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5. 秘密のとりひき

 生徒たちが一喜一憂しながらも、どこか晴れやかな顔をしている。彼らにとって、地獄とも呼べる戦いを何とか生き抜いたのだ。そう、「中間考査」という戦いを。

 しかし、教師の方も試験期間というのは、戦いである。

 試験問題は、すべて教師陣が考える。大手予備校の問題集をそのまま引用する、怠惰な教師も少なくない。出来ることなら、俺もそうしたいところだ。だが、俺は自分で言うのもなんだが、そういうところだけ律儀な性格をしている。必死に頭を悩ませて、問題が出来上がったのは、試験日の二日前。

 さらに、当日の試験時間には、教師が担当科目以外の試験監督も務める。生徒の皆がそういうわけではないが、こあわよくば試験監督の眼を盗み、カンニングをしようとする者も居る。そのため、目をさらにして、光らせて居なければならないのだ。

 もしも、カンニングが発覚することなく、そのまま試験で不正な高得点を納めたなら、その生徒の将来に関わることだし、俺自身の責任も問われかねない。屋上でこっそりタバコを吸うような、不良に育てたくはないと言うような、教師としてのプライドが、俺にも備わっているようだ。

 そうして無事に何事もなく、試験と言う名の生徒と教師の熾烈な戦いが終わりを告げても、教師には延長戦が待っている。生徒の答案をすべて採点してやらなければならないのだ。それも、教師としての責任なのだが、試験を終えた生徒たちの晴れ晴れとした顔を見ていると、いつも、少し羨ましいような、腹の立つような気持ちになる。

 教師だって人間だもの……。

 そんな言い訳に似た文言を頭の中に去来させながら、赤ペン片手の採点作業に息が詰まる思いを感じた俺は、気分転換の一服と洒落込むつもりで、屋上の聖域を目指して、理科準備室を出た。

 すでに、外は夕暮れの色。リノリウムの廊下がオレンジ色に染まり、湿気を帯びた六月の風も、やんわりと涼しさを含んでいた。

 ふと、そんな廊下の窓越しに見える花壇に目をやる。

 そういえば……といった具合に、中間考査を終えたら、園芸部の活動を開始する、という約束を思い出した、ちょうどそのタイミングで、視界の端にぽつんと立つ宮野の姿が入った。

 宮野美咲は、出会ったときと同じように儚げに佇み、ぼんやりと花壇を見つめている。どうやら、俺に気付いてはいないようで、このまま無視して通り過ぎることも出来たが、何故か俺は足を止めずにはいられなかった。

『似たもの同志』

 大川に言われた言葉を思い出しながら、

「宮野」

 と、廊下の窓を開いて声をかけると、宮野は少し驚いたような顔をした。

「どうしたんだ? 試験も終わったんだ。さっさと帰って、友達と遊びに行ったりしないのか?」

 大概の生徒は、試験が終われば、抑圧された鬱憤を晴らすかのように、大手を振って遊びに出かけるものだ。かく言う、俺自身も学生の頃は、試験が終わると、少しはハメを外したものだ。

 だが、宮野は俺の科白に、少し陰を落としたような表情で俯いた。

「友達は……」

 いません。と続いたのだろう。ほとんど聞き取れないような声で、宮野は言う。

 宮野は、明らかに口数が少なく、笑顔も見せないタイプだ。それを、大人しいと呼ぶのかどうかは良く分からないが、物静かではある。一方、他の生徒たちは、青春真っ只中を、日々前進し続けながら、元気いっぱいにキラキラと輝いている。現代っ子らしい物怖じしない性格で、時折、教師である俺のことを「桜井ちゃん」と親しげに呼ぶ生徒も居るくらいだ。

 そうしてみれば、物静かで遠慮がち、夏の風に煽られれば、あっという間に飛んで言ってしまいそうな印象すら受ける、宮野と他の生徒は、水と油のようにも見える。

 言い換えれば、宮野は何処か厭世的な雰囲気すら漂わせていた。

「それで、家にも帰らないで、何してたんだ?」

 宮野の顔がこれ以上暗くなるのを嫌って、俺が話題を変えるように尋ねると、固くなりかけた彼女の顔が少しだけ和らいだ。

「花を……何の花を植えるか、考えていたんです。出来れば、一年中花を咲かせられる、花壇にしたいんです」

「ふうん。それで、何の花を植えるか、決まったのか?」

「はい。これから、夏の間に種を植えると、最初に花を咲かせるのは、早くても、来月以降です。だから、夏から冬に咲く花を植えようと思います」

「冬? 冬に咲く花なんて、あるのか?」

 俺は、植物、特にガーデンフラワーに関しての知識は乏しい。花を愛でるとい習慣がそもそもないのだ。すると、宮野はこくこくと二度ほど頷いて、

「ありますよ。クレマチス、ガーデンシクラメン、クロッカス、ストック、スイートアリッサム、スノードロップ、プリムラ……」

 と、スラスラと花の名前を連ねていく。聞き慣れない花の名前もあり、それだけで、宮野のガーデニングに対する造詣の深さを思い知らされた。

「右の一角には、パンジーを植えようと思います。それから順番に、リコリス、ラベンダー、ゼラニウム、コスモス、ストック、クロッカス、ブリムラ」

 宮野は、おそらく随分悩んで選んだであろう、花の名前を、白く細い指で煉瓦で仕切られた花壇のブロックを指差しながら、列挙していく。そして、最後に少しだけ間があって、

「あと、その端には、ヒースを植えようと思います」

 おずおずと、花壇の隅っこ、日陰の中庭で、最も日当たりの良い場所を指差した。

「ヒース? 聞かない名だな」

「ちょうど、ぶどうの房を逆さにしたように、白や桃色の小さな花をいくつも咲かせて、とても可愛いですよ。日本では別の名前があって……」

 他の生徒に比べて、物静かな印象の宮野がやたらと饒舌に語る。なんだか、宮野にも歳相応なところがあるのだな、と思わず感心した俺は、しばらくの間、彼女の話を黙って聞いていた。しかし、俺が言葉を発さないと、次第に宮野は不安そうな顔になる。

「あの、ごめんなさい。詰まらない話をしてしまって」

 また、宮野は俯きかけた。俺は、それとわかるように笑って、

「いや、詰まらないことはないよ。園芸部の部長兼、部員のお前が、そんなに花に詳しかったとは思わなかった。ちょっと驚いたよ」

 と、正直な感想を笑顔に載せて言うと、宮野は少しだけ頬を染めた。思えば、その時、初めて宮野の表情と呼べるものを見たような気がする。

「えっと、昔から花が好きで……お母さんから教わった押し花を、よく作ってました」

「押し花? そりゃまた、古風だな」

 おおよそ年頃の女子高校生とは思えない趣味に、思わず噴出しそうになるのをこらえた。いや、むしろ大人しい宮野には良く似合った趣味だと思う。ただ、彼女は俺の「古風だ」という科白に敏感に反応して、恥ずかしそうに再び俯いた。

 話題を変えよう……。

「やっぱりバイト、するのか? 試験が終わっても、三年のお前には受験勉強もあるだろ。それでも、バイトしなきゃダメなのか?」

「はい。先生のお財布に迷惑かけられませんから」

 冗談のつもりなのか、宮野はそういうと、顔を上げた。

 園芸部は試験の前に設立されたばかりの、部員約一名の弱小部活。しかも、時期はずれの申請で、生徒会からの活動予算は下りないため、宮野は花の種や肥料などの消耗品を手に入れるため、バイトをすると言った。もちろん、教師としては校則違反であるバイトを認めるわけにはいかないが、園芸部顧問として活動費をいくらか財布から出してやるというのも、彼女のプライドを傷つけかねない。結局、宮野がバイトをすることに、俺は目を瞑ることにした。不良教師らしく。

「でも、まだどんなバイトするかは決めてません。色々ありすぎて、自分に何が一番合っているのか分からないんです」

「真面目なんだな、宮野は。まあ、いずれにしても無理だけはするなよ」

「はい。お気遣いありがとうございます、桜井先生」

 宮野は、ぺこりとお辞儀をする。宮野の長い髪が、初夏の夕暮れ時を駆け抜ける、淡いオレンジ色の風にふわりと揺れた。

 無理はするな。教師として至極当然の科白を吐き出したつもりだったが、それはほとんど本心から出た言葉で、大川が冗談交じりに言った「守ってやりたい」というのとは違って、初夏の穏やかな風にも吹き飛ばされそうな宮野のことを、教え子の一人として、「放っておけない」と言った方が、いいのかもしれない。いや、大差ないか。

「先生、先生はタバコを吸いに行く途中だったんじゃないですか?」

 宮野の小さな口からこぼれだした言葉に、俺は心臓を掴まれたような気がした。

「あ、ああ。そうだけど。何で分かったの?」

「だって、先生のシャツ。タバコの臭いがしないから」

 宮野は、鼻が利くのだろうか。

「バレバレね……。俺がこっそりタバコ吸ってること、内緒にしてくれよな。俺も、宮野のバイトの件、内緒にしておくから」

 少しだけ笑って、片目をを瞑ると、宮野はそれといって顔色を変えることなく「わかりました」と短く応えた。

「いいバイト、見つかるといいな。でも、今日はそろそろ、日が落ちる。さっさと家に帰れよ。じゃあ、また明日な」

 俺はやや声のトーンを落として、宮野に言うと、窓を閉めた。しかし、宮野はその後もしばらく花壇のところに、ぼんやりと立っていた事を、俺は屋上の聖域から、タバコを吹かしながら、同じようにぼんやりと眺めて知っている。

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