20. 聖域の崩壊
桜井先生を探して、学校中を走り回りました。中学以来、水泳をやめて久しいわたしの体力は、すっかり落ち込んでいて、あっという間に意気が上がってしまいましたが、桜井先生の姿は職員室にも理科準備室にもなく、ようやく先生の居場所が屋上だと言うことを教えてもらったわたしが、最上階へと続く長い階段を駆け上り、屋上の鉄扉を開いたとき、桜井先生は校医の大川先生とお話をされていました。
お二人が高校の同窓生で、とても仲がいいことは、すでに知っていました。本当なら、お二人が何を話されていたのか、気にかけたいところです。でも、わたしにはその余裕がありませんでした。
一大事。そう、一大事なのです。
「どうしたんだ、宮野?」
わたしが真っ青な顔をしていることにいち早く気づいた桜井先生は、吸いかけのタバコを手早く形態灰皿に押し込むと、わたしのところまで駆け寄ってきてくれました。わたしは、今にも溢れ出しそうな涙をこらえるのに必死で、うつむきがちに、どう話すべきか、言葉に迷ってしまいました。スカートのすそを固く握り締め、手の震えを抑えながら、事実を一つずつかいつまんで話します。すると、見る見るうちに桜井先生の顔がこわばっていきました。
「行ってみましょう。この目で確かめてみないことには……」
そう言ったのは、大川先生です。お二人は顔をあわせて頷くと、屋上を後にします。阿吽の呼吸とでも言うのでしょうか。お二人の息のあった意思疎通に、わたしは促されて、お二人を中庭へと導きました。
放課後の中庭に、小さな人だかりが出来ています。いつもなら、中庭に憩いの場を求める人なんて誰もいなくて、ひっそりと静まり返っている場所です。もちろん、目の前の人だかりも憩いのために集まっているわけではありませんでした。
彼らが集る場所、それは、わたしたちの花壇です。長い間、管理者の役目を負った歴代の先生たちにも、見向きもされなかった、雑草と苔だらけの花壇を、わたしと桜井先生の二人で世話をしていることは、少なからず学校の話題となっていました。
なぜなら、ようやくそこに、何十年ぶりかの花が咲こうとしていたからです。
「美咲、桜井先生、早く!!」
人だかりの中から、聞き覚えのある声がわたしたちを手招きしました。小鳥さんです。この一大事をわたしが知ったのは、小鳥さんが教えてくれたからに他なりません。だから、花壇の有様をこの目で見るのは、その瞬間が最初でした。
「ひどい……っ」
人だかりを掻き分け、花壇の姿に息を呑むわたしの傍で、桜井先生も絶句しました。
まるで獣が踏み荒らしたかのように、やわらかい花壇の土につけられた、無数の靴跡。つぼみをつけ、今にも開花しそうだった、花芽たちはズタズタになり、脇に添えた花の名を記したネームプレートや飾りも折られていました。
もはや、誰がそこに花壇があったなんて思うでしょうか。
折角作り出した楽園が、非情な無法者に荒らされる。そういった光景が、目の前にあって、三ヶ月あまりのわたしと先生の汗と苦労が、一瞬にして無駄になってしまったのです。
思えば、計画を思いつき、わがままを言って、先生と始めた園芸部。毎日、朝と放課後、受験勉強の合間を縫って、せっせと世話をしました。花の種や肥料を買うために、小鳥さんのお母さんのお花屋さんでアルバイトもしました。そして、疲れ果てたわたしが倒れて、先生を心配させました。喧嘩もしました。でも、やっとすべての苦労が報われて、花が、ヒースの花が咲こうとしていたのです。
跡形もないほどに荒らされた花壇に、計画が失敗したという事実よりも、先生と二人で過ごした時間そのものが壊されて締まったような気持ちになって、わたしは悲しさに胸を痛めました。
「誰がこんなことを……」
桜井先生がつぶやきました。その声音には、わたしを叱った時とは違う、明らかな怒りが見え隠れしていました。そんな、先生のつぶやきを払うかのように、
「面白いことになったなあ」
「宮野さんのこと嫌いな人がやったんじゃないの?」
「それとも、桜井先生に恨みを持つ人とか」
「どうせこんな日陰に花なんて咲かなかったと思うよ」
と、中傷にもならないようなささやきが、あちらこちらから沸き起こります。もちろん、地獄耳じゃなくても、先生の耳にもちゃんとささやきは届いていました。
「おい、お前ら。見世物じゃないんだ。クラブ活動のあるやつは、さっさと練習にもどって、帰宅部どもは家に帰れ!!」
確かに犯人がいることは間違いないというのに、花壇を荒らしたのは一体誰の仕業なのかわからず、先生は行き場のない怒りを、人だかりにぶつけました。すると、みんなは雲の子を散らしたように、そそくさと中庭を立ち去っていきます。あとに残されたのは、わたしと桜井先生、大川先生、小鳥さんの四人だけ。
静かになった中庭を、ふっ、と秋の風が駆け抜けていきました。その風は、やたらと冷たくて、切なくて、わたしはついにこらえきれずに、荒れ果てた花壇を見つめつつ、大粒の涙をこぼしました。
「美咲!」
「宮野さんっ」
小鳥さんと大川先生が、わたしのことを心配そうに見つめます。本当は、泣きたくなんかありませんでした。もっと、犯人に対して怒りを覚えるべきでした。でも、わたしにはそう出来なかった理由があったのです。その理由を、小鳥さんも大川先生も知りません。もちろん、桜井先生も。
「宮野……片付けよう。話はそれからだ」
先生はそういうと、わたしとは目を合わせずに、ひとり荒れ果てた花壇の真ん中にしゃがみ込み、踏みつけられた花芽を引き抜いていきます。そんな先生の背中が無情に思えて、わたしはまるで子どもみたいに大声で泣きじゃくりました。
それから、どうやって家に帰ったのか覚えていません。途中まで大川先生と小鳥さんに送ってもらったのは憶えているのですが、家に帰り着いたときには、すっかり家の周りを夜の帳が包み込んでいました。
「ただいま」を言う気力もなく、玄関を開ければ、先に帰っていた弟の透が「何かあったの?」と尋ねてくるのは、無理もないかもしれません。涙のあとをつけたまま、暗い顔して戻ってくれば、家族なら心配するのが当たり前です。それなのに、わたしはわたしはごしごしと顔を制服の袖でこすって、
「何でもないよ」
とそっけなく言い残し、部活で汚れたのか、黒ずんだ泥にまみれた透のスニーカーを横目に、そそくさと自分の部屋に引きこもりました。制服がしわになるのもかまわず、息苦しいのもかまわずに、ベッドの上に身を投げ出して、顔をうずめると、十八歳にもなって、こんなにわたしってば泣き虫だったのか、と自分でも驚くくらいに、一晩中泣きはらしました。
翌朝。カレンダーの日付は、十月七日。泣き疲れて眠ったわたしは、目覚まし時計のけたたましい音に目を覚ましました。
朝日の差し込む窓の外は、すがすがしい小春日和の空。ですが、わたしの体は重苦しい倦怠感に包み込まれていました。まぶたを閉じれば、荒らされた花壇の光景が蘇ってきて、悲しい気持ちがまったく晴れることはありません。
学校へ行きたくない……。
一度そんな風に思うと、ベッドから抜け出すのも億劫で、あっという間に時計の針は授業開始時刻をまわっていました。それを幸いに、最初で最後の、無断欠席することにしました。要するに、サボりです。
でも、いざ学校をサボってみると、時間が経つにつれて、罪悪感がひたひたと忍び寄ってきます。今から学校へ行くべきかしら、それともこのままふて寝しているべきかしら。
そうして、一人ぼっちの静か過ぎる家の中で、悶々としていると、唐突に携帯電話の着信音が鳴り響き、わたしは思わず悲鳴を上げてしまいました。なかなか部屋から出てこない姉に見切りをつけて、早々と登校した透からの連絡か、それとも小鳥さんからの連絡と思い、急いで携帯電話を手に取ったわたしは、そのディスプレイに表示された名前を見て、再び驚きの声を漏らしてしまいました。
『桜井先生からのメールが一件あります』
園芸部を始めるときに、連絡先として教えてもらった、桜井先生のメールアドレスです。先生が、わたしのことを心配して、メールを送ってくれたことは明白でした。そして、ついに罪悪感が、倦怠感の上に、ずんっと重たくのしかかってきます。
わたしは、恐る恐るメールを開きました。
すると、そこに書かれていたのは、わたしの予想を裏切った、おかしな文章でした。
『窓の外を見なさい』
ずいぶんと素っ気無い文章に、小首をかしげながら、わたしはカーテンを開けて、家の外に目をやりました。家の前に、白い乗用車が止まっています。両親の車ではなく、見覚えのない乗用車です。
わたしの頭の上に、いくつものハテナが浮かびかけたそのとき、おもむろに乗用車の運転席が開いて、背の高い男の人が降りてきました。男の人は、すっと顔を上げると、二階の窓辺から見下ろすわたしに、にっこりと微笑みます。
コンタクトを外して、ぼやけたわたしの視界でも、それが桜井先生であることは、すぐに分かりました。
再び、メールの着信を知らせるベルの音。もちろん、家の前にいる先生からのメールです。
『寝癖を直して、服を着替えたら、降りてきなさい。今から、一緒にデートしよう』
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