26. 再会
携帯電話の受話器から聞こえるコール音とともに、わたしの心臓は破裂しそうなくらい、早鐘を打っていました。まだ、わたしと衣里果が笑い合っていられたころ登録した電話番号。もう使われていないかもしれない、そんな風に、この期に及んでも逃げ道を探そうとする心を押しとどめ、わたしは衣里果に電話を掛けました。
わたしの住む西市と衣里果の住む北市は、名前こそよく似ていますが、ずいぶんと離れています。どちらも郊外型のベッドタウンと、繁華街を備えた街並みで、日本の街なんて、どこも大して変わらないという印象を受けてしまいます。もっとも、街を遊覧するために来たわけではありません。その目的を見失わないうちに、わたしは衣里果に合うことにしました。
電話口に現れた衣里果の声は、三年前の彼女とはまるで別人の、とても透き通った青空を思わせるような声に、わたしの緊張はピークに達してしまい、次の言葉がうまく話せたかどうかも思い出せません。本当は、明るく切り出そうと思っていました。それなのに、わたしの声が必要以上に上ずっていたことだけは確かです。
「久しぶり」そんな言葉さえ、うまく話せないまま、わたしは衣里果に手近な場所まで来てくれるように、お願いしました。電話の向こうにいる、衣里果がどんな顔をしているのかよくわかりません。もしかすると、とても怖い顔をしていて「いやだ、電話なんかかけてこないで」と拒否されるんじゃないかと、不安が心に空いた穴の中を、ぐるぐると駆け巡ろうとしたその時、衣里果が電話の向こうで頷くような息遣いが聞こえてきました。
衣里果に指定された場所は、北市の駅からほど近い場所にある、小さな公園でした。児童公園として造られたにもかかわらず、ビルの谷に挟まれて、子どもの遊ぶ声なんて、聞こえてきません。そんなひどく閑散とした公園で、ブランコをベンチ代わりに座って、衣里果を待ちました。
すると、十分もしないうちに、パタパタと足音が公園に駆け込んできました。背中を向けたわたしが、衣里果だと察するまでもありません。向こうから、わたしの名前を呼んだのです。
「宮野さん……」
わたしは、怖くて振り返ることも、彼女の名前を呼ぶことも出来ませんでした。衣里果はわたしの背後で息を整えると、ゆっくりと空いた方のブランコに腰を下ろしました。横目に見る衣里果は、一瞬見知らぬ人のように見えました。
わたしの知っている衣里果は、どこか自信がなさげで、いつも無口で、弱弱しい女の子でした。ところが、今わたしの隣にいる衣里果は、垢抜けたというか、文学少女の雰囲気さえ漂わせていません。長かった髪をバッサリと切り、明るい色のパーカーとジーンズのラフな格好。でも、ちょっとだけ薄化粧しているのが分かります。
むしろ、どこか自信なさげで、いつも無口で、弱弱しいのは、誰の目か見ても、わたしの方でした。まるで、わたしと衣里果がそっくりそのまま入れ替わったみたいです。
そんなお互いの姿を確かめながら、なぜかわたしたちはぎこちないまま、一言も言葉を発することができませんでした。衣里果にとっては、わたしは裏切り者です。「親友だ」と口にしながら、衣里果が一番困っているときに、わたしは自分の身を心配して、彼女をイジメから守ることも、元気づけたり勇気付けたりすることもありませんでした。
だったら、せめて、その時のことを責めてほしい……。「あんたなんか、大嫌い!」と罵ってほしい。
あの日の罪を許してもらうために、わたしはたったひとかけらの勇気を、桜井先生に押してもらってここまで来たんだから、もしも衣里果の気が済むなら、言葉汚くても、なじってくれた方が、わたしの気も楽になります。ところが、衣里果は気まずそうな顔しかしません。何も言葉にすることはなく、ただ、耳が痛くなるくらい静かな時間だけが、だらだらと流れていきます。
そのことが、とても悲しく思えてきて、わたしは胸が苦しくなりました。不安がより一層激しく、心の穴の中を駆け巡ります。
「えっ、ちょっと、宮野さん。なんで泣いてるの!?」
突然、衣里果が驚きの声をあげました。ふと気が付けば、わたしの頬をぽろぽろと涙が伝い落ちていくではありませんか。泣くのは、これで最後……そう先生と約束したのに、その舌の根も乾かないうちに、わたしは泣き出していました。
「ごめんなさいっ。本当にごめんなさい」
わぁっと、こぼれだした泣き声とともに、わたしは何度も何度も、六文字の言葉を告げました。衣里果は少しだけ戸惑った様子で、わたしの背中をさすりながら、「もういいよ」と言ってくれます。それなのに、わたしが泣き止んだのは、それから一時間もたった後でした。
「宮野さんって、そんなに泣き虫だったっけ?」
衣里果はわたしにハンカチを差し出しながら、思い出の中にある過去のわたしと重ね合わせるように言いました。驚かない方が不思議かもしれません。あの頃と、百八十度変わってしまったことは、自分が一番よく分かっています。
笑わない、泣き虫、自分に自信のなさそうな弱弱しい姿。どうしてわたしが、そうなってしまったのか。それはわざわざ告げるまでもなく、衣里果にもわかることでした。だけど、衣里果はあえて、そのことに触れようとはしませんでした。
「眼鏡やめたんだね」
衣里果は、両手の人差し指と親指で丸をつくって、目にあてがいます。わたしがコクリと頷くと、衣里果は「その方が似合ってる」と、ほのかに笑いました。
「あたしもね、変わった。本の虫は卒業したの。高校に入ってから、友達もたくさんできたよ。笑うことも多くなった。宮野さんは?」
「わたしは……」
言葉に詰まります。衣里果とは正反対の道をひた走った結果、高校生という大切な時間を無駄遣いし続けています。でも、それはわたしの罪の償い方でした。親友面して、衣里果を最期一歩手前まで追い込んだ罪人としての。
「怒らないの? わたし、衣里……菅野さんのこと」
「衣里果って呼んでよ。宮野さんって、遠慮するような子じゃなかったじゃん」
わたしの言葉にかぶせるように、衣里果が眉をひそめます。
「ホントはね、宮野さんが電話してきたとき、ぶん殴ってやろうって思った。でもね、宮野さんの後ろ姿が見えたら突然、傷痕がチクチクし始めたの」
そう言って、衣里果は袖を少しばかりめくりました。白く透き通った色の手首に刻まれた痕は、衣里果が自殺を試みた時についたものです。それが、三年たった今も生々しくそこにあって、一生消えないものかもしれない、と思うと、わたしの胸は張り裂けそうになりました。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「もういいって。もう、ぶん殴ろうなんて思ってないから」
困ったように、衣里果が苦笑いします。
「あの時は腹が立った。なんであたしのこと見捨てたんだろうって、考えるだけで悲しかった。でも、別にあたしは宮野さんにいじめられたわけじゃない。だから、許すとか、許さないとか、そういうことじゃなくて、あたしは、感謝してるんだよ。あのことがなければ、あたしは変われなかった。今も、あのころのままだったかもしれない。一歩を踏み出せたのは、宮野さんがいてくれたからだよ」
「わたし?」
「そう。高校に入って、周りは知らない人だらけ。宮野さんだったら、どうする。どうやったら、みんなと仲良くできるのかなって考えたの。そうしたら、全部うまくいった」
「それでも、わたしは感謝される資格なんてない。もしもあの時、衣里果が死んでいたら、わたしは人殺しと変わらなった。親友を裏切った、ただの殺人者」
「乱暴だなあ。あたしね、そういうの好きじゃない」
溜息を洩らした衣里果は、何を思ったのか、不意にわたしの両手を取りました。
「あたしは生きてる。だから、宮野さんは人殺しじゃないよ。それに、ずっとこの三年、引きずってきたんでしょ? もう十分だよ。宮野さんの肩にあるもの、全部おろしてよ。そうじゃなきゃ、あたしは宮野さんと親友に戻れない」
意外な言葉に、わたしはきょとんとしてしまいます。衣里果が、こんなわたしのことを、まだ親友と呼んでくれるのは、ほとんど衝撃でした。
「あのっ、わたし、まだ衣里果と友達でいられるの?」
「あたりまえだよ。だって、あたしの初めての親友は、美咲だけだから。あたしは、もう一度美咲と笑いあいたいって思ってるよ」
親友を信じられないのか? 桜井先生が言った言葉が、わたしの心によみがえりました。許してくれる、先生の言った通り、思い過ごしだったとさえ思うほど、衣里果は何の迷いもなく、わたしのことを許してくれました。時間が、わたしと衣里果の溝を埋めてくれたのかもしれません。それとも、わたしの償いが終わったということなのでしょうか。
どちらでもいいのです。もう一度笑いあいたい、その言葉だけで、わたしは心に空いた穴が、ふさがっていくのを感じました。
「衣里果……」
わたしは親友の名を呟きながら、自分の意志で、心からの笑顔を見せました。三年前に青春や友情やそうう形のないものと一緒に置き去りにして、忘れ去ってしまった笑い方。それが、自然と心の中に、よみがえってきたのです。
エリカの花が芽吹いたときに感じた嬉しさ、衣里果を再び親友と呼べることへの嬉しさ。たったそれだけのことで、笑顔なんて簡単に溢れ出してきます。
それは、わたしの心に空いた穴がふさがった証拠なのかもしれない、とわたしはふと思いました。
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