2. 見捨てられた花壇
わたしは悪い子です。
視力と成績と性格が悪いです。
視力はコンタクトレンズで補っています。中学生の頃は、眼鏡をかけていたので、目の中にレンズを入れるという行為には、とても抵抗がありました。でも、慣れてしまえば、どうと言うことはありません。
成績は、きちんと勉強すれば、頭の回転が遅いわたしでも、なんとか人並みの成績に追いつくことは出来ます。苦手な数学を除いて。
だけど、性格だけはどうにもなりません。性格というのは、本来生まれて十七年間の人生で、染み付いて出来上がったものです。ですが、わたしの場合は違います。自分で自分の性格を捻じ曲げたのです。そうして出来上がった、どうしようもなく情けない性格は、簡単に変えられるものではありません。つまりわたしはずっと変わらないまま、この性格と付き合わなければならないのです。そう思うと、胸の奥がザラザラします。まるで、ぽっかりと空いた胸の穴に、冷たい風によって運ばれてきた砂が詰まっていくような、そんな感じです。
もちろん、この性格を誰かの所為にするつもりはありません。全部わたしの所為なのですから。
「姉ちゃんは、もう少し笑ったらいいと思う」
と、透は言います。透は、わたしの二つ年下の弟です。今年の春から、わたしと同じ高校に通うようになりました。黙っていると女の子みたいな可愛い顔立ちに、明るくて、何事もクヨクヨしなくて、誰とでもすぐ仲良くなれる、とってもいい子です。勉強もよくできるし、スポーツも得意。ちょっと羨ましいくらいです。
だから、生徒のほとんどが、わたしと透が姉弟だと言うことに、気付いていないかもしれません。何故なら、顔がちょっと似てることを除けば、わたしと透は何から何まで正反対だからです。
それにしても「笑えばいい」とは、難しい事を透は言います。わたしにとって、笑うというのは、最も難易度の高い技です。きっとオリンピックで金メダルを決めたり、ノーベル賞を獲得したりするくらい、とても難しいことです。
笑うと言うことは、楽しいことや嬉しいことがあるからです。すると、自然に笑うことが出来ます。犬とか猫とか、普通の動物にはない表情です。たまたま読んだ難しい心理学の本に、人間が笑のは「相手の警戒心を解くため」なのだそうです。でも、そうじゃなくて心から楽しいことや嬉しいことに出会えば、人間はそれを表現するために笑うのです。
もちろん、わたしにも楽しいことや嬉しいことくらいあります。テレビ番組で、人気のお笑い芸人さんが、取っておきのギャグをやれば可笑しいと思うし、お母さんが夕飯のメニューに、わたしの大好きなロールキャベツを作ってくれたときには嬉しいと思います。
それなのに、わたしは笑うことが出来ません。正確に言えば、笑い方を忘れてしまったのです。
わたしは、ずっと前に罪を犯しました。何度願っても許されないほど大きな罪です。そして、わたしはその罪を背負うことにしました。罪びとは、楽しいことや嬉しい事を甘んじて受けてはいけません。それが、自分自身に課した罪だから……。
そうして、笑うのをやめたら、いつの間にか笑い方を忘れてしまいました。作り笑いも出来ない、無愛想な子になってしまいました。だから、そんな気持ちの悪いヤツに近付こうとする人なんていません。
だけどわたしに、声をかけてくれた人がいます。
名前は、桜井先生。わたしと弟の通う高校で、生物学を教えている理科の先生です。他の男性の先生より若いし、背が高くて、カッコいいので、女の子たちからは人気があります。わたしは、選択科目である生物学を履修していないので、桜井先生とは面識がありませんでした。だから、先生に、
「そんなところで、何してるんだ?」
と声をかけられたときは、本当に驚いてしばらく言葉が出ませんでした。
何してるんだ? と問われれば、花壇を見ていました、と答えるしかありません。でも、何で花も咲いていない荒れ放題の花壇なんか見ていたのか、と尋ねられたら、上手く答えられそうにありませんでした。
その花壇を見つけたのはほとんど偶然です。
お昼休みと言うのは、お昼ご飯を食べた後の、気だるい時間です。春の涼しさと夏の陽気が入り混じり、言い換えれば随分過ごしやすいため、頭がぼんやりとしてきます。クラスの皆は、持ち寄った雑誌を広げて雑談したり、携帯電話を開いてゲームしたりメールしたり。元気のいい子は、グラウンドに出て、ボール片手にスポーツに興じます。でも、わたしには話し相手になる友達はいませんし、携帯電話でメールする相手もいませんし、ゲームをする趣味は持ち合わせていません。さらに、運動は苦手なのでボールで遊ぶことなんてもってのほかです。
だから、十中八九、お昼休みは教室でぼんやりしています。でも、そのままだと、居眠りフルコースに突入して、はっきりしないままの頭で午後の授業を受けなければなりません。午後は、特に苦手で大事な数学の授業が待っています。ぼんやりした頭で受けていたら、あっという間にそうでなくても悪いわたしの成績は、坂道をまっさか様に転げ落ちていくこと請け合いです。そこで、わたしは頭をはっきりさせるために、校舎の周りを散歩することにしました。
グラウンドで遊ぶ人たちの楽しげな声をBGMに、ひらひらと舞う蝶々を目で追いかけながら、初夏の色に染まった空を見上げ、雲を数えます。ああ、あの鯨のような雲は何処へ行くのだろう……なんて、ほんのひと時だけ、詩人になったような気分です。
そうして、校舎の周りをぐるり。校舎と校舎の谷間に当たる、中庭へとわたしは入りました。もともと、学校が創立されたときに、生徒たちの憩いの場として設けられた芝生の中庭に、人はいません。何故なら、日中のほとんどお陽様が当たらない場所だからです。それに、芝生の庭なら、表にあたるグラウンドにもあります。そちらの方は、きっと生徒たちでにぎわっていることでしょう。それに引き換え、閑散とした中庭は、どこか寂しげでした。
前もって言うと、わたしもジメジメした場所はあまり好きではありません。お陽様の当たる場所の方が好きです。でも、ここは校舎の校舎にはさまれて、日陰になる場所です。さすがに風通しはいいので、ジメジメはしていません。そんな中庭で、唯一陽の光が当たる場所が、理科室の前にある小さな花壇でした。
だけど、レンガで仕切られ、腐葉土が撒かれたそこは、花壇と呼ぶには余りに貧相です。花は一輪も咲いていないし、誰も手入れしていないのか雑草が生えて、腐葉土も乾ききってボソボソになっていました。
これじゃ、可愛そうだ……そんな風に思ったわたしは、散歩する脚を止めて、そっと膝を折り、花壇の土に触れてみました。乾いてしまっているけれどまだ柔らかくて、ちゃんと耕せば、元の姿に戻る。
指先に触れた感触から、わたしは確信めいたものを抱きました。花を育てるのは昔から好きです。体育が苦手なわたしは、どちらかと言えばインドア派で、庭の植木鉢で色んな花を育てて、押し花にして、家族や友達にプレゼントする、という趣味がありました。
でも、そんな趣味も、あの日、あの時からやめてしまいました。そんな事をする資格なんか、わたしにはないんだという事を、思い知ったからです。今では、植木鉢もプランターも庭の隅の物置に仕舞い込まれています。
それなのに、その荒れた花壇を見たとたん、わたしはある「計画」を思い出していました。そして、桜井先生が現れて、「何してるんだ」と尋ねられたわたしは、咄嗟に、
「あの、わたしにこの花壇に花を植えたいんです!」
と答えてしまいました。当然のことですが、あまりにもわたしの答えが唐突過ぎて、桜井先生は少しだけ困った顔をしました。そして、しばらくわたしの顔をじっと見つめると、再び先生はわたしに尋ねます。
「名前、なんだっけ?」
先生の問いかけも唐突で、わたしは自分が名乗りもしていないことを思い出し、急に恥ずかしくなりました。
「えっと。わたし、三年の宮野です。宮野美咲です」
「宮野か……」
聞かない名だな、と言う風な顔をして先生は言うと、三度わたしに尋ねました。
「この学校には、園芸部なんてないけど、園芸に興味でもあるの?」
別に興味があるわけではありません。思いついた「計画」を実行したいだけなのですが、それをどう伝えたらいいのか分からなくて、わたしは頷いていました。
「園芸用具も球根や種も、ちゃんとわたしが用意します。ここの土、きちんと手入れすれば、きっと綺麗なお花を咲かせられると思うんです。ダメ、ですか……?」
「いや、ダメってことはないけれど。この花壇をいじってくれると言うなら、そりゃ賛成したいところだが、こういうことは、いくら教師の俺でも一存では決められない」
先生は、困り果てたような顔をして、頭をかきます。ふんわりと、先生のカッターシャツとネクタイからタバコのにおいがしました。
花壇は学校のもので、学校のものはみんなのものです。確かに、桜井先生が勝手に決めていいことではありません。そういうのをわがままって言うんだ、という事を思い出したわたしは、あわてて頭を下げました。
「あ、あの。ごめんなさい、無理なことお願いして。今の、聞かなかったことにしてください、先生」
「待った!」
くるりと踵を返して逃げ出そうとするわたしを、先生は呼び止めました。
「えっと、宮野だっけ? もしも、お前が本気で、この花壇をいじりたいって言うなら、明日の放課後にでも、俺のところへ来い。それまでに、何とかしておくから」
「えっ?」
「いや、この花壇の管理責任者、俺なんだよ。だから、もしも綺麗にしてくれるっていうなら、俺としては願ってもないことだ。仕事が一つ減るからな」
驚くわたしに、先生は少しだけ笑って言いました。そもそも、これまで学校に花壇があることすら気付いていなかったわたしは、花壇に管理者がいたことも、桜井先生がその責任者をしていたことも知りませんでした。
「あのっ……」
その瞬間、キンコンカンと午後の授業のチャイムが、わたしの「ありがとうございます」と言いかけた言葉をかき消しました。
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