4. 空を眺めるのが好き
「姉ちゃん!」
突然声がして、わたしの心臓は飛び出しそうになりました。振り返ると、わたしの部屋の戸口に、弟の透が立っています。ちょっと怒ってるみたいで、男の子にしては可愛い顔が吊りあがっていました。
「何度も呼んだのに、ぼーっとして!」
全然気がつきませんでした。
学校から帰って、制服がシワになる前に着替えた後、机に座ってぼんやりしていました。わたしの部屋からは、とても綺麗な空を眺めることが出来ます。青空、曇り空、星空……季節によって、柔らかかったり冷たかったり、色んな表情を見せる空は、いままさに初夏の夕焼け空に染まっていました。
ずっと以前。まだわたしたちが小さかったころ。わたしが小学生に上がったのをきっかけに、わたしと弟に部屋が与えられることになりました。そろそろ子どもたちのプライバシーを尊重しようという、両親の配慮です。ところが一戸建ての宮野家には、対照的な二つの部屋しかありませんでした。ひとつは、今わたしの部屋になっている、空が見える西向きの部屋と、もう一つは北に面した日陰の部屋です。当然、当時のわたしたちはどちらが西向きの部屋を手に入れるかで、姉弟喧嘩をしました。結果は、姉であるわたしが口と実力で勝利し、見事にこの部屋を手に入れたのです。
その日から、悲しいことや辛いことがあると、嬉しかったこと楽しかった事を思い出しながら、空を眺めるようになりました。そうしていると、悲しいことや辛いことがあっても、全部忘れて、元気になれるような気がするのです。
でも、今日は違いました。少しだけ、いつもより心が弾んでいました。わたしの顔はいつも通り笑顔なんか何処にもなくて、透にはわたしの心が弾んでいることなんて分からないかもしれませんが、とても嬉しいことがあったのです。
中庭に寂れた花壇があるのを見つけたのは、一昨日のこと。そして、桜井先生が園芸部を作るために部活動申請書を持ってきてくれたのは、今日の放課後でした。
先生にとってわたしは沢山居る生徒の一人。しかも直接教鞭を執ってもらっている先生ではない桜井先生が、約束を覚えているかどうか、本当のところ、半信半疑でした。でも「計画」のためには諦めるためには行きません。
午後の授業が終わり、わたしは荷物をまとめると、その足で理科準備室へと向かいました。理科準備室へ向かう道すがら、すこし花壇に寄り道もしました。そして、決意を新たにして、いざ理科準備室の扉をノックすると、先生が約束を覚えていないかもしれない、と言うわたしの不安を他所に、
「待ってたよ」
と、先生は朗らかな笑顔でわたしに、すでに顧問の先生として桜井先生の名前とサインが書かれている申請書を手渡してくれました。そんなたった一枚の紙切れですが、それがわたしの「計画」のスタートラインです。
「いろいろと準備するものもあるだろうし、すぐに花壇をいじると言うわけにも行かないだろう。それに先立つものも必要だしね」
わたしが、部員の欄に名前を書く間、先生が言いました。先立つものとは、「お金」のことです。新しい部活は四月の予算会議までに申請しないと、受理はしてくれますが、代わりにその一年間は部費がもらえません。部活動には、いろいろと経費がかかることは分かっていますだけど、今はカレンダーも折り返して六月です。来年の春まで残り半年と三ヶ月は、一文無しで部活動をやっていかなければなりません。
でも、花壇を綺麗にする園芸用具なら、いくつかは我が家の倉庫に、使わなくなってしまった植木鉢と一緒に眠っています。
と、わたしが先生に提案すると、先生はちょっと渋い顔をしました。
「それは感心しないよ。個人的な趣味の園芸じゃなくて、例え一人きりの部活でも、学校の部活動だ。生徒になにもかも負担させるわけにはいかないよ」
だから、大抵の生徒は、きちんと四月に部活動を申請します。それは、よく分かっているのですが、来年を待っていたら、わたしは卒業してしまいます。それでは、計画は実りません。
だけど、「計画は今じゃなきゃだめなんです」なんて先生に言うわけにもいきません。先生はわたしの考えなんて、知りませんし、知る必要もないです。知ってしまえば、きっと先生は笑うと思います。バカだねって言うと思います。
「でも、種や球根を買うには、お金が要ります。肥料とか花の種ってあまり安くないんです。でも、少しくらいなら、お小遣いを切り詰めれば何とかなりますし、アルバイトもします」
「だめだ。校則で、特段の事情がない生徒のアルバイトは認められていないのは、宮野だって知ってるだろ?」
そういわれてしまえば、何も言い返せません。ほとんど初対面のわたし一人のために、わざわざ園芸部の顧問を務めてくれる先生、わたしの計画に巻き込んでしまった先生です。それだけで、とても嬉しいことなのに、わがままを言うわけには行きません。
「用具なら学校の備品を使わせてもらえばいいさ。ありもので間に合わせて、秋の引退までに、少しでも形に残る事をすれば、後に続くものも現れる。宮野が卒業した後も……」
先生の言うとおり、予算がないわたしにできることは、花壇に生えた雑草を取り除き、土を耕して、綺麗に整備するのが精一杯かもしれません。でも、それではダメなんです。
「花を植えたいんです。十月七日までに花を咲かせないといけないんです!」
つい、ぽろりと零すように、言ってしまいました。すると、当然のように先生はきょとんとしました。
「何で?」
「それは、その、十月七日はわたしの十八歳の誕生日なんです。その日までに、花を咲かせたいなって……」
咄嗟に付いた嘘です。でも、二十パーセントくらいは、ホントのことです。十月七日は、わたしの誕生日です。でも、それがわたしの「計画」ではありません。
先生はしばらく、わたしの顔をじっと見て、急ににっこりと笑って、
「そうか。女の子ってのは、いつでも誕生日にこだわるもんな。俺なんて誕生日なんて、過ぎてから思い出すよ。二十六回も誕生日を迎えると、歳をとるのも学校の年中行事と一緒で、ただの通過点だからね」
と冗談めかして言いました。本当は笑うべきだったのかもしれません。いえ、愛想笑いでも、笑いたかった。それなのに、わたしはにこりともせず、先生に苦笑いをさせてしまいました。
「大人しいんだな、宮野は」
そんなことありません。大人しいと言うよりは、ただの根暗なんです。笑い方も忘れた、いっつも能面みたいな顔してる気持ち悪いやつです。
先生はわたしの顔を見つめ、溜息のような息を吐き出し、
「まあ、俺もやかましいのは苦手だよ。……バイトの件は、学校にバレなきゃ問題はないだろ。どうせ、バイトしてる子なんて、沢山居るだろうし。でも、宮野は三年生だ。受験勉強だってあるし、日々の生活だってある。くれぐれも無理はするなよ」
優しくわたしに笑いかけてくれました。ちょっとタバコの臭いがする笑顔でした。
そうして、先生の「無理はするなよ」という言葉の大切さもかみ締めることなく、ついにわたし一人だけの園芸部が発足し、「計画」は始まったのです。それは、わたしにとって、とても嬉しいことでした。笑わなくても、心は軽く弾んでいました。きっとあの日、忘れた感覚に、わたしはちょっと浮かれていたのかもしれません。だから、学校から帰って、着替えるなり、ぼんやりと窓から見える夕焼け空を眺め、透の呼びかけにも気付かなかったのかもしれません。
「それで、何か用?」
わたしの部屋の戸口に立つ透に尋ねると、弟は少し呆れたような顔をしました。
「今日は、姉ちゃんが食事当番でしょ? ぼく、お腹すいたよ」
そう言われて、カレンダーに目をやります。毎週土日と火曜日と木曜日は、わたしが夕飯を作る係りです。我が家は、両親が共働きで夜が遅いため、昔から夕飯はわたしと透で作ることにしていました。浮かれてしまい、そんなことも忘れていたみたいです。
「ごめんね」
わたしはぺこりと頭を下げました。そんなわたしに、弟は腰に手を当てながら言いました。
「なんかさ、姉ちゃん、最近謝ってばかり。昔は、そんなんじゃなかったよね?」
「うん、ごめんね」
きっと、弟はさらに呆れ顔をしていたと思います。でも、わたしはあえてそんな弟と目を合わせることなく、足早に階段を下りて、台所に向かいました。
夕飯のメニュー、何にしよう……。
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