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28. 心の穴

 衣里果と仲直りできたことは、桜井先生の後押しがあってくれたからです。あの日、デートに連れ出してくれなければ、わたしは透に花壇を荒らされたことを、いつまでもくよくよ悔やんで、とうとう衣里果と仲直りできなかったかもしれません。あの時、泣き出したわたしを、そっと抱きしめてくれた先生の優しさや温かさ。そういったものが、わたしを勇気付けてくれたのです。

 だから、真っ先に感謝の言葉を伝えるため、わたしは月曜日、理科準備室に走りました。「ごめんなさい」よりも、「ありがとう」はもっと簡単な言葉です。それを伝えるために。

 先生は、わたしの話を自分のことのように喜んでくれました。だけど、先生の笑顔の裏に、小さな寂しさのようなものを感じたわたしは「何かあったのですか?」と問いかけたのですが、先生は何も答えてはくれませんでした。

 そのことは、小さなささくれとなって、わたしの心にちくりと突き刺さりました。

 先生は、笑っていても、時々影を帯びることがあります。それは、今に始まったことではありません。気にしないふりをしていましたが、先生に妹さんのことを尋ねた時も、同じようにさびしそうな目をわたしに見せました。だけど、その時の寂しさとは明らかに違います。その寂しさのベクトルはわたしに向いているような気がしたのです。

 でも、わたしは魔法使いでも超能力者でもなければ、人の心の中を覗くことはできません。

 結局、寂しさの理由はわからず、ささくれを抱えたまま、季節は冬になりました。園芸部の活動は唯一の部員であるわたしの引退で終わりをつげ、中庭の花壇は、元の更地に戻されました。雑草にまみれていないだけ、以前よりはマシに見えるのは、わたしが一つの問題を乗り越えることができたからでしょうか。

 わたしにとって、花壇はわたしそのものを映す鏡だったのかもしれません。

 来年、もしも園芸部に参加してくれる後輩がいたなら、花壇はわたしの手を離れて、新しい芽吹きを迎えることでしょう。そう願いつつ、わたしには、迫りくる受験という戦いに挑まなくてはなりません。

 そんな、十二月の初め。

 例年を上回る大寒波が接近しているという天気予報のニュースよりも、わたしを驚かせ困惑させるニュースが飛び込んできました。それを伝えてくれたのは、もちろん小鳥さんでした。

「桜井先生が、学校やめるって。美咲、何か聞いてないの?」

 もちろん、何も聞いていませんが、ピンと来るものはありました。お昼休みのチャイムが鳴ると同時に、わたしはあわてて理科準備室へ駆け込みましたが、すでに、先生の姿はそこにありませんでした。

「保健の大川先生なら何か知ってるかも」

 一緒についてきてくれた小鳥さんが、妙案を教えてくれました。桜井先生と大川先生が高校時代の同級生で、その頃とても親しい関係だったことは、わたしも小鳥さんも知っていることです。

 本当は、少しだけ大川先生に嫉妬しかけたことがあります。お互い目を交わすだけで、意思を通わせられる二人の関係は、言ってみれば、親友以上の関係です。でも、二人はとても大人で、過去のことは過去のことと、割り切っています。二人は親友以上でも、恋人以上にはならない、そういう関係なのです。

 だから、悔しいけれど、一番桜井先生のことを知っていて、わかっているのは大川先生を置いてほかにいません。

「桜井くん、とうとうあなたに何も言わなかったのね……」

 いつも通り、保健室のデスクでコーヒーを啜っていた大川先生は、わたしの問いかけにそう答えると、桜井先生が転任することを教えてくださいました。

 理由は聞くまでもありません。桜井先生が、落ち込むわたしを元気づけようと、デートに連れ出してくれたことが、問題になりかけたに違いありません。

『わたしの所為で、先生が全部背負い込もうとしている』

 直感的にそう思いました。きっと、先生は自分がこの学校をやめて、転任することで、問題を解決しようとしているのでしょう。それも、先生の優しさなのかもしれません。わたしは生徒で、先生は教師です。

 先生の特別になりたい、なんて思ってはいけないことです。だけど、わたしはまだ、その気持ちを先生に伝えてすらいません。それなのに、先生はなにも告げずに、たった一人でこの学校から去ろうとしているのは、すべて、わたしを守るため。そう思うと悔しくて悲しくて、涙が零れ落ちそうになりました。

「不器用だから、桜井くんは。受験を控えるあなたに……ううん、特別なあなたに不必要な気遣いをさせたくないって思ったんでしょうね。桜井くんって、昔から、そういう不器用なヤツだからね」

 大川先生はため息交じりにそう言いながら、わたしと小鳥さんにも自慢のコーヒーを勧めてくださいました。それを飲むと、泣き出しそうな心が、少しだけ落ち着きを取り戻しました。

「大川先生は、桜井先生のことよくご存じなんですね」

 コーヒーをすすりながら、小鳥さんが言いました。

「まあね……モトカレだし」

 わたしは、先生のこと何も知らない。結局、わたしと先生はただの先生と生徒に過ぎなかったのだ、ということを「モトカレ」という単語に裏打ちされたような気がしました。すると、先生はわたしの心の内側を読みとったかのように、

「知らなければ、知ればいいのよ。何でも聞いてちょうだい。桜井くんの高校時代のことなら、失敗談でも何でも教えてあげるわよ」

 と、言ってにっこりとしました。

 何でも、と言われても、少しばかり困ってしまいます。ですが、ふと頭の隅によぎったのは、あの先生に貰った、麦わら帽子のことでした。

「じゃあ、一つだけ教えてください、大川先生。先生は、桜井先生の妹さんのこと、ご存じですか?」

 ぶしつけな質問とわかっていながら、わたしが問いかけると、先生は驚いた顔をして、しばらく天井を見上げると、遠い過去の記憶を探るような目で語りました。

「宮野さんの想いが本当なら、そのことは一番知っておくべきことなのかもしれないわね……」

 なぜか大川先生は、意味深な顔つきで呟くと、わたしのことを見つめてきます。

「桜井くんの妹、陽香ちゃんっていうのだけど、もしも彼女が、生きてたら、今頃は大学を卒業するころじゃないかしら」

「生きてたらって、まさか!?」

 耳ざとく聞き分けた小鳥さんが、飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになるほど驚きの声をあげました。もちろん、わたしも驚いていました。

 夏休み前、先生がくれた麦わら帽子。すでに季節外れのその帽子を、宝物のようにして部屋のハンガーにかけて、わたしの生活空間の一部になった、そのもともとの持ち主が、もうこの世にいないなんて、誰が想像できるでしょう。

「陽香ちゃんはね……」

 神妙な空気に包まれた保健室に響く先生の言葉は、ひどく重苦しい悲しみに彩られていて、淀みない水面に、ぽたりぽたりと墨汁を垂らしたように、わたしの心を真っ黒に染め上げていきました。

 今から八年前の出来事。わたしが抱えた三年前とは比べ物にならないほど、悲しい結末。それらが、大川先生の口から語られていきます。

『宮野も、その子も生きているんだから』

 衣里香に会うため、勇気付けてくれた時の先生の言葉の裏に秘められた、先生の心の穴の正体。わたしの心に空いた穴は、先生のおかげで埋めることができたのに、先生はまだぽっかりと空いた穴を胸の奥に抱えたまま、わたしのために、この学校から、この街から去っていこうとしています。

 それに気づいたにもかかわらず、わたしは真っ青な顔して、身動き一つできませんでした。

「宮野さんが、桜井くんのことをどんな風に思っているのかは、わかっているつもりよ。これでも、保健の先生だもの。でも、あなたの想いが本当なら、あなたは桜井くんがそうしてくれたように、彼の心の穴を埋めてあげなくちゃならない」

 過去の出来事を語り終えた大川先生は、静かな語り口調のまま、わたしに言いました。

「どうすればいいんですか……? わたしに出来ることなら」

「さあ、どうすればいいかは、自分で考えなさい。わたしや、小鳥遊さんは助言しかできない。冷たい言い方かもしれないけれど、あなたに明確な答えを授けてあげることは、できないのよ」

 大川先生の言葉に、わたしは項垂れました。どうしたらいいのか、まったく分かりません。先生の抱える、深くて大きい心の穴を、わたしなんかに埋められるはずがありません。だけど、このまま青い顔をして項垂れていていいはずがありません。

 わたしは、罪を背負い続けた三年間とようやく別れを告げ、変わるための一歩を踏み出しました。このまま、落ち込んでいるのは、先生が押し出してくれたその一歩を無駄にするということです。

「そろそろ、引越しのトラック、出発する時刻ね……」

 部屋の壁に掛けられた時計を見れば、もうすぐ午後の授業が始まる時刻を指示しています。

「悩んでいる暇なんてないわよ」

 保健室からの去り際、ドアをくぐるわたしの背中に、大川先生は言いました。それでも、どうしたらいいのかわかりません。わたしは、小鳥さんと一緒にとぼとぼと、教室へ向かう階段を上るしかありませんでした。

 ところが、教室のドアが見えてくる直前、小鳥さんがいきなりわたしの手を強く引っ張りました。

「美咲。大川先生の言うとおりだよ。授業なんか出てる場合じゃない! どうせ、出席なんかしたって、もう受験には響かないんだから」

「でも……っ」

「でも、じゃないっ。美咲は、桜井先生のこと好きなんでしょ? だったら、ウジウジ悩んでたって仕方ない。もう二度と会えなくなる前に、ちゃんと好きだってこと、伝えなきゃ!」

 できない。できるわけがありません。だって、わたしは生徒で、桜井先生は教師です。

 最初は、先生のことなんて意識していませんでした。エリカの花を植えるためだけに、先生を利用しようとしていたのです。だけど、二人きりで放課後に花壇を耕して、種を植えて、水撒きして、わたしがわがままを言って喧嘩して、でもすぐに仲直りして……そういう、楽しくて騒がしい日々を経て、少しずつ優しい先生のことが好きになっていきました。

 だけど、それを世の中では「許されざる恋」というのです。今の先生に、わたしの「特別になりたい」という想いを伝えたところで、それは迷惑以外の何ものでもないのです。

 わたしが、返答を渋っていると、小鳥さんは何故だか笑顔になります。

「あのさ、先生と生徒っていうのを気にしてるんだったら、問題はすぐに解決すると思うよ。だって、わたしたち、受験生じゃん。来年になれば大学生。そうしたら、先生と生徒じゃなくなるよ。あとは、美咲が、どうしたいかだけだよ」

 ちらりと口元から、八重歯をのぞかせながら小鳥さんが言いました。わたしの人生で第二の親友は、あっさりと問題を一つだけ解決してくれました。ですが、問題はそれだけじゃないんです。大川先生が言った通り、わたしが桜井先生のことを好きだと思うなら、先生が抱えた八年間の苦しみを、わたしが解かなければなりません。そのための言葉をわたしは持ち合わせていないのか、それとも、三年間の間に忘れてしまったのかは定かではありませんが、とにかく、どんな顔をすればいいのかさえ分からないのです。

「ねえ、美咲!」

 小鳥さんはやたらとわたしを急かします。先生が、転任先へ引越ししてしまうまで、もう時間は残されていません。

「あれ、二人とも、教室の前で何してんの?」

 押し問答をするわたしたちの背後から声が飛んできて、わたしと小鳥さんは咄嗟に振り向きました。教室の前の廊下で、腕を引っ張り合う光景は、教室のクラスメイト達から見れば疑問符を浮かべたくなるほど滑稽なものだったに違いありません。しかし、通りがかったのはクラスメイトではなく、わたしの弟、透でした。

 これはいいところに来た! とばかりに小鳥さんがわたしの腕を離して、透に事情をかいつまんで話します。もちろん、透にもわたしの桜井先生への気持ちは、告げていません。それどころか、花壇荒らしの一件以来、お互いにぎくしゃくしたままでした。

「姉ちゃんホントなの? 桜井先生のこと……」

 わたしは、こくりと頷くほかありません。透は、きっと薄々感づいていたはずです。今さら嘘を吐くには、手遅れでした。

「そっか」

 透は小さくつぶやくと、何を思ったのかズボンのポケットから何やら取り出しました。小さな短冊状の紙切れです。よく見ると、絵柄のように思われたそれは、エリカの花の押し花でした。

「あのね、姉ちゃん。この前はごめん。花壇をめちゃくちゃにしちゃったことも、ごめん。あれから、いろいろ考えたんだ。それでね、やっぱり姉ちゃんは姉ちゃんらしくしてるのがいいと思ったんだ。もしも、昔の姉ちゃんなら、好きな人が遠くへ行っちゃうのに、黙ってウジウジしてなかったと思うよ」

「でも、わたしどうしたらいいのか分からなくって」

「分かんなくても突っ走るのが、ぼくの姉ちゃんだった。だから、いつも喧嘩して、ぼくが負けてたんだけどね」

 へへっと、恥ずかしそうに笑った透はわたしの左手を取ると、押し花の栞を手渡してくれました。

「姉ちゃんのマネしてみたんだ。花屋で買ったものだけど、これ持って、先生の所に行って。ちゃんと、好きですって伝えなきゃダメだよ。こんなコトで、迷ってる姉ちゃんは、やっぱり、ぼくの好きな姉ちゃんじゃないよ」

「よく言った、弟くん! 美咲、先生のことが本気で好きなら、今すぐ先生の所に飛んでいきな!」

 小鳥さんが脇からそういうと、わたしの右手を取り上げて、手のひらに鍵を乗せます。それは、小鳥さんの通学自転車の鍵でした。

「届くかな。わたしの想い。届いたら、先生の心の穴を埋めること、できるかな?」

 わたしは、鍵と栞を握りしめて、二人に尋ねました。すると、二人は、お互いに顔を見合わせると、わたしに力強く頷きます。それだけで、胸の内側が暖かく満たされていくようでした。

「行ってくる。わたし、先生のところへ行ってくるね。それで、気持ちを伝える。わたし、頑張るね」

 親友と弟に見送られ、わたしは踵を返すと、授業開始の予鈴が鳴り響く中、昇降口へと走り出しました。

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