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7. 地域清掃の日に

 宮野がアルバイトを始めたらしいと話すと、大川は愛用のコーヒーカップを片手に、少し驚いたような顔をした。誰の眼からも明らかなほど、積極性に欠けるところのある宮野が、本当にアルバイトをはじめるとは、思っていなかったらしい。

 授業も急ぎの仕事もないときは、暇をもてあます。職員室や理科準備室に篭るのも息苦しいし、屋上でタバコを吸うわけにも行かない時には、決まって保健室のドアを叩く。大川のコーヒーをご馳走になりながら、無駄話に花を咲かせるのだ。もっとも、最近の話題は宮野と園芸部の話に集中していた。

 中間試験が終わって、宮野も部費のためのアルバイトを始め、ついに園芸部が活動開始となった。宮野のアルバイトにあわせ、部活動の時間は、朝練ならぬ早朝と、アルバイトの時刻までのほんの短い放課後に絞られた。

もっとも、とりあえずは、花壇の雑草を抜き、土を耕してやらなければならない。長い間、真っ当な花を咲かせていない花壇は、土がやせ衰えている。そのため、さらさらと流れるグラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声と、不ぞろいな吹奏楽部の練習に耳を傾けながら、スコップと手鍬で黙々と雑草を抜くのはとても地味な作業だが、反対に、綺麗な花を咲かせるためには欠かせない作業だった。

「そう、じゃあ園芸部の活動は、順調にスタートしたってわけか。でも、宮野さん、朝と放課後の草抜きに、毎日のアルバイトと受験勉強じゃあ、休む暇なしね」

 大川は、そう言うとちらと、デスクの上に置かれたバインダーに目を落とした。どうやら生徒たちの健康状態をチェックした資料らしい。さすがに、教師と言えども、盗み見ることが許されない個人情報の塊だ。特に、女の子たちのそういった情報を、男の教師である俺が見ていいはずもない。

 ただ、少しだけ目の端に入ったページには、確かに「宮野美咲」と言う名前が記入してあったのを、目ざとく見つけてしまった。

「ここのところ、時々貧血を起こして、保健室へ来るのよ」

 大川の言葉に、今度は俺が驚く番だった。

「何か病気とか?」

「ほとんど寝不足みたい。あの子、顔に出さないから分かりにくいけれど、疲れてるって顔をしてた」

 宮野は、自分の感情を表あまり出さない。笑うところなんて、まだ一度も見ていない。それでも、全校生徒の健康を診ている校医の大川には、宮野のほんの些細な感情の動きを読み取ることが出来るようだ。

「無理はするなって、言ったんだけどな……」

 俺は、大川の淹れてくれたコーヒーを煽って、湯気を溜息と共に吐き出した。

「あら、桜井くん。宮野さんのこと、心配してるの?」

「そりゃ一応、園芸部の顧問としては、部員のことは心配するさ。何かあれば、責任を取らされるのは俺だからな」

「ふうん。でも、それだけかしら?」

 大川は口角を軽く上げて、意味深な微笑みを、俺に投げかけた。「それだけ」も何も、それしかないだろう。少しばかり憮然としながら、俺は大川を睨みつける。

 だが、大川は棘のついた俺の視線を、軽くかわすと、妙に真剣な表情になって、

「本当は、あの子と重ねているんでしょう?」

 と、言った。

「あの子って誰だよ?」

「そんなこと言わなくても、分かってるでしょ。でも、宮野さんに重ねるのは、感心しないわ。たとえあの子がどんな子でも、宮野さんは宮野さんよ」

 まるで、説教でもするかのような大川の口ぶりに、俺は少しばかり腹が立ってきた。

「べつに重ねたりしてねえよっ! 教師が生徒の事を気にかけるのは、普通だろ?」

「フツーかどうかは、さておいても、ムキになるところを見ると、自覚はあるみたいね。過去のことは過去のこととして、あの子をあの子として見てあげないと、傷つくのは宮野さんよ。それは、教師としてするべきことじゃないわ」

「分かったような口を聞くなよ! お前のそういうところが、嫌いだ」

 思わず、棘を帯びた言葉を吐き出してしまって、俺はひどく後悔した。だが、先に俺の心の穴を掘り出すような真似をしたのは、大川の方だ。

「嫌いで結構よ。わたしたちの関係って、十年も前に終わっているもの。たとえ、この学校で再会したことが運命でも、それは変わらないんでしょ? だったら、桜井くんは十年の間、ずっと引きずり続けてるものを捨てなきゃいけないんじゃないかしら」

「何も引きずっているものなんて……」

 ない、と言いかけた口が、自然と噤んでしまう。引きずっていなければ、大川に掘り出されるような心の穴など、存在していないはずだ。

「困ったものね。わたしは校医だけど、教師の心のケアまでは出来ないわ。大人の心療内科は専門外よ」

 大川はコーヒーをすすった。コーヒー好きのクセに猫舌の彼女は、まだコーヒーが熱かったのか、少しばかり顔をしかめた。

「別にそんなこと、頼んでないさ。タバコでも吸ってくるよ」

 何となく、言い合いになりそうな予感に、俺は席を立った。嫌いだ、などと言っておきながら虫のいい話かもしれないが、大川と喧嘩をしたくはない。

「そういえば、桜井くん。あなた、授業があるんじゃないの?」

 時計に目をやった大川が、ふと気付いたように言う。もうじき三時限目が始まる時刻だ。大川は何故か、俺の授業日程を把握している。確かに、今日の三時限目は、本来なら三年生の授業が入っている。今から、屋上に上がっていては、おそらく授業開始までに間に合わない。あわよくば間に合ったとしても、タバコの臭いを消すには至らないだろう。

「いや、今日は月一の地域清掃の日だ。だから、授業はない」

 俺がそう言うと、大川は「ああそうか」と相槌を打って納得を示した。俺の授業日程は覚えていても、学校行事を覚えていないとは、大川も間が抜けている。昔、そういうところが好きだった、ということを俺は思い出して、苦笑いしそうになるのを必死でこらえた。

「とにかく。宮野がまた保健室へ来たら、きつく叱っておいてくれ。無理をして体を壊したら、元も子もないってね。俺がいうより、校医で女のお前が言った方が、効き目があるだろう」

「ええ、分かったわ。でも……宮野さん少し嬉しそうにしてたわよ。園芸部を始められたことが嬉しかったんでしょうね」

「宮野がそう言ったのか?」

 保健室の扉を開きかけた手を止めて振り返った。大川は肩をすくめ、

「ううん。そんな顔してただけ」

 と素っ気無く言って、まだ湯気の立つコーヒーに息を吹きかけていた。

 そんな大川を尻目に、俺は保健室を後にして、廊下を歩く。生徒たちが地域清掃に出かけているため、校舎の中はことさら静寂に包まれていた。

 地域清掃は、この学校の設立当時からのしきたりのようなもので、日ごろお世話になっている地域の人たちに貢献するため、生徒たちがゴミ袋を片手に、街を練り歩き、ゴミ拾いや草むしりを行う。随伴する教師は、持ち回りのローテーションであり、今月は俺の当番ではない。そのため、ヒマをもて余していると言ったら、地域清掃に出かけた生徒たちに悪いだろう。

 もっとも、生徒たちも決まりごとだから、地域清掃というボランティアに参加しているに過ぎない。高校生にとって、ゴミ拾いなど退屈なことで、授業がないだけマシくらいにしか思っていないことだろう。

 真面目にやっている生徒はほんの一握り。宮野は……彼女の性格から察するに、たった独りでも真面目にやってそうな気がする。今日の朝も、花壇の整備のために、草むしりをしたばかりだというのに、文句も言わず街のゴミ拾いをしている姿が目に浮かぶようだ。

 俺は、タバコに火をつけながら、宮野たちが地域清掃しているであろう公園に目を投じた。

 と、その時だ。キイっと掠れた音を立てて、屋上の鉄扉が開いた。俺は、心臓が抉り出されるほど驚いて、思わず、タバコを遥か地上へと落としそうになった。

「先生、探しましたよ」

 そう言って現れたのは、女の子に受けそうな愛らしい顔立ちの、男子生徒だった。その顔に、どこかで見覚えのある面影を感じながらも、受け持ちのクラスの意図でない事を確認しつつ、制服の上着が妙に似合っていないところを見ると一年生だろうか、と推察をめぐらせた。 

「ぼく、一年の宮野透です」

 いきなり、男子生徒は自らの名を名乗り、「お聞きしたいことがあります」と付け加えた。

 宮野……その聞き覚えのありすぎる名前に、俺は驚きを隠せず、一度は落下を免れたタバコを、ついに四階の高さから、地上へと落っことしてしまった。

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