表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い花の歌  作者: タク
12/66

2.希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい

 破れ教会は、螺旋山の山裾に拡がる森を背景に建っていた。

 この町に教会があることは意外だったが、有様は実にそれらしい。廃墟同然だ。屋根が半分ない。壁は内も外も蔦に覆われ、床には苔が生え、草が侵入してきている。小さな祭壇に掲げられたリナムクロスも、半分崩れてしまっている。残った半分の屋根の下は、昼間だというのに暗闇だ。

 不意に、暗闇に向けて、リリーがその名を呼んだ。

「トーマ」

 その声に、僕もヴェルナーさんも、リリーの視線の先を見る。ヴェルナーさんが、表情を険しくする。

 光の縁の青い暗がりに、ゆらりと人影が現れて、白く立ち上る煙草の煙が見えた。

 肩ほどまであるアッシュブロンドは少し乱れていたが、身なりはきちんとしていた。しかし、煙草を吸うその動作が、ひどく億劫そうだ。

「これはこれは……」

 その声に、僕は思わず顔をしかめた。重たく、濁った声だ。

「リル姫様、こんなところで何をしておいでですか」

 その人の顔は、こちらを向いてはいない。名前を呼ぶ小さな声だけで、声の主が誰なのかわかったのだろうか。

「それは私の台詞だ。こんなところで何をしているのだ、君は」

 リリーは言った。初めて聞く声だと思った。相変わらず姿勢のよい彼女の背中に、不安の色がにじんでいる。隣にいるヴェルナーさんを横目で見ると、その横顔に暗い影が落ちている。

 重く濁ったその声は、彼らの知るその人の声ではなかったのだろう。

 彼はゆっくりとこちらを向いた。ゆらりと、周囲の暗闇が揺れる。

 その目の光に、僕はひるんだ。

 それは、見たことのある光だ。鈍く、虚ろな暗い光。失ったものを追い求め、求め続けるのをやめられないのに叶わないと望みをなくしている、渇望と失望が混在した光。

 コルファスを旅立った朝――、それ以前からずっと、マザーの目に、映る光。

「トーマ」

 ヴェルナーさんが、悲しげにその名を呼んだ。その声に、トーマさんはヴェルナーさんを見やり、ふっと笑んだ。

「お前もいるのか。わからない組み合わせだ」

「お前――」

 ヴェルナーさんは、迷子の子どものような顔をしていた。それだけで、彼がトーマさんをどう思っているかがわかる。言葉の先は続かなかった。

 草を踏んで、リリーはトーマさんに歩み寄った。僕は、無意識にその後を追いかける。

 僕は、彼が怖かった。その両目に宿る光が。その目をした人が、人を傷つけることを知っていた。そうせねばいられないほどに、傷ついていることを知っていた。

 リリーは入口のない教会に踏み入り、彼の目の前に立った。僕はリリーの後ろに立つ。リリーの肩越しに、トーマさんの表情が微かに動いたのが見えた。

 眼前の少女を見る、その目が、わずかに動いた唇が、――怯えている。

 そう見えた。

「君をスタウィアノクトに連れて行く」

 リリーは言った。トーマさんは沈黙している。沈黙したまま、まっすぐに自分を見つめるリリーの顔を、そのプラチナの髪を、青碧の瞳を、トーマさんは見ていた。何か強い思いが押し寄せ、押し寄せるたびに呑みこんで、過ぎ去るのを耐えるようにして。沈黙したまま、リリーを見ている。

「トーマ!」

 リリーが強く、その名を呼ぶ。

 刹那、トーマさんの唇から、煙草が落ちた。長い髪の間から覗く目が、瞬間、怒りを帯びてリリーを見据えた。

 僕は思わず、リリーの両肩を後ろからつかんで自分の方に引き寄せた。彼女は驚き、僕を見上げる。

「……ふ」

 トーマさんの口元が笑った形に歪んだ。それは作られた笑顔だ。うつむきがちだった顔を上げて、リリーに言った。

「ローク様がアブディエスに幽閉されたそうですね」

 リリーの肩がびくりと跳ねた。細い腕が、微かに震えている。

「ねえ、リル。もういいでしょう。何を必死にあがいているんです。もう終わりなんですよ、この国は。王の血をひく者を、王に忠誠を誓ったはずの騎士が殺す。王の血を引く者が、王に反旗を翻す。三年前の悲劇は、連なって、広がって、増殖して、もう止まらない。騎士の国なんて、もうただの幻想でしかない。この国の継君たるローク様は―――」

 そこまで言って、彼の目には、再び虚ろな影が差し、ため息をつくように言った。

「貴方が敬愛してやまない兄は、罪人の塔でその生涯を終える」

 リリーの小さな肩から、直に悲しみが伝わるようだ。

 背後から、手が伸びた。ヴェルナーさんがトーマさんの胸ぐらをつかんだ。

「トーマ……」

 振り絞るような声は、怒りと哀切に満ちていた。

「本気で言ってんのか!この国は、この国は――!」

 ヴェルナーさんは歯を食いしばった。変わり果てたその人に、その名を聞かせることを躊躇したのだろう。堪え、しかし堪えきれずに、こぼれ出る。

「マリアさんが、愛した国だ!お前は――」

 次の瞬間、トーマさんはヴェルナーさんの口元をつかんだ。

 憎悪を孕んだトーマさんの目が、刺すようにヴェルナーさんを睨む。そうして睨まれたことなどなかったのだろう、ヴェルナーさんは唇を固く結び、トーマさんの手を振り払った。そして、叫んだ。

「何でそんなふうになっちまってんだよ!バカ野郎!」

 トーマさんは、ヴェルナーさんから顔をそむける。長い髪で表情は隠された。

 彼は、ぽつりと言った。

「バカは、お前だ」

 そうして、重たい体を引きずるように歩き出し、教会を出て行った。

「……ちくしょう!」

 ヴェルナーさんは、苦々しげに呟いて、遠くなるその背中を見ていた。

「リリー」

 僕は、リリーの名を呼んだ。トーマさんが去った後も、しばらくの間、彼女の肩は張りつめたままだった。




 僕たちは宿をとることにした。三人で同じ部屋に泊まる。

 部屋の真ん中には囲炉裏があり、隅に小さなベッドが置かれている。あちこちに藁が積まれ、その上に目の粗い毛織がかぶせてあった。

 部屋の出入口を確認して、ヴェルナーさんは辺りを見て来るといって部屋を出て行った。

 二人きりになり、僕はリリーの方を見た。彼女は黙っている。黙っているだけならまだいいが、覇気がない。

 どうしたものかと頬をかいた。何しろ、これまで誰かを慰めようとして成功した試しがないのだ。ジェロームならきっと上手に慰めるのだろうが、ここに彼がいるはずもない。

「なぜ私を引き寄せた?」

 リリーが問う。弱々しい声だった。

「何となく」

 曖昧に答える。しばらくの沈黙の後、リリーはか細く、言った。

「殺されるかと思った……」

 僕が言いよどんだことを、彼女が口にした。

 憎しみからではない。トーマさんは、彼女を拒絶しようとしたのだ。その一瞬の眼光に、僕はリリーを引き寄せた。

「うん」

 つい肯定してしまった。しまったと思ったが、リリーは、ふ、と自嘲するかのように笑った。

「何を必死にあがいているのか、か」

 リリーは、トーマさんの言葉を繰り返す。

 部屋の東側には、大きな窓があった。彼女は窓の外を見ている。見ていないのかもしれないが、そちらを向いて立っている。

「夢の話をしたことがあった」

「え?」

「王城にいた頃にな。私にはずっと、思い描いていた夢があったのだ」

 リリーの声は、喉の奥で震えているように聞こえた。

「どんな夢?」

 僕は問う。

 リリーはぽつぽつと、こぼすように話す。

「父上がゆっくりと年をとり、やがて王位を退かれたら、兄上がそのあとを継いで王となり……」

 胸の奥を、小さな痛みがかすめた。

 これまで、リリーはお兄さんの話を一切しなかった。だから、僕も聞かなかった。

 でも、考えなかったわけではない。北の果て、閉ざされた森の向こう、アブディエスの地に幽閉されれば、もう二度とその地を出ることは叶わない。

「そして、私は、そのお側で、右腕となってお仕えするのだと――」

 リリーの声が、震える。それはおそらくもう、叶わない夢なのだ。

「三年前、あの日から一度も、一度も、兄上は私に会ってはくださらなかった」

「リリー」

 僕は思わず、リリーの名を呼んだ。彼女は、プラチナの髪を翻してこちらを向いた。

 ――泣いている、リリーが。

「何度も、何度も手紙を出した!会いにも行った!でも、一度も!拒まれるたびに、取り返せない何かを突きつけられるような気がして――。終わりなのか?本当にもう、だめなのか?あの日のタグヒュームの赤い空が、何もかも変えてしまった。何もかもが変わってしまった。どんどん大事な人が目の前からいなくなって、止めたいのに、止められない!何も、何を言っても、どうしても、届かない。もう、本当に――」

 窓からこぼれるオレンジ色の夕焼けが、彼女の輪郭を縁どっている。雄々しいとさえ思っていた彼女が、初めて見せる弱さが、哀しくて、切ない。

「終わりじゃないよ」

 僕は、言った。それは、思わず出た言葉だった。お腹の底から、突き上げるように急きたてられて、言わずにはいられなかった。

 彼女はずっと、凛と、背を伸ばし、立っていた。その裏に、幾重にも悲しみや苦しみ、葛藤を呑み込んで。きっと、望みを引き止めるために。

「止められるものが、きっとある……」

 僕は言った。リリーの目が、僕を見つめている。小さな子どものように透き通った目で。

 涙が出そうだ。信じたくない。こんなふうに泣く彼女の、その涙の果てに、彼女が愛するものが何も残らないなんて。そんなこと、あっていいはずがない。

 ――ああ、僕に何が言えるだろう?何ができるだろう?

 今、この気持ちはなんだろう。僕の中に、望みが息づく。そうだ、これは「僕」の望みだ。

 旅に出て、やがて旅が終わるまで、僕は自由に望みを抱ける。

 叶ってほしい、彼女の願いが。

「終わりじゃない」

 もう一度、祈るような思いで、僕は言った。

 緩やかに、リリーの表情が崩れていった。次々に新しい涙が、彼女の頬を濡らしていく。

 彼女は僕に、すがるように僕に手を伸ばした。

 咄嗟に、その手を取る。そのまま、彼女は僕の胸に顔をうずめた。

 リリーの手は、温かい。それは強い力で、僕の手を握りしめる。

「リリー」

 僕は堪らず、その名を呼ぶ。彼女は静かに泣いている。

 切なくて、胸が苦しい。

 嬉しくて、胸が張りさけそうだ。

 ――抱いていい望みなど、僕にはずっとなかったのだ……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ