2.希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい
破れ教会は、螺旋山の山裾に拡がる森を背景に建っていた。
この町に教会があることは意外だったが、有様は実にそれらしい。廃墟同然だ。屋根が半分ない。壁は内も外も蔦に覆われ、床には苔が生え、草が侵入してきている。小さな祭壇に掲げられたリナムクロスも、半分崩れてしまっている。残った半分の屋根の下は、昼間だというのに暗闇だ。
不意に、暗闇に向けて、リリーがその名を呼んだ。
「トーマ」
その声に、僕もヴェルナーさんも、リリーの視線の先を見る。ヴェルナーさんが、表情を険しくする。
光の縁の青い暗がりに、ゆらりと人影が現れて、白く立ち上る煙草の煙が見えた。
肩ほどまであるアッシュブロンドは少し乱れていたが、身なりはきちんとしていた。しかし、煙草を吸うその動作が、ひどく億劫そうだ。
「これはこれは……」
その声に、僕は思わず顔をしかめた。重たく、濁った声だ。
「リル姫様、こんなところで何をしておいでですか」
その人の顔は、こちらを向いてはいない。名前を呼ぶ小さな声だけで、声の主が誰なのかわかったのだろうか。
「それは私の台詞だ。こんなところで何をしているのだ、君は」
リリーは言った。初めて聞く声だと思った。相変わらず姿勢のよい彼女の背中に、不安の色がにじんでいる。隣にいるヴェルナーさんを横目で見ると、その横顔に暗い影が落ちている。
重く濁ったその声は、彼らの知るその人の声ではなかったのだろう。
彼はゆっくりとこちらを向いた。ゆらりと、周囲の暗闇が揺れる。
その目の光に、僕はひるんだ。
それは、見たことのある光だ。鈍く、虚ろな暗い光。失ったものを追い求め、求め続けるのをやめられないのに叶わないと望みをなくしている、渇望と失望が混在した光。
コルファスを旅立った朝――、それ以前からずっと、マザーの目に、映る光。
「トーマ」
ヴェルナーさんが、悲しげにその名を呼んだ。その声に、トーマさんはヴェルナーさんを見やり、ふっと笑んだ。
「お前もいるのか。わからない組み合わせだ」
「お前――」
ヴェルナーさんは、迷子の子どものような顔をしていた。それだけで、彼がトーマさんをどう思っているかがわかる。言葉の先は続かなかった。
草を踏んで、リリーはトーマさんに歩み寄った。僕は、無意識にその後を追いかける。
僕は、彼が怖かった。その両目に宿る光が。その目をした人が、人を傷つけることを知っていた。そうせねばいられないほどに、傷ついていることを知っていた。
リリーは入口のない教会に踏み入り、彼の目の前に立った。僕はリリーの後ろに立つ。リリーの肩越しに、トーマさんの表情が微かに動いたのが見えた。
眼前の少女を見る、その目が、わずかに動いた唇が、――怯えている。
そう見えた。
「君をスタウィアノクトに連れて行く」
リリーは言った。トーマさんは沈黙している。沈黙したまま、まっすぐに自分を見つめるリリーの顔を、そのプラチナの髪を、青碧の瞳を、トーマさんは見ていた。何か強い思いが押し寄せ、押し寄せるたびに呑みこんで、過ぎ去るのを耐えるようにして。沈黙したまま、リリーを見ている。
「トーマ!」
リリーが強く、その名を呼ぶ。
刹那、トーマさんの唇から、煙草が落ちた。長い髪の間から覗く目が、瞬間、怒りを帯びてリリーを見据えた。
僕は思わず、リリーの両肩を後ろからつかんで自分の方に引き寄せた。彼女は驚き、僕を見上げる。
「……ふ」
トーマさんの口元が笑った形に歪んだ。それは作られた笑顔だ。うつむきがちだった顔を上げて、リリーに言った。
「ローク様がアブディエスに幽閉されたそうですね」
リリーの肩がびくりと跳ねた。細い腕が、微かに震えている。
「ねえ、リル。もういいでしょう。何を必死にあがいているんです。もう終わりなんですよ、この国は。王の血をひく者を、王に忠誠を誓ったはずの騎士が殺す。王の血を引く者が、王に反旗を翻す。三年前の悲劇は、連なって、広がって、増殖して、もう止まらない。騎士の国なんて、もうただの幻想でしかない。この国の継君たるローク様は―――」
そこまで言って、彼の目には、再び虚ろな影が差し、ため息をつくように言った。
「貴方が敬愛してやまない兄は、罪人の塔でその生涯を終える」
リリーの小さな肩から、直に悲しみが伝わるようだ。
背後から、手が伸びた。ヴェルナーさんがトーマさんの胸ぐらをつかんだ。
「トーマ……」
振り絞るような声は、怒りと哀切に満ちていた。
「本気で言ってんのか!この国は、この国は――!」
ヴェルナーさんは歯を食いしばった。変わり果てたその人に、その名を聞かせることを躊躇したのだろう。堪え、しかし堪えきれずに、こぼれ出る。
「マリアさんが、愛した国だ!お前は――」
次の瞬間、トーマさんはヴェルナーさんの口元をつかんだ。
憎悪を孕んだトーマさんの目が、刺すようにヴェルナーさんを睨む。そうして睨まれたことなどなかったのだろう、ヴェルナーさんは唇を固く結び、トーマさんの手を振り払った。そして、叫んだ。
「何でそんなふうになっちまってんだよ!バカ野郎!」
トーマさんは、ヴェルナーさんから顔をそむける。長い髪で表情は隠された。
彼は、ぽつりと言った。
「バカは、お前だ」
そうして、重たい体を引きずるように歩き出し、教会を出て行った。
「……ちくしょう!」
ヴェルナーさんは、苦々しげに呟いて、遠くなるその背中を見ていた。
「リリー」
僕は、リリーの名を呼んだ。トーマさんが去った後も、しばらくの間、彼女の肩は張りつめたままだった。
僕たちは宿をとることにした。三人で同じ部屋に泊まる。
部屋の真ん中には囲炉裏があり、隅に小さなベッドが置かれている。あちこちに藁が積まれ、その上に目の粗い毛織がかぶせてあった。
部屋の出入口を確認して、ヴェルナーさんは辺りを見て来るといって部屋を出て行った。
二人きりになり、僕はリリーの方を見た。彼女は黙っている。黙っているだけならまだいいが、覇気がない。
どうしたものかと頬をかいた。何しろ、これまで誰かを慰めようとして成功した試しがないのだ。ジェロームならきっと上手に慰めるのだろうが、ここに彼がいるはずもない。
「なぜ私を引き寄せた?」
リリーが問う。弱々しい声だった。
「何となく」
曖昧に答える。しばらくの沈黙の後、リリーはか細く、言った。
「殺されるかと思った……」
僕が言いよどんだことを、彼女が口にした。
憎しみからではない。トーマさんは、彼女を拒絶しようとしたのだ。その一瞬の眼光に、僕はリリーを引き寄せた。
「うん」
つい肯定してしまった。しまったと思ったが、リリーは、ふ、と自嘲するかのように笑った。
「何を必死にあがいているのか、か」
リリーは、トーマさんの言葉を繰り返す。
部屋の東側には、大きな窓があった。彼女は窓の外を見ている。見ていないのかもしれないが、そちらを向いて立っている。
「夢の話をしたことがあった」
「え?」
「王城にいた頃にな。私にはずっと、思い描いていた夢があったのだ」
リリーの声は、喉の奥で震えているように聞こえた。
「どんな夢?」
僕は問う。
リリーはぽつぽつと、こぼすように話す。
「父上がゆっくりと年をとり、やがて王位を退かれたら、兄上がそのあとを継いで王となり……」
胸の奥を、小さな痛みがかすめた。
これまで、リリーはお兄さんの話を一切しなかった。だから、僕も聞かなかった。
でも、考えなかったわけではない。北の果て、閉ざされた森の向こう、アブディエスの地に幽閉されれば、もう二度とその地を出ることは叶わない。
「そして、私は、そのお側で、右腕となってお仕えするのだと――」
リリーの声が、震える。それはおそらくもう、叶わない夢なのだ。
「三年前、あの日から一度も、一度も、兄上は私に会ってはくださらなかった」
「リリー」
僕は思わず、リリーの名を呼んだ。彼女は、プラチナの髪を翻してこちらを向いた。
――泣いている、リリーが。
「何度も、何度も手紙を出した!会いにも行った!でも、一度も!拒まれるたびに、取り返せない何かを突きつけられるような気がして――。終わりなのか?本当にもう、だめなのか?あの日のタグヒュームの赤い空が、何もかも変えてしまった。何もかもが変わってしまった。どんどん大事な人が目の前からいなくなって、止めたいのに、止められない!何も、何を言っても、どうしても、届かない。もう、本当に――」
窓からこぼれるオレンジ色の夕焼けが、彼女の輪郭を縁どっている。雄々しいとさえ思っていた彼女が、初めて見せる弱さが、哀しくて、切ない。
「終わりじゃないよ」
僕は、言った。それは、思わず出た言葉だった。お腹の底から、突き上げるように急きたてられて、言わずにはいられなかった。
彼女はずっと、凛と、背を伸ばし、立っていた。その裏に、幾重にも悲しみや苦しみ、葛藤を呑み込んで。きっと、望みを引き止めるために。
「止められるものが、きっとある……」
僕は言った。リリーの目が、僕を見つめている。小さな子どものように透き通った目で。
涙が出そうだ。信じたくない。こんなふうに泣く彼女の、その涙の果てに、彼女が愛するものが何も残らないなんて。そんなこと、あっていいはずがない。
――ああ、僕に何が言えるだろう?何ができるだろう?
今、この気持ちはなんだろう。僕の中に、望みが息づく。そうだ、これは「僕」の望みだ。
旅に出て、やがて旅が終わるまで、僕は自由に望みを抱ける。
叶ってほしい、彼女の願いが。
「終わりじゃない」
もう一度、祈るような思いで、僕は言った。
緩やかに、リリーの表情が崩れていった。次々に新しい涙が、彼女の頬を濡らしていく。
彼女は僕に、すがるように僕に手を伸ばした。
咄嗟に、その手を取る。そのまま、彼女は僕の胸に顔をうずめた。
リリーの手は、温かい。それは強い力で、僕の手を握りしめる。
「リリー」
僕は堪らず、その名を呼ぶ。彼女は静かに泣いている。
切なくて、胸が苦しい。
嬉しくて、胸が張りさけそうだ。
――抱いていい望みなど、僕にはずっとなかったのだ……。