29. 春になったら、会いに行く
八年前、俺には中学生の妹がいた。
陽香は、人一倍傷つきやすく大人しい性格だが、花を愛する明るく優しい子だった。小さな家の前の花壇を毎日のように手入れしては、俺や父母を喜ばせてくれた。それは、俺たち桜井家の家族にとって、鮮やかで暖かな思い出だ。
だが、思い出が少しずつ色あせてしまうように、思い出の詰まった陽香の花壇も今となっては、主人を失って、荒地同様になってしまった。何とか、過去を振り切って毎日を生きる、父や母にとって、花壇を手入れすることは、つらい記憶を呼び覚ますだけの、禁忌だったのかもしれない。もちろん、高校卒業とともに、教育課程のある大学へ進み、下宿生活を経て、そのまま卒業、教員免許の取得と同時に、故郷から離れた地に赴任した俺にとっても、陽香の花壇に触れることは悲しみを思い出すだけの行為だった。
そう、八年前のあの日、陽香は自ら命を絶った。その瞬間、俺は後悔を背負うことになったのだ。
陽香は、他人を揶揄したり、自分の利益のために他人を陥れようとするような、そんな傲慢さは持ち合わせておらず、むしろ自分の所為で他人が傷つけば、卑屈なほど落ち込んでしまうような子だった。だが、だれも恨まない人間も、聖人君子にはなれない。生きている以上誰かに恨まれる。そうした謂れのない恨みによって、ある日突然、まるで青天の霹靂のように過イジメの毎日が始まったのだ。
耐えて耐えて、イジメられるのは自分の行いが間違っていたからだ、と愚直なまでに他人を恨んだりしない陽香は、次第に自分の心を壊していった。
すぐに陽香の変化に気付いたのは、当時高校生だった俺が一番最初だったはずだ。だが、陽香は相談してくるわけでもなく、「なんでもないよ」と青白い顔をして、元気なく返すだけ。明らかに「なんでもない」はずがないのだが、俺が執拗に問いただしても、陽香は一向に返答を変えようとしなかった。
そんな態度に、いい加減、腹が立った俺は、思わず声を荒げてしまった。「どうして嘘を吐くんだ! 俺は心配して言ってるんだ!」と。
責められるべきは、陽香をイジメているやつらであって、陽香ではない。陽香がなんでもない風を装うのも、家族を心配させたくない一心だったのだろう。そういう、陽香の優しさはよく分かっているのだが、だからこそ、何も相談してれない妹に、腹を立ててしまった。優しさが却って家族を傷つけることになる。そういうことが言いたかった。
だから、きつく言えば、泣き虫の陽香は、すべてを打ち明けてくれるかと思った。ところが、陽香はそれまで家族の誰にも見せたことがないほど、きつく鋭い眼で俺を睨み付け、こう言った。
「お兄ちゃんには関係ない!」
投げられた言葉は、まるで槍のように突き刺さり、俺の心に穴をあけた。そのあとは、売り言葉に買い言葉。きっと、その時の俺は冷静ではなく、大声で陽香を叱り飛ばし、結局のところ、妹を泣かせてしまったのだ。
それが、俺と陽香の最初で最後の喧嘩だったかもしれない。
陽香へのイジメがどれほど過酷だったかは、想像に難くない。無邪気と大人の同居する、中学生たちのイジメは、悪意と害意がおぼろげで、ある意味で大人のイジメよりもひどいものである。長い時間をかけて、傷つきやすい陽香の心を切り刻んでいったに違いない。
そうして、陽香が自室で冷たくなっているのを見つけたのは、俺たちが喧嘩した次の日だった。
両親が陽香の亡骸を前に泣き喚くなか、俺は必死に涙をこらえながら、後悔の念に満たされた。陽香によって貫かれた心の穴は、後悔と同義語であり、もう二度と塞がらないだろうと思った。
せめて、兄として妹の折れかけた心を支えてやることができたなら、喧嘩なんかせずに真剣に、冷静に陽香を心配してやれたら、この結果は訪れなかったかもしれない。
大川の指摘の通り、それからの八年間、俺はその後悔を引きずっることとなった。高校時代、いわゆる恋人だった大川と別れたのも、高校卒業と同時に自然消滅したと言えなくもないが、卒業前から俺は後悔の念に、心ここにあらずで、人知れず大川を傷つけていたのだろう。だから大川の心は少しずつ俺から離れていき、関係は自然消滅する運命にあったに違いない。
どれも「かもしれない」という曖昧なことだが、宮野の三年間と同じように、俺も罪の意識に苛まれ続けたことだけは事実だ。そして、宮野と違うのは、そこから一度も脱しようとしなかったことだ。ただ、流れに身を任せるように、教師となり、まるで消化試合のように教鞭をとるだけ。真っ暗で無味乾燥した人生を、だらだらと送っていくだけだった。
だが、宮野と出会ってからの数か月の間、無味乾燥した人生に、少しだけ優しい風が通り過ぎ、目の前の景色に暖かい色が付いた。初めは、仕方なく始めた園芸部の活動も、宮野と過ごした時間も、喧嘩したことも、宮野を勇気付けるためにデートに連れ出したことも、そして、宮野が三年間の贖罪を果たしたことも、夢中で花を育てる宮野の横顔に、心を寄せるようになったことも、八年の後悔を埋めてくれるには十分だった。
その結果、責任を取ってこの街を去るのなら、自分の決めたことに後悔はしない。宮野の未来のために、去るのだ。男として、これほどかっこいい去り方はないだろう、なんて思ってしまう。だから、宮野にはなにも言わずに、この街を去ることに決めた。
ただひとつだけ、未練があるとすれば、せめてもう一度だけ、宮野の笑顔を見たい。そうすけば再び無味乾燥した人生を送っていくことも、つらくはない。
そんなことを思いながら、去りゆく街の、薄曇りの空を見上げた。ちらほらと、雲の間から白いものが舞い降りてくる。
「この車、スタッドレスじゃないんでしょ? だったら雪が積もっちゃう前に行きましょうよ」
車の助手席から顔を出したのは、大学時代の後輩。引越しにあたって、手伝いを頼んだ。名前をポチという。もちろん、本名ではない。見た目が犬っぽいので、そう呼んでいる。
「ああ、悪い悪い」
俺はポチに返しながら、運転席の扉を開けた。荷物を積んだ業者のトラックは、すでに目的地へ出発している。いい加減、俺たちも出発しなければならないのに、どうしても気になって、住み慣れたアパートの前を走る道路を振り返った。その道の先にあるのは、俺が教師を務めた高校だ。
待ち人来たらず……。
宮野には、何も伝えていないのだから、来なくて当然だった。後で俺が転任したことを知れば、宮野はどんな顔をするだろう。自惚れかもしれないが、もしかすると、泣き出してしまうかもしれない。少なくとも、宮野のそんな顔をこの目で見たくはなかった。だから、宮野には何も伝えなかったのだ。
俺がこの街を後にするのは、宮野の所為ではない。俺自身の、教師としてのけじめだ。宮野のことを想う、俺の気持ちに嘘がない以上、事が大きくなって、火の粉が降りかかるのは、受験を控える宮野のリスクの方が高い。それに、宮野に何もかも押し付けてしまうのは、大人のすることじゃない。
「先輩! 寒いっス。車に乗らないなら、ドア閉めてくださいよう!」
寒がりのポチがガタガタと震えながら文句を垂れる。
「いや、もういい。俺たちも出発しよう」
後ろ髪ひかれる思いを振り切るように言うと、俺は最後にもう一度だけ、雪がちらついて霞んだ道の先を見返した。
「先生、待って。待ってください!」
遠く響いてくるかすかな声。ペダルを漕ぐ音に合わせて、白い息を切らせて、誰かがこちらに向かってくる。ぼやけたシルエットがはっきりとしてくる前に、俺は反射的に、車に乗り込むのをやめた。
「先輩、どうしたんですか? もしかして、待ち人来たるですか」
「ポチ、黙って大人しくしてろ」
わざわざ引越しの手伝いに来てくれた、奇特な後輩に、つっけんどんに返す。心の中で「すまない」と思いつつも、ポチにかまっている暇がなかった。
「宮野!」
俺が手を振って、彼女の名前を呼ぶと、自転車に跨る宮野は一気にこちらへと走りこんできた。急ブレーキのキキっという、甲高い音。手袋もマフラーも身に着けていない彼女は、鼻の頭と頬を真っ赤にしていた。
「授業はどうした? 受験生だからって、十二月まではきちんと授業があるんだ。サボっていいわけないだろう?」
本当は、宮野が来てくれたことを、内心嬉しく思っているにもかかわらず、俺は思わず苦言を口にしていた。宮野は、俺の苦言には一切応えず、すごい剣幕で、いきなりまくしたてた。
「どうして、わたしに何も教えてくれなかったんですか? せめて、転任することだけでも、教えてくれても、いいじゃないですか。わたし、何も知らないまま、先生とお別れなんて嫌です。どうしてですか、どうして教えてくれなかったんですか?」
「それは……」
宮野の勢いに圧されて、思わず口ごもってしまう。「それは、お前の涙が見たくなかったからさ」なんて、気障な科白を吐くような柄でもない。すると、宮野は両肩を落として、しょんぼりとした表情になった。それと分かるように。
「わたしは、先生にとって妹みたいな存在なんですか?」
宮野の視線が足元落ちた。陽香のことを大川から聞いたのだということは、おおよそ察しがついた。そのうえで、俺が妹と宮野を重ねているのではないか、と尋ねてきたのだ。
「そうだな。初めて、中庭の花壇で逢った時に、お前と陽香はどこか似ている気がした。だから、声をかけたのかもしれない」
俺がそう言うと、宮野は鼻をすすった。まるで、零れ落ちそうになる涙をこらえるように。
「でもな、宮野は宮野だと思う。お前が倒れた時、俺が叱ったのは、陽香じゃなくて宮野だ。一緒に花を育てたのも宮野だ。妹じゃない」
「だったら、なんで、わたしなんかのために、学校辞めちゃうんですか?」
「俺は教師で、お前は生徒。お互いが特別な存になる前に、俺が身を引くのが一番だと思った。そうしなきゃ、俺は大切な人を守れないんだ」
「大切な人?」
顔を上げた宮野に、俺は言った。
「宮野。たぶん、俺はお前のことが好きだ。だから、お前が泣くところを、もう二度と見たくなかったんだ。ごめんな、何も言わなくて……」
言うなら今しかないと思った。もちろん、宮野が俺のことをどんな風に思っていのか、はっきりと分かっているわけではない。それでも、好意を持ってくれているとしたら、先にそれを伝えなきゃいけないのは、俺の方だと思った。
しばしの沈黙。振り始めた雪が、しんしんと俺たちの肩に降り積もっていく。街全体が、冬の静けさに包まれる中、俺は宮野の返事を待った。
やがて、おもむろに宮野は口を開いた。
「わたし、雑草まみれでだれにも相手にされていなくて、中庭の隅でひっそりとしてる花壇を見たとき、自分と重ね合わせました。本当は、衣里果と仲直りするのに、エリカの花なんて必要ない。必要なのは、言葉だけだってこと、分かっていました。わたしが園芸部を始めた本当の理由は、もしも花壇をよみがえらせることができたら、自分も同じように変われるんじゃないかって思ったんです。でも、荒らされた花壇を見て、結局人間は変われないんだって、落ち込んだ時、先生はわたしのことを勇気付けて、背中を押してくれました。そのこと、わたしはいつまでも忘れません」
「宮野……」
「先生。わたしっ、先生のことが好きです!」
寒さからではない、明らかに緊張して頬を染めた宮野が、あたりに聞こえるのもはばからずに、大きな声で言った。
「わたしと先生が、生徒と教師じゃなかったら、知り合うこともなかったかもしれないし、一緒に園芸部をすることもありませんでした。だから、わたしは、先生と生徒でよかったと思います」
「そうだな。そうかもしれないな」
そういう考え方もあるのだと、知らされた。気付いていなかったわけではないが、その事実を認めたから、俺はこの街を去るのだ。遠い場所にある、別の学校へ赴任するために。でも、その前に、宮野に伝えておかなければならない。女の子に言わせておいて、男の俺が、何も返さないのは、ポチをないがしろにしているより、もっと失礼なことだと思う。
「俺も、宮野のことが好きだ」
もう一度、確かめるように、噛みしめるように俺が言うと、宮野はより一層顔を真っ赤にして微笑んだ。それは、俺が一番見たかった笑顔かもしれない。
宮野は何を思ったか、スカートのポケットを探り、一枚の小さな栞を取り出した。いや、栞というには、随分と不恰好だが、そこには宮野がこだわり続けた、エリカの花が閉じ込められていた。
「約束の証として、これを預かっていて下さい。その栞は弟が作ったものなんです。でも、今度はわたしが作ります。透には悪いけど、もっと素敵な栞を作ります。受験もがんばります。一生懸命、前を向いて生きていきます。そして……」
春になったら、会いに行きます。
「さよならなんて言いません。たとえどんなに離れていても、絶対会いに行きます。だから、わたしのことを、待っていてくれますか?」
首をかしげながら、それでも満面のほほえみを見せる宮野が、とても愛おしかった。そんな質問しなくても、俺の答えは分かっているはずだ。
本当は、会いに行くべきなのは、俺の方かもしれない。それでも、宮野の想いを受け止めるということは、俺が彼女を待つということ。だから、今一瞬だけでも、一番愛しい人の一番近くにいたい。アパートの前に止めた車中ではポチが、こちらを見ているかもしれない。でも、そんなの構うものか。
「待ってるよ……」
宮野の手をつかみ、半ば強引に引き寄せた。
きっと、俺は不恰好な栞を手に、春が来るのを待ち遠しく思うことだろう。だが、その時間が、必ず俺の心に空いた穴を埋めてくれることを、抱きしめる彼女の年の割に小さな体に宿る、暖かさを感じながら確信した。
(おしまい)