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24. 前に進みたい

 先生がわたしのことをどう思っているのかは、よく分かりません。十八歳のわたしにとって、二十六歳の先生は大人です。少し変わったところもあるけれど、わたしの悲しみや涙を春の日差しのように、温かく包み込んでくれる。わたしはそういう先生の優しさが嬉しくて、泣いてしまいました。

 泣くのはこれが最後……。

 泣いていたって始まらない。前向きだけが取り得で無鉄砲だった中学生のころの、まだ衣里果と笑い会えたころのわたしなら、きっとそう思ったに違いありません。先生に抱きしめられた瞬間、わたしはそのことを鮮明に思い出しました。

 そして、衣里果に逢うため、六文字の言葉を携えて出かけたのは、それから数日後のことです。決心だけなら、先生の車で家に送ってもらう間に固めていました。折角、先生が背中を押してくれたのです。だから、ちゃんと向き合わなければいけない、と思ったのです。

 だけど、わたしは衣里果の居所を知りませんでした。衣里果はあの事件の後、両親とともに遠い街へと引っ越していきました。それが何処の何という街なのか分かりません。

 探る手立てはいくつかあります。わたしの携帯電話には、今も衣里果の携帯番号がメモリーされています。手っ取り早く、本人に尋ねるのが一番であることは、よく分かっているのですが、その番号が今でも通話可能かどうかよりも、そのメモリーをプッシュする勇気がまだ持てませんでした。

 そこで、わたしは中学時代の同級生に、片端から尋ね歩くことにしました。みんな、わたしから話しかけられて、しかも衣里果のことを尋ねられて、少なからず驚きつつも、やはり誰も衣里果の居場所を知りませんでした。衣里果は、今のわたしのようにひどく無口で、人と係わり合いを避けるような子でした。そのため、交友関係とよべるような関係は存在していません。

 それでも、衣里果の居場所を知らなければ、六文字の言葉とわたしの気持ちを伝えることはてきません。

 とうとう芳しい情報を手に入れることが出来ずに、やっぱり直接本人に訊くしかないのかな、なんて腹をくくろうとした矢先、

「菅野さんだったら、北市に引っ越したはずだよ」

 思いがけない人から、衣里果の居場所を聞くことが出来ました。わたしにそれを教えてくれたのは、小鳥さんです。

 中学生のころはほとんど面識がなかったために、ついそのことを忘れがちになってしまいますが、小鳥さんも同じ中学の同窓生で、衣里果が住んでいたお家と、小鳥さんのお家は目と鼻の先だったりします。そのため、小鳥さんも衣里果と特別親しい友達ではなかったにもかかわらず、風のうわさ程度に衣里果の居場所を聞いていたのです。

 持つべきものは友達だ。なんていいますが、そのときほど、小鳥さんと友達になれたことを感謝したことはありません。

 そうして、週末。わたしは、衣里果のいる北市へと向かう決心を固めました。ヒースこと、エリカの花はないし、もしかしたら会ってさえくれないかもしれないけれど、わたしは「許してくれるさ」という、先生の言葉を信じることにしたのです。

 北市は、わたしたちの住む西市から、バスと電車を乗り継がなくてはいけない、遠い街です。だから、目覚まし時計より早く起きて、透の朝ごはんを用意し、よそ行きの洋服に着替えて、わたしは玄関へと急ぎました。

 上がり(かまち)に腰を下ろして、靴を履いていると、少し寝ぼけ眼の透が、薄緑色のパジャマ姿のまま、二階から降りてきます。休日の日の透は、いつも寝坊をします。どうやら、わたしのパタハタという足音に、眠りを妨げられたようで、少し不機嫌そうに眠い目をこすりながら、

「どうしたの、姉ちゃん。こんな朝早く、何処へ行くの?」

 と、透が言いました。嘘を返したって仕方がありません。わたしが正直に「衣里果に会いに行く」と言うと、なぜだか透は眠気が一気に吹き飛んだようで、少しばかり険しい顔つきをします。

「衣里果って、姉ちゃんの昔の友達だのね?」

「今も。わたしは、今も衣里果のことを友達だと思ってるよ」

「どうして、今頃になって、その人のところに行くの? あんなことがあってから、もう三年も会ってないんでしょ?」

 透は、わたしと衣里果の間に何があったかよく知っています。あのときを境に、わたしは変わってしまった。口数も減り、笑わなくなって、喧嘩も言い合いもしなくなりました。そんなわたしの変化を(つぶさ)に見てきたのは、家族であり、不在がちな両親と違い、いつも顔をあわせる弟だからです。

「会ってないから、だから衣里果に会わなきゃいけないの」

「今更、会ってどうするのさ。あのときのこと、ごめんなさいって言うつもり? あれは、姉ちゃんが悪いわけじゃないじゃん。姉ちゃんはあの人のこと、イジメてたわけじゃない。それなのにあの人は、まるで姉ちゃんの所為みたいにして、何処かの街へ引っ越していったんじゃないか」

「そうかもしれないけど、わたしは友達なのに、衣里果を守ろうとしなかった。自分が、イジメに巻き込まれるのが怖かったの。だから、わたしの所為でもあるんだよ」

 わたしは、透に背中を向けたまま、靴のソールに踵を収め、ふと透のスニーカーに目をやりました。

「でも、ごめんなさいって言ったって、あの人は許してくれないかもしれない」

「それでも、わたしは、前に進みたい。そのためには、衣里果にちゃんと向き合わなくちゃいけない。そう桜井先生が教えてくれたの」

「桜井……」

 透は眉間にしわを寄せて、桜井先生の名を忌々しそうに、呼び捨てました。どうしてなのか、その理由は分かりません。家族だって、心の内側まで知ることは出来ないからです。わたしは、バッグを肩にかけると立ち上がり、くるりと、透の方を向きました。

「透、一つだけ訊いてもいいかな?」

「えっ? 何?」

 きょとんとする透。わたしは、すうっと息を吸い込むと、透のスニーカーを拾い上げました。

「違ってたら、ごめんね。でも、中庭の花壇を荒らしたのって、透だよね?」

 責めるようなつもりで言ったわけではありません。ただ、確かめたかっただけなのですが、一瞬で透の顔が青ざめ、引きつっていくのが、わたしにも分かりました。

「あの日、透のスニーカーが泥だらけだったのを覚えてる。透は部活がんばってるもんね。よく知ってるよ。だけど、いくら部活でグラウンドを走り回っても、肥料の混じった泥がこびりつくくらい、汚れたりしない。それに、花壇に残ってた靴跡、透のスニーカーの靴底と同じ形してた」

「な、何? 突然、探偵気取り?」

 もちろん、確証があることではありません。透の言葉を借りるなら、状況証拠をあげつらうのは、探偵としては失格です。ですが、以前から、気になっていました。透は、わたしが園芸部をすることや、桜井先生と仲良くなることに、嫌悪感を露にしているのを、知っています。

「わたしは、小説の中の探偵みたいに、賢くないよ。でも、本当に透がやったんだったら、どうしてなのか教えて。怒ったりしないから」

 わたしは、なるべく棘のない口調を心がけました。本当に、透を責めたいわけではありません。もう終わったことです。それに、花壇が荒らされて、ヒースが全滅しなければ、きっとわたしは衣里果に会うことを、この期に及んでも迷ったに違いありません。

「ぼくは」

 気まずい沈黙が続いた後、おもむろに透が口を開きました。

「ぼくは、今の姉ちゃんの方が好きだ。昔みたいに喧嘩ばっかりしたくない。世界でたった一人しか居ない姉ちゃんには、今のままで居てほしいんだ!」

「透……」

 まだ、わたしが明るい女の子だったころ。わたしと透はことあるごとに、喧嘩ばかりしていました。いわゆる、きょうだい喧嘩とてうやつで、何処の姉と弟も一度や二度くらいしたことがあると思います。ただ、わたしのほうが、透より口達者で手が早かったから、いつもビンタときつい言葉で、透を泣かせていました。全勝負けなしです。

『弟なんだから、お姉ちゃんの言うことは何でも聞くのが当たり前』

 そんな風に横柄に考えていたことは、否めません。それでも、恥ずかしいから口に出して言うことは出来ないけれど、もちろんわたしは家族のことを心から愛しています。

「姉ちゃんは今のままでいいんだ。無理して、昔を取り戻さなくていいんだ。桜井に何を吹き込まれたのか知らないけど、花なんか植えなくていい、あの人のことも全部忘れてしまえばいいんだ! だから、ぼくが花壇をめちゃくちゃにした!!」

 まくし立てるように、すべてを吐き出すと、透は泣き出しそうな顔になりました。わたしが変わってしまうことを、なんだか、遠くに行ってしまうと勘違いしたのかもしれません。とくに、不在がちな両親のために、わたしと透は、いつも二人で炊事洗濯、掃除に買い物、ありとあらゆる家事を切り盛りしてきました。楽しいときには一緒に笑って、寂しいときには傍に居る。喧嘩ばかりしていても、心の中は違って、当たり前の家族より、ちょっとだけきょうだいの絆が深いのです。

「桜井先生は何も吹き込んでなんかいないよ。背中を押してくれただけ。それに、誰に言われたからってわけじゃなくて、変わりたいって、わたしが思ってる。でも、昔のわたしに戻りたいんじゃないんだよ。ただ、今より前に進みたいだけ。だから、心配しないで」

「前に進むなら、なおさら昔のことなんて、忘れちゃえばいいんだ。忘れられるのは、人間の特権だよ」

「透は、哲学者気取り?」

「そんなつもりじゃない……」

「たとえ特権でも、わたしは忘れたくない。受け止めて、前に進みたいの」

「受け止めきれないかもしれないよ。それでも、行くの?」

 透が低い声で尋ね、わたしはこくりと強く頷きました。

 せめて、笑顔を添えられたら、きっと透も安心して送り出してくれるはずです。だけど、笑い方を忘れたわたしに出来ることは何もなく、透の視線を背中にピリピリと感じながら玄関の扉を開き、衣里果の住む街へと向かうしかありませんでした。 

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