25. 教頭室のあるじ
今頃、宮野は親友のもとへと向かっているころだろうか。秋の名残から、冬に変わる、季節の境目をあらわすような、薄い空を窓越しに見上げながら、俺はリノリウムの廊下を歩く。
土曜日の学校は静かだった。おおよそ、大会と呼べるものはすべて終了し、文化部も運動部も、受験の控える三年生は引退した後だ。雪の降る季節になれば、残された後輩たちが次の目標に向かって、再び活気づいてくるだろうが、今はちょうど季節の境目にあたる。もちろん、園芸部も例外ではない。部員は一人しかいないため、二度と活気づくことはないが、本当なら、今頃最初で最後の開花を、宮野と二人で喜び合っていただろう。このまま園芸部として何も形を残すことなく、三年生である宮野も卒業してしまうのか、と思うと少しばかり、さびしい気もする。
それでも、宮野は自分で前へ進むことを決意した。花壇が荒らされなければ、彼女はまだ立ち止まっていたかもしれない。よかったのか、悪かったのか、一概に言うことはできないだろう。少なくとも、どのような結果であっても、宮野が過去と決別する意思を固めたことは、俺にとっても嬉しいことだった。
だが、嬉しいことは、そう何度も続いたりしない。そういう風に世界はできているのだから。
「桜井です。失礼します」
教頭室と書かれた札のかかる部屋の扉をノックする。すると、間髪入れずに、ややくぐもった声で「入りなさい」と帰ってきた。その声に、俺はやや不安を感じてしまう。
教頭室は、小さな事務机と資料の詰まった棚があるだけの、如何にも殺風景な部屋だ。もっとも、それはこの部屋の主の趣味である。部屋の主……教頭は、痩せぎす、神経質、すだれ禿頭の、絵にかいたような人物であり、同時に誰もが想像難くないように、教育者の鏡であるかのごとく、事なかれ主義の権化でもある。責任ある立場の人間だから、仕方ないのだとしても、俺はあまり教頭という人間が得意ではなかった。
そういう人間に呼び出されたのだ。教師だというのに、つい、まるで悪さを咎められた生徒のような気分になってしまったのだ。
「中庭は、どうなりましたか?」
教頭は、デスクに向かって、何やら書き仕事をしながら、俺に尋ねた。意外にも穏当なしゃべり方に、拍子抜けしてしまう。
「片づけはあらかた済ませました。宮野も、受験が控えていますし、今さら新たに花を植えることも難しいですから、更地に戻すつもりです」
「苦労が水の泡……。そういう顔をしていますね、桜井先生」
「まあ、そりゃあそうでしょう。でも、六月から、一生懸命花を育ててきたのは、宮野です。あの子が納得しているなら、顧問として口をはさむべきことは、何もありません。あとは、宮野が無事に受験を突破して、笑顔で卒業していくのを、望むばかりです」
「ほほう、ずいぶんと模範的な解答ですね」
何やら、言葉の端々に不穏当が顔を見せ始める。俺は一瞬眉をひそめたが、教頭は相変わらず、書き物を続けていた。
「生徒たちが無事に卒業していってくれること。よく言えば、我々教師が最大にして最高の責務を果たし終えたという証でしょう」
「悪く言えば……?」
恐る恐る問いかけてみる。
「悪く言えば、肩の荷が降りるというものです。我が校は進学校でもなければ、有名私学でもない。どこにでも存在しているといえば語弊があるかもしれませんが、ごく普通の公立高校です。まじめで優秀な生徒がいる反面、目に余る落ちこぼれもいる」
「この学校には、それほど落ちこぼれはいないはずですが。受験偏差値も、それなりのレベルです」
盾突くわけではないが、意見を言上すると、教頭はようやく書き物の手を休めて、顔を上げた。まるで能面のような無表情さは、これから彼が言うであろう言葉の重みをなぞらえていたのかもしれない。
「だから、問題なのです。高校とは、『高等学校義務教育化法制』の施行以降、義務教育の最末端にあるものです。その義務とは、教育を受けさせるべき立場にある親御さんに発生するものですが、同時に、我々教育人はその義務を果たすための、最大限のサポートをするべき立場にあります」
ウンチクを思わせるような、教頭の口ぶり。そういうご高説なら、朝礼で校長の長話を聞かされる生徒と同じように、教師も煙たがるものだ。そんなことを聞かせるために、教頭はわざわざ俺を読んだというのか。こぼれそうな溜息を飲み込みつつ、俺は仕方なく教頭の言葉に耳を傾けた。
「我々は、生徒たちが無事立派な社会人となるよう、指導をしていかなければなりません。その意味で、地域清掃という地元貢献をはじめとして、成績、生活態度、あらゆる側面で、最高とは言えないまでも、我が校はそれなりの実績と信頼を得ていると思っています」
教頭はそこで一拍おく。話を切り替える時の、教頭特有の癖だ。
「宮野美咲という生徒について、担任の先生から、とても大人しいが真面目で勉強熱心な生徒だ、と伺っています」
「はあ、それが何か?」
何故いきなり、宮野の話が出てくるのか、意に介さない。そもそも、部屋に入った途端に、中庭のことを尋ねられたことにも、まだ合点がいっていなかった。
「桜井先生、あなたのことは、それなりに評価しています。屋上で喫煙したりと、少しばかり素行に問題がありますが、生徒たちからの信頼がある。それは、先生が生徒たちのことをよく観ているということです。これは、なかなかに難しいことで、教育者という立場から言えば、それは理想とも言える」
「なんですか、いきなり。回りくどいい方をしないでください」
「おや、これは失敬。ついつい、回りくどくなるのは、私の悪い癖です。では、単刀直入に言わせていただきます」
再び、教頭は一拍おいた。
「あなたと、宮野美咲はどのようなご関係なのですかな?」
質問とは違う、ある意味叱責するような声音が、教頭室に響き渡った。おそらく、教頭は俺の顔が青ざめるのを見逃さなかっただろう。
なんと答えたものか。間違っても、宮野に対して、世間に顔向けできないような、やましいことをした覚えはない。だからと言って、俺が宮野に少なからず心惹かれているのは事実だ。平穏無事に生徒たちを世の中に送り出すことが使命だと思ってやまない教頭にとって、教師が特定の生徒のことを想うのは、最大のタブー以外の何ものでもない。
「先日のことです、保護者の方からご連絡をいただきましてね……。あなたと、宮野さんが植物園にいるところを見かけたと。ちょうどその日は、あなたが理由も告げずに、無断早退した日でしたよね。同じ日に、宮野さんも無断欠席している」
俺が答えに窮しているのを悟った教頭は、少しばかり頭を抱えた。
「担任の先生から伺った宮野美咲の生活態度や、あなたの教師としての器は評価に値すると思っています。ですが、そういう連絡を受け、かつあなた方二人が示し合わせたかのように、欠席したとなれば、事実かどうか、そしてあなた方の関係を知らなければなりません。お答えください、桜井先生」
「別に、示し合わせたわけではありません。しかし、彼女を連れて植物園に行ったのは事実です」
やっぱり、教頭の顔に浮かんだ表情がそう言っているような気がした。教頭は、深く溜息をつく。
「弁解はしないのですか?」
「宮野と俺は、後ろ指刺されるような関係ではありません。あくまで、先生と生徒です。教師が落ち込んだ生徒を励ますのは、悪いことではないでしょう」
「たとえそうだとしても。いや、よしんば私があなた主張に頷いたとしても、親御さんたちは、そのように思うはずがないでしょう」
事なかれ主義が、見事にたたき崩された瞬間。面倒には関わりたくなかったのに、そんな風に教頭は思っているに違いない。
「軽率でした。申し訳ありません」
「ええ、確かに軽率です。先生が特定の生徒と学校行事にかかわりあいなく出かける……つまり、デートするなど、あってはならないことです。そんなことは、あなたも授受う承知していたことでしょう? この責任は、誰かがとらなければなりません。いや……これは二人の問題であって、教頭の私が取っても仕方がないこと」
教頭はそういうと、デスクの引き出しから、二枚の紙を取り出した。
「こちらは、あなたに対する教育委員会への転勤申請書です。もう一つは私か用意した宮野さんへの、転校の手続き書です」
「転校の手続きって、宮野は受験生です。もう数か月もすれば、彼女は大学受験に臨まなければならない。そんな時期に転校だなんて、無茶ですっ」
「ええ、分かっています。しかし、あなたは先ほど仰られた。あなたと宮野さんは、ただの先生と生徒の関係だと。ならば、身を引くべきなのは、どちらか考えるまでもないでしょう。この書類、どちらもあなたに預けておきます。月末までには、結論を出してください」
「しかしっ」
言いかけた俺の言葉をふさぐように、教頭は二枚の書類を俺に突き付けた。俺は、それ以上何も言うことが出来ず、あまりにも無機質な要求が書き連ねられた書類を受け取るほかなかった。
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