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23. 金色の太陽

「学校の中庭に花壇を見つけたとき、衣里果と話した、約束を思い出したんです」

 埠頭を包み込む、さざなみの音をバックに、宮野は三年前の出来事……彼女が明るさと引き換えにした出来事から、現在に至る思いを切々と語る。

「約束?」

「はい。わたしと衣里果は、花が好きで、わたしはベランダの植木鉢で、衣里果はお家の花壇で、花を育てていました。だから、お互いの誕生日に、お互いの好きな花をプレゼントしようって」

「それはまた、女の子らしい約束だな。もしかして、その子が好きだった花が……」

 俺が思い当たる節を口にすると、宮野はこくりと頷いた。

「ヒースです。日本ではエリカって呼ばれていて、自分と同じ名前の花で、小さくて目立たないけど、とても綺麗で可愛い花だから好きだ、と言ってました」

 しかし、お互いの誕生日を前にして、友情が崩壊し、約束は反故になった。そのことは、宮野にとって悔やみきれないことだったのかもしれない。だから、宮野は花壇を見つけたそのとき、三年前の親友との約束を思い出したのだ。

「もしも、もう一度ヒースを咲かせて、衣里果にプレゼントできたら、きっとわたしは衣里果に『あのときは、ごめんなさい』って言えるような気がしたんです。そうしたら、衣里果に許してもらえるって思ったんです。ホントは、中庭の花壇を花でいっぱいにしたかったんじゃなくて、自分を取り戻して、明るい未来を手に入れる、きっかけが欲しかっただけ……そのヒースを植える『計画』のためだけに、わたしは園芸部を始めたいなんて、わがままを言ったんです」

 そういう宮野は、やや自分自身を嘲るような顔をした。

「咄嗟のことだったから、六月に植えたヒースが芽吹くかどうか、ほとんど賭みたいなものでした。だから、芽が顔を出した時には、本当に嬉しかった。最低でしょ、わたしって。楽しいことや嬉しいことに甘んじてはダメだって、自分で言っておきながら、嬉しくて笑って。だから、花壇が荒らされたのは罰なんです。きっと神様がこう言ったんです『お前は幸せになる資格のない、最低の人間だ』って」

 悲観に暮れる彼女の瞳からは、今にも大粒の涙が零れ落ちそうだ。

 花壇が荒らされたことだけが悲しいのではない。衣里果に許しを請うきっかけを失ったのが悲しいのではない。親友を見捨ててもなお、おろかな計画を考えて「変わりたい」と願う自分が悲しくて、泣き出しそうなのだ、と彼女は言った。

「たとえヒースの花をプレゼントできたとしても、衣里果はわたしのことを許してなんかくれません。だって、わたしは彼女を苦しめたんです。同じだけ、その苦しみを味あわなければ、いけないんです。そんなこと分かってるのに、でも、心に開いた穴が大きくなっていくのが怖い。いつか、全部飲み込まれてしまうんじゃないかって思うけれど、わたしは衣里果のように自分の命を絶とうとするような勇気は持てないんです」

 ひどく自分のことを過小評価するのは、宮野の悪い癖。しかし、宮野が何を抱えて来たのか、どうして笑わない子になってしまったのか、その理由を知ってしまった今、俺には何が出来る? 同じように、心の穴を持つ者として、どうすれば宮野の涙を拭いてやれる?

 俺は、沈黙の中で必死に考えた。

「なあ、宮野。そういうのは、勇気って言わないんじゃないのか? 自分で命を絶つなんて馬鹿げてる。生きてこそ、なんてありきたりなことを言うつもりはないけれど、でも生きてみなきゃ、未来に何が待ってるかなんて、誰にも分からない。だから、誰のためじゃなくて自分のために、生きていくんだ。そうして、生きていれば、笑ったり喜んだりするのは当たり前。嬉しいときには、心から笑えばいい。そんなこと、神様ら何言われたって、遠慮しなくていいんだ」

 自分で言うのもなんだが、かなりクサい科白をはいてしまったことを、少なからず後悔した。熱血教師のつもりもないし、説教じみたことを言うのは嫌いだ。禁則を破って、教師という立場でタバコを吹かす不良教師を辞任する身としては、教訓を口に出来るほど立派な人間だとは思っていない。それでも、するすると口を吐いて出てきた言葉を、撤回することは出来ない。

 宮野でなかったら、笑い飛ばすか、引いているところだろう。しかし、宮野は真面目過ぎるくらい真面目な女の子だということを、俺はよく知っている。そうでなければ、三年前の出来事を、罪だといって背負い続けたりはしない。

「先生は、わたしの『計画』を笑わないんですか? 馬鹿だなって思いませんか?」

 宮野は自信なさげにうつむいたまま、尋ねた。

「馬鹿だな、って思うよ。宮野とその子が親友なら、その気持ちを素直に伝えればいい。エリカの花なんてなくても、その子のところへ行って、直接言えばいい。ごめんなさい、ってね。たった六文字だ。とても簡単なことじゃないか」

「簡単じゃありません。六文字で許してもらえるほど、衣里果の心の傷は浅くないんです」

 暗く影を落とす不安は、彼女の瞳を潤ませる。俺は、そんな宮野の不安を打ち払うように、ぽんぽんっと宮野の頭を軽く叩いた。

「宮野は親友のことを信じられないのか? だけど、俺と喧嘩したとき、お前は素直に謝れたじゃないか。あの時と同じように、こんどは親友に『ごめんなさい』と素直に言うんだ」

 許すことは難しい。怒りを抑えて、相手を慮るなど、人間はそれほどよく出来た生き物ではない。それが、自分を傷つけた相手ならなおさらだろう。体の傷は、傷跡こそ残っても、癒えてしまう。しかし、心の傷はいつまでも開いたまま。やがてそれは、大きな空洞になっていく。まるで胸の奥に風穴が開いたように。

 だから、人は傷つかないように、争いごとがあると、自分を守ろうとする。わたしは悪くない、悪いのはあなた、といった具合に。しかし、宮野は心の穴にいつか飲み込まれてしまうのではないかという恐怖を感じながらも、三年間罪を背負い続けた。悪かったと、自分自身を責め続け、そうすることでしか、傷つけた相手と同じ地平に立てないと思い込んでいる。

 他人に許しを請うというのは、そういうものかもしれない。許すことよりも、許されることはもっと難しいことなのだ。でも、そのどちらも出来ないことじゃない。

「本当に宮野が心からその子のことを思うなら、その気持ちは伝わる。だって、親友だったんだろう? 親友って言うのはさ、どんなときでもお互いを思いやれる相手のことだ。それはとても難しいことだけど、宮野がその子のことを親友だと思うなら、伝わるんだ。もう十分罪は償った。少なくとも、俺はそれを知ってるよ。だから、迷ったり、立ち止まったらだめだ」

「先生……」

 宮野の瞳から、ぽろぽろと涙が落ちて、彼女のスカートを濡らす。

「泣くのはこれが最後。泣き止んだら、友達のところへ行け。それで、ちゃんとお前の言葉で謝れ。そうしたら親友は、絶対に許してくれる。だって、宮野もその子も生きているんだ。生きていれば、謝ることも、許すことも出来るんだ。だから、泣くのはこれで最後にするんだ」

「泣くのはこれが最後……」

 時折宮野はついに、うっ、うっ、と嗚咽の声を漏らす。その白い手で何とか涙をぬぐい取ろうとするが、堰を切ったように涙が止まらない。

「どうして?」

 突然、宮野が上擦った声で、時折しゃくりあげながら言う。

「どうして先生は、そんなに優しいの?」

 そんなこと、聞かなくても分かるだろう? なんて気取った科白を返すことは出来ない。俺は教師で、宮野は生徒なんだ。本当は特別であってはならない相手。それなのに、すでに俺は宮野を特別に思っている。思っているから、言えない。

「優しいつもりはないよ。そう見えるだけ……」

 言いかけた言葉をふさぐように、宮野は俺の胸に顔をうずめて、泣き声を上げた。わーん、とまるで子どもが泣くかのようなその声は、埠頭中に響き渡る。だが、あたりの人の視線がこちらに向くのを承知の上で、俺は宮野の細い肩を抱き寄せた。

 せめて、宮野が泣き止むまで、こうしていよう。それが、涙を拭うことになるかもしれない。いや、俺に出来るのは、それくらいしかない。結局、三年前の後悔と訣別し、本当の意味で涙を拭えるのは宮野だけ。その背中を押すことが出来たなら、あとは宮野が一人で歩き出す。縛られた過去を捨てて、未来へ……。

 俺は、宮野を抱き寄せながら、遠く水平線を金色に染め上げながら沈んでいく太陽を見つめ、そんなことを思った。

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