Obey your mastar
「いや、実にスバラシイ……なんと俊敏な動きでしょう、私が事を理解したころにわすでに何もかもが解決しているのですから」
わずかな陰りを見られない教会の鐘そのものを思わせる声が広場いっぱいに満たされる。
その荘厳であり、清廉な声にはあまりにも膝を折りたくなる絶対的な魔力があった。
「っ……!」
だが俺は全身に気力を搾り出すことで、自身を自身たるべく全てを押しとどめた。
そして、俺はこの時初めてなぜこの街の人々がこんなにも放心したような状態
でかたっまっているのか、その理由に行き着いた。
彼らは除いてしまったのだろう、終焉すら孕んだ狂気とそれを埋め尽くすほどにあまね渦巻く信仰のごとき信念を。
深く、しかし美しい底の覗くことの許されない大河の如く雄大な大いなるそれを、不本意に……いや、不本意ゆえ突然に、あまりに予期せぬタイミングで、大いなるそれの刹那的なりんぺんを。
「やはり、すばらしい方だ。そのお嬢様も」
目の目にたたずむ、人ごみの中でなお強く輝く姿は天上から大地に這い蹲る俺達を照らし出す太陽そのものであるように思える。
おれは、この太陽を思わせる男の言葉に強い違和感と、あまりに微細で見逃してしまいそうなほどの親近感を覚えた。
しかし、それは男の言葉を理解しきる前のほんの僅か、非常に短い間の時間でしかなっかた。
男……神祇官のはなつ熱ある言葉のいみ乾いた大地に水が吸い込まれるように、海原の中に小石が投げ込まれるように、唐突にしかし無理がなく教え込まれると先ほど感じた違和感わいよいよ大きくなり、現実に迫ってきていた。
お嬢さんだと? 勿論、それをあらわすのは、いまだ俺の背に隠れて小さくなっているはずの少女だった。
いや、違う。
俺の背に守られ、小さくなっている少女などいやしなかった。
そこにいたのは、隠れることも、おびえることも、そして自分自身を見失うことなくただ毅然と目の前の老人をにらめつけている可憐なオリガの姿しかなっかた。
鈴なりに実った果実のようなみずみずしさと、しかしそれゆえの危うい壊れやすさを持った、小さな女王の凛とした眼差しだけが、細く華奢な存在から放たれていた。
俺はそんなであって間もない少女のあまりに意外な側面を見て、ただ、唖然とすることしかできなかった。
画、その視線を与えられるとうの本人は俺なんかよりもずっと涼しい顔をしてオリガの視線を受け流していた。
神祇官の男は、誰のどんな突き刺さるような針の視線を受けてでも受け流すであろう、そんなことが妙に納得させられる男の態度に俺はついに畏れの感情すらも抱き始めていた。
しばらくの間、神祇官とオリガは視線を交し合っていた。片方は揺らがない炎の、もう片方は春の野を思わせるたとえ何があろうと動じない視線とを。
だが、そんな一法的なにらみ合いは神祇官のまぶたが下ろされたことで終わりをっ告げた。神祇官がゆっくりと、誰の目に明らかなように瞼を閉じた瞬間にオリガの体が、まるで支えていた糸が切れた人形の様に崩れ落ちた。
ようやく、2人の世界が終わりを告げ、間に割ってはいることができるようになり、俺は、オリガとやわらかくない地面とが接触する寸前、ギリギリのところでオリガの体を支える。
俺はいつのまにかつめていた息を吐き出した、俺が呼吸をとめていたのは、容赦なく迫る地面に対してか、それとも、神祇官のせいか……
だが、そんな事は俺には関係がなかった。いま、この瞬間だけは俺の中で横たわる少女だけが俺の全てだった。
「……誠にすばらしい、感服いたしました。
そうだ、この後ご予定がないのでしたら、一緒にお昼はどうですかな?」
神祇官から、まるで今の出来事など全く起こらなかったような……オリガとの睨み合いも、そのオリガが地面とぶつかりそうになったことも、時間の流れを無視したかのような神祇官の言葉が降り注いだ。
「……悪いが、連れの調子がよくないようだからな、お断りさせてもらう」
俺は、柔らかく瞼を閉じたままのオリガを横抱きに抱え、立ち上がると、漸くそれだけが言えた。
俺の……仮にも半分とは言え竜人である俺の精一杯の眼光にも、誘いを断る言葉に関しても、そよ風を受ける程度の微笑みだけで返す老人。
俺は、そんな恐ろしい老人に、歯を食いしばって、逃げることしかできなかった。