い髪は、灰色に鈍く光って見える。
「野暮用さあ」
懐かしい声だった。空気に混じるような声。耳を塞いでも簡単にすり抜けて人の内に入り込み、そこでよどむ。不愉快な声だ。
「リルを連れ出しに来たんでしょう。ここにはいませんよ」
「ふふ、ははは」
その人は、よくわからない笑い声をあげた。
「知ってるよ。悲劇の主人公に浸りきった君が、リルを家に迎え入れるなんて思ってないさ。亡き恋人の代わりにしたいというならともかく、そんな度胸もないだろうに」
トーマは眉を寄せる。不愉快な声で、さらに不愉快なことを言う男だ。
「じゃあなぜここにいるんです」
薄い闇の向こうで、その人が口の端をゆっくりと上げるのが、見える気がした。
「君にいいものをあげようと思ってね」
その声は、不気味に響く。すう、と白い指先が浮かび上がる。差し出されたのは巻物だ。
「見てみるといい」
トーマは、訝しげに巻物を見る。
「なぜ?」
問うと、その人はいかにも興ざめだというように鼻を鳴らした。
「ねえ、君……、悲劇は必然なのだよ。なぜ必然か?それを引き起こす者がいるからさ」
トーマは目を見開く。腹の底からふつふつと怒りが湧きあがり、それが胸を焼くようだ。
「おれが悲劇を引き起こしたっていうのか」
そう言うと、一息置いて、「はははは!」と男は笑った。
次の瞬間、暗闇から黒い剣先が現れ、顎先につきつけられた。
鍔のないその剣は、鞘に収められていても主人と同様、独特の気配を放っている。
「いい加減目を覚ましたまえ。君の自己陶酔に口を出してやるほどボクは暇じゃあないんだよ」
薄闇に浮かぶ黒檀の瞳は、笑ってはいない。
「“引き起こした”んじゃない」
いつになく明瞭な声で、その人は言った。
「何?」
トーマは聞き返す。
「“引き起こす”のさ」
「引き、起こす……?」
繰り返すと、つきつけられていた剣は下げられ、その代わりに、巻物が投げてよこされた。反射的に、トーマはそれを受け取った。その人は、ふっと笑う。
「こうしてボクに向き合うほどに、君は死人じゃあないんだよ、トーマ=ウルストンクラフト。血の海に沈んだ君の恋人が、何を祈ったか考えたことがある?」
トーマの心臓が、大きく脈打つ。
「黙れ!」
トーマは叫んだ。暗闇に同化する瞳は、冷然と彼を見ている。
「今度は大事なものを守れるといいね……?」
「グリゼルダ!」
気配は消える。
一瞬で昇りつめた熱は、急激に冷えていった。冷たい汗が頬を伝う。呼吸が急いて、手が震える。
――今度は、だと?
トーマは、自嘲するように顔を歪めた。
――また、繰り返せというのか。
ずるずると、壁に崩れ落ちる。蝋燭の炎が揺れる。目の端に巻物が映った。
重たい体を起こし、巻物を広げる。特に何かを思ったわけではない。巻物を広げ、蝋燭を近付けて内容を確認する。
それは、何かのリストのようだった。連なる名前のいくつかには、見覚えがある。一つ一つを指でなぞりながら見て行くと、そこに、ある男の名前を見つけた。
「ランク=キルヒ――」
それは、タグヒュームで、悲劇の全てを見た男の名だ。その後、ウェクシルム王国騎士団を去り、行方不明になったと聞いた。
――何のリストだ、これは?
覚束ない灯りに、トーマは食い入るように巻物を見た。連ねられた名前に続いて、その目に飛び込んできたものに、彼は目を見張る。
そこには、国王のサイン、そして王国議会の紋章が描かれていた。