9. 二人きりの園芸部
話がある、と言ったくせに、宮野透は一向に口を開こうとはしない。実に不可解な空気が流れる中で、俺と宮野透は、ただ、黙りこくって、屋上から一望する街の眺めをみつめていた。
宮野透には見えないだろうが、俺の頭にはいくつもの疑問符が去来していた。しかし、沈黙はそれらを何一つ解決してくれないことは、大人の俺が一番良く知っていた。
俺と宮野透に直接の面識はない。この高校の履修過程において、一年生は必ず化学を履修する。そして、二年生から、物理と生物のどちらかを履修するような仕組みになっている。だから、宮野透は彼の姉と同様、接触のない大多数の生徒の一人であり、彼にとっても俺という存在は、大勢の先生の一人、と言ったところだろう……。
「そういえば、地域清掃はどうした? まさか、もう終えて戻ってきたとか言うんじゃないだろうな?」
屋上の手すりに寄りかかりながら、俺は教師らしい叱責の言葉で沈黙を破ることにした。すると、宮野透はにべもなく、「サボりです」と言い放った。教師を目の前に、堂々とした態度だ。しかし、その一言によって、会話は、ブツリと途切れてしまう。
話があると言ったのは、宮野透の方なのだから、俺が気をつかう理由など何処にもないのだが、何故か口を開こうとしない、宮野透に困り果ててしまった。逃げるのは良くない、と思いながらも、俺は地上に落っことしてしまったタバコを諦めて、ズボンのポケットから新しいタバコを取り出して火を着ける。
「まさか、宮野美咲に弟がいたなんてな。知らなかったよ」
「まあ、ぼくと姉ちゃん、全然似てないですからね。無理もないです」
似ていないというのは、顔のことではないのだろう。確かに、宮野透は、女の子たちに受けの良さそうな顔をしている。それでも、やはり姉弟ということなのか、一瞬その顔を見ただけで、どこか面影につながるものを感じずにはいられない。
むしろ、宮野透の言う「似ていない」のは顔色のことだろう。姉と違い、宮野透は自信なさ気な顔色など見せない。それどころか、何処か俺に対して、敵愾心のような棘のある視線をぶつけてくる。その理由を、このタバコが吸えないほど短くなる前に、問い質しておきたい。
しかし、このままでは一問一答のように、会話は細切れのままで、埒が明かないため、仕方なく俺のほうから切り出すことにした。
「それで、話って何なんだ?」
「話っていうのは……そのっ」
言いづらいことなのか、急に宮野透は口ごもる。だが、一瞬の後、意を決したように頷くと、
「単刀直入に言います。姉ちゃんに、園芸部なんか辞めるように、先生から言ってください!」
俺に向かって文字通り言い放った。俺が二本目のタバコを地上に落としてしまったのは、言うまでもない。下には、小さな植え込みがある。もしも、タバコの火が燻れば、学校が火事になってしまうかもしれないという、心配と共に、俺は宮野透がそう言った、その真意を測りかねた。
「園芸部なんか、とは随分な言い草だな。どういうことだよ? お前の姉ちゃんが何してても、お前には関係ないだろう? 悪いことしてるわけじゃないんだ」
「それは、そうですけど。家族として、迷惑してるんです。ぼくの家、両親が夜遅くまで働いているから、家事はずっと姉ちゃんと二人で分担してきました。でも、姉ちゃんがバイト始めた所為で、全部ぼくの負担になってるんです! ぼくだって、色々とやりたいことがあるんです」
「それで、園芸部を辞めさせたいってか。悪いが、それはお前の姉ちゃんが決めることだろう? 俺が言ったところで無駄だろう」
三本目のタバコを取り出して、今度は落とさないように強く指に挟むと、火をつけた。宮野透は、俺の言葉に閉口してしまう。宮野家の事情は知らないが、たしかに弟だって部活や遊びに勤しみたいだろう。それを、姉の部活動が原因圧迫されているとなれば反感を持つのも、無理のないことかもしれない。
しかし、そのことと、俺に向けられる敵愾心を帯びた視線は、結びつかない。いや、むしろ、宮野透は本心を口にしていないような気がした。
再び、俺と宮野透の間に、沈黙が流れる。その隙間を埋めるように、夏空に吐き出される白い煙を、俺たちはただ眺めていた。
しばらくすると、屋上から見下ろす校庭に、ぞろぞろと人の姿が現れる。地域清掃を終えて、くたびれた足取りの生徒たちだ。みな頭を垂れて、屋上の俺たちに気付く様子はなかった。
「まあ、それとなく宮野には言ってみる。弟が困ってるってな」
そろそろ予鈴がなる時刻。俺は携帯灰皿の中に吸殻を押し込みながら、宮野透に言った。宮野透は何も言わず、こくりと頷いた。それで、終わりのはずだった。
しかし、踵を返す宮野透は、何を思ったのか、ぴたりと足を止め振り向いた。不意に、宮野透の棘を帯びた鋭い言葉が、俺を貫いていく。
「本当は、先生が姉ちゃんに無理をさせてるんじゃないんですか? ここのところ、姉ちゃんいっつもバイトと受験勉強でクタクタになってるんです。それに、噂だってあるんです」
「噂だって?」
思わず、俺は訝った。
「ええ、姉ちゃんが先生に媚を売ったって」
そう言うと、宮野透は足音を立てて屋上を後にする。一方、そんな噂が立っていることなんて今の今まで知らなかった俺は、耳を疑いながら、半ば呆然として、ただひとり立ち尽くした。
おかげさまで、午後の授業は手につかなかった。
俺が宮野にアルバイトをするよう勧めた覚えはないし、宮野に媚を売られた覚えもない。俺は、単に宮野の花を植えたいという希望を、園芸部の顧問になることで、叶えてやった。そこにあるのは、教師と生徒の関係だけだ。自分で、園芸部を始めたいと言った以上、彼女は部のために活動予算を稼ぐ義務がある。もちろん、俺が自費を裂いて、園芸部に援助することはできるが、それは一人だけの園芸部にとって、特定の生徒を贔屓するということになるし、そもそも宮野自身が認めないだろう。
事実はどうあれ、そういうくだらない噂はよくない。下らなければ下らないほど、噂というものは広まっていくのだ。それは、宮野を傷つけることにつながる。
確かめたわけではないけれど、俺がそうであるように、あの子もそれほど強い人間ではないようだ。つまり、大川の言葉を借りるなら、俺と宮野は「似たもの同士」なのだ。しかも、感情を発露しない彼女のことだ、他愛もない悪意に踏みにじられることがあれば、ひどく思いつめてしまうかもしれない。
教師として、園芸部の顧問として、きちんと説明したい。ところが、俺にはその手段はないし、もしも俺が弁明などすれば、余計に宮野は立場が悪くなる。
宮野を傷つけたくはない……。
そんなことばかり考えていると、何度も黒板の板書を間違えてしまう。そのたびに、「そこ、間違ってませんか?」生徒に指摘されるというのは、教師としての沽券に瑕がついてしまうのと同じことだ。
それでも、何とか午後の授業を乗り切った。
授業終わりのチャイムがなると同時に、いつもより強烈な疲労感がどっと押し寄せ、俺は疲れた体を引きずりながら、中庭に向かった。もちろん園芸部の活動に参加するためだ。
すでに宮野は、中庭に座り込んで、小さな手鍬を片手に、土を耕していた。彼女は近づいてきた俺の足音に気づき、振り向かないで言う。
「先生、何かあったんすか?」
いきなりの言葉に、俺は狼狽しかけた。足音だけで、俺の心の機微に感づくなんて、まるでエスパーのようじゃないか。
しかし、宮野の弟に頼まれたことを、彼女の頼りなく小さな背中に向かって、切り出す勇気はさすがになかった。今更、園芸部をやめろ、というのはあまりに無碍なことだ。
「別に、なにもない」
用具入れにしている、薄汚れたプランターから、手鍬を取り出すと、半ば取り繕うように返した。もちろん、見え見えだったとは思うが、宮野がそれ以上問い質して来ることはなかった。
俺と宮野は放課後の中庭で、運動部の掛け声や吹奏楽部の練習をBGMにして、花壇に生える雑草を無言でむしった。中間試験の後、せっせと草むしりをしてきたおかげで、荒れ放題だった花壇は見違えるように、綺麗になった。あとは、宮野の望む花を植えるだけだ。
「なあ、宮野。バイト、辛いか?」
俺がつぶやくように問いかけると、宮野はきょとんとして俺の顔を見た。何でそんなことを、突然聞くのかという顔だ。ほとんど、表情が動かないため、とても分かりにくいが、一ヶ月あまり、放課後の時間を宮野と共に過ごして、なんとなく、彼女の表情が読み取れるようになってきた。
「辛くはないです」
俺を気遣っての嘘ではないのだろう、きっぱりと宮野は言い切った。しかし、彼女の顔にはどこか疲れの色が滲んでいる。そう思うのは、やはり、宮野の弟が言ったことが、心のどこかに引っかかっているからだろう。
「そういえば、花屋でバイトしてるんだったよな。店長さんはいい人か?」
「はい、とっても優しいです。何のお役にも立てていないのに、いつも『ありがとう』って言ってくれます。そういえば、来週、初めてのアルバイト代が出るんですよ。それで、肥料と種を買ってきます」
「そうか、いよいよ園芸部も本格的に活動開始だな」
と、俺が言うと、宮野は心なしか微笑んだような気がした。そんな顔を見ていると、弟には悪いが、やはり「園芸部をやめろ」などと言えるはずもない。彼女が望んでしていることだ。たとえ家族でも、横槍を入れていいはずもないだろう、と俺は教師らしくない言い訳を、頭に過ぎらせた。
ご意見・ご感想などございましたら、お寄せください。