3. 似たもの同士
理科の教師として、生物学を教えている手前、薬品の臭いには慣れている。理科準備室の備品棚には、常に実験用の薬品や試薬、ホルマリンなどが常備されており、その中でもホルマリンの臭いときたら、かなり独特のクセがあるため、なれない人の多くは鼻をつまむ。
そんなホルマリンの臭いに慣れている俺でも、医療用の薬品の臭いには、いつまでたっても慣れそうにもない。
どちらも同じ薬だろう、という人も居るかもしれないが、理化学に用いられる薬品と、医療用の薬品は、例え同じ成分であっても、まったく臭いが違うものなのだ。
特別、俺にとっては、医療用の薬の臭いを嗅ぐ度に、記憶にこびりついた痛みが騒ぎ出し、胸の奥がまるで、肌を紙ヤスリでこすられたようなザラザラした感覚に陥る。
せめてもの救いは、自動販売機の缶コーヒーではなく、豆から挽いたという特製のコーヒーの香りが、少なくとも俺の周りに漂っていることだ。
「それで? 教頭先生は承諾したの?」
と、やたらニヤニヤと悪戯っぽい笑顔で、この部屋の主である彼女は言った。
タイトスカートからのぞく、すらりと長い脚。俺がまだ健康な高校生なら、思わず見とれてしまうような胸。鼻筋の通った、ファッションモデルも顔負けの美人。おおよそ、白衣を着ていなければ、誰も高校の校医であることに気付かないだろう。
彼女の名前は、大川岬。俺と同い年で、中学高校の同級生でもある。高校時代の一時期は、とても「親しい」関係だったこともあるが、大学進学と共に関係は自然消滅し、互いにそれぞれの道を歩んだ。……はずだったのだが、数年の月日を経て、俺は理科の教師に、大川は校医となって、赴任先のこの高校で再会した。
しかし、すぐに「校医の大川先生」が、あの大川岬だとは全然気付かなかった。高校生の時にもそれなりに可愛い女の子ではあったが、見違えるほど大人っぽく美人になった彼女に、気づけと言う方が無理難題だ。
彼女は俺との再会にとても喜んで、「きっと運命ね」なんて冗談めかして言ったが、それは運命ではなく、ただの偶然以外の何者でもないことを、俺も彼女も分かっている。何故なら、彼女と俺の親しい関係は、約八年前に幕を下ろしているのだ。そういうことに、いちいちはしゃぐほど子どもではないし、今となってはただの思い出にすぎない。だから、大川と俺は良き友人で居られる。
「まあね……教頭は生徒の自主性を尊重すればいいなんて言ってたけど、結局面倒を見るのは、俺だからな」
俺は、味気なく答えると、大川の淹れてくれたコーヒーをすすった。さすがは、豆から挽いた本格派。実に香ばしく、コーヒー通でない俺さえも唸らせる味だ。
宮野美咲の「花壇に花を植えたい」という要望に応えて、教頭にお伺いを立てたのは、その日の放課後。頭の禿げ上がった壮年の教頭は、書類に目を落としながらも、あっさりと宮野の要望を承諾してくれた。しかし、その裏には、俺に責任を丸投げすると言う、実に「教育者」らしからぬ態度がありありとしていた。
生徒の自主性などと言って、生徒と関わることや、面倒なことに首を突っ込むのは嫌いな人であることは、周知のこと。今更がっかりすることではないのだが、気が付くと愚痴をこぼすために、自然と保健室へと足を向けていた。
保健室は、放課後と言うこともあってか生徒の姿はなく、ちょうど仕事終わりに、大川が自慢の特製コーヒーを淹れていた。この学校に校医は大川一人だけ。教師ではない彼女は、職員室に席はなく、代わりにこの保健室が彼女の城でもあった。ここには、校長や教頭などの管理職の眼も届かないためか、傷薬や腹痛の内服薬、包帯などに混じって、彼女の私物が沢山置かれている。コーヒーメーカーもその私物の一つだ。
俺が校内全面禁煙のルールを破って、屋上と言う名の聖域でタバコを吸っているのに対して、大川は保健室と言う名の聖域で、美味いコーヒーを淹れている。似たもの同志、ということだ。
その同志のご相伴に預かりながら、俺は愚痴交じりに経緯を話した。話し相手としては、大川は優秀だ。どんな話でも厭な顔一つせずに聞いてくれる。きっと、生徒たちの悩み相談を引き受けているうちに身に付けた技能なのだろう。
「宮野さんね、あの子がそんなこと言い出すなんて意外ね」
話を聞き終えた大川は、コーヒーカップを片手に言う。
「なんだ、大川は宮野美咲のこと、知ってるのか?」
「当たり前よ。っていうか、生徒の健康を預かる身として、全校生徒の顔と名前くらいはちゃんと覚えているわ」
にっこりと微笑む大川。思わず俺は舌を巻く。同じ不良教師でも、大川はやるべき仕事はきちんとこなしているようだ。
「それに、わたしと同じ名前でしょ、ほら、おおかわみさき、みやのみさき。だから、必然的に覚えてしまったのよ。わたしの印象では、真面目であんまり自主性や積極性の強い子じゃないと思ってたんだけど」
「要は大人しい子ってことだろう? 確かにそういう雰囲気だったな」
「それに、あんまり体も強くないから、よく貧血や目眩を起こして、保健室に来るのよ。ホント、いまどき珍しいくらいおとなしい子。だから、意外ね……」
よほど、宮野美咲という生徒が、俺に要望を突きつけてきたことが以外だったらしく、驚きの顔をした。ころころと変わる大川の顔は、見飽きない。だが、友人である女性の顔をまじまじと見つめるわけにはいかない。俺は、飲み干したコーヒーカップを診察机におくと、代わりに机に放り出していた紙切れを取り上げた。
「まあ、なんにせよ、園芸部を部活動として新設することになった。明日にでも、生徒総会への申請書を宮野に渡すつもり」
と、言いながら、紙切れを眺める。部活動申請の書類だ。すでに、顧問としての俺の名前と印鑑は押してある。後は、宮野美咲が名前を記入して、生徒総会に提出すれば、正式に部活動として認められる。教頭からの承諾もあるから、早ければ今週中には、活動開始出来るだろう。
しかし、時期はずれの部活申請には、部活動のための予算が下りない。来年の四月までは、自費で賄うしかないのだが、どの道小さな花壇をいじるだけだ。それほどの費用を必要としたりはしないだろう。少しくらいなら、俺にも補助してやるくらいの余裕はある。
「意外って言えば……桜井くんも意外よね」
唐突に大川が言う。何が言いたいのか分からずに、俺は思わず小首をかしげた。すると、彼女は笑いをかみ殺したような表情になる。
「だって、あなたって昔から、あんまり他人に深く関わらない人だったじゃない。それが、何の心境の変化かしら。宮野さんのために、申請書まで貰ってきて、少し暗いなら活動費をポケットマネーで補助してやろうと思ってる。まあ、たしかに、宮野さんってどこか儚げで可愛いところがあるものね。男としては、守ってあげたくなるタイプかしら」
「はあ? なにバカなこといってるんだ。俺は教師で、宮野は生徒。教師が、生徒のために何かしようって思うのは、教師として当たり前だろ!」
「あら、桜井君がそんな熱血教師だったなんて知らなかったわ」
からからと、大川は笑った。人をからかったような口調は、昔から変わらない、大川の特徴だ。
「少なくとも、あの子は何かを塞いでる。あなたもね。似たもの同志、通じるところでもあったんでしょ。まあ、いずれにしても、あの荒れ放題の花壇に花を植えることは悪いことではないわ。頑張って、桜井先生。中間考査の問題作りもね」
俺に厭な事を思い出させた大川は、そのまま俺を保健室から追い出した。俺は、申請書を片手に、廊下を理科準備室へと歩いた。
確かに、なんで宮野の「花を植えたい」という、取るに足らない願いを聞き入れてやったのか、自分でも良く分からない。よく知りもしない生徒なのに、ここまでしてやる義理はない。「そういうことは、担任にでも相談しろ」と突っぱねても良かった。俺自身不思議だった。でも、「聞かなかったことにしてください」と彼女が言った瞬間、俺は何とかしてやりたいと思ったのだ。
似たもの同志……。もしも大川の言うとおりなら、宮野美咲も心の奥でザラザラしたものを感じているということだろうか?
ふと、廊下の窓越しに見える、中庭の花壇を見つめながら、俺はそんな事を考えていた。その時はまだ、宮野の「計画」にも気付いていなかったし、彼女が抱えるものも、彼女の想いにも気付いてはいなかった。
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