19. 十月六日
笑顔を見るのは、嫌いじゃない。
嬉しい気持ち、楽しい気持ちを表現できるのは、人間だけに与えられたものであり、その笑顔を見て、嬉しさや楽しさを共有することが出来るのは、人間の特権でもある。そんなことは当たり前のことだが、それが宮野の笑顔なら、尚更だった。
彼女が十八年を迎えようとする人生の中で、どのように生きて来たのか、赤の他人である俺には分からない。しかし、今の宮野を見ていれば、きっといいことばかりではなかったというのは、想像に難くなかった。
ずいぶん前、大川に俺と宮野が「似たもの同士」だと言われたことがある。どこが、と問われれば、確たることは言えないけれど、大川の言うとおり、俺と宮野は似ている。俺も二十六年の他愛もない人生が、いいこと尽くめだったわけじゃない。辛いことや耐え切れないことが、確かにあった。それらは、まるで細胞を侵食する病原体のように、俺の心を蝕んでいき、大きなが穴をあけた。そして、風によって運ばれてくる、砂粒のような感覚が、穴の中でザラザラとする。
おそらく、宮野の心にも、大きな穴が開いているのだろう。そして、ザラザラとした感覚にとらわれては、ひとつずつ笑顔を忘れて行った。そういった意味では、俺よりも宮野のほうが重症だった。
だから、宮野と俺の二人で手塩にかけた中庭の花壇に、芽吹きの緑が彩りを添えたことに、感極まった宮野が目を細めて微笑んだことは、俺にとっても嬉しいことだった。それを共有と呼べるのかどうなのかは、よく分からないが、少なくとも、俺は宮野の笑顔に心惹かれた。
本当の宮野美咲は、明るい女の子だった……。以前、彼女を知る彼女の中学時代の級友たちから聞いた話が、真実だとすれば、その笑顔こそが本当の宮野の顔なのだ。そんな宮野の顔を見ていると、強要されたわけでも、空笑いでもなく、自然と心の内側からあふれた笑顔が失われていた経緯、即ち、彼女の心に大きな穴を開けたのは、いったい何なのか知りたくなった。
少なくとも、俺は宮野のことをよく知っているわけではない。
教師と生徒という間柄なら、知る必要もないことだが、そのとき、俺にとって宮野の存在が、生徒のそれから大きく逸脱しつつあることに、少なからず無自覚ではいられなかった。彼女が背負い、朗らかな本来の自分を押し殺した理由もしかり、無理をして心配かけさせてくれることも、はじめて見たかすかな笑顔も、すべてが気になって仕方がない。
ことあるごとに、脳裏によぎる宮野の顔に、教師と生徒という無味乾燥な間柄を超えて、もう少しだけ宮野という女の子のことを知りたいと思う。
しかし、「あとで話してくれればいい」と言った手前、宮野の心に空いた穴の正体を、今ら問いただすわけには行かない。
せめて、宮野の笑顔が消えることなく、このまますべてが上手く運んで、いつか「本当の宮野」に会えることを願いつつ、俺は今日も屋上の聖域で、タバコの煙を吐き出した。
季節は、煙を吸い込む風もひんやりとし始める十月の頭。
すっかり秋めいてきた景色とは対照的に、中庭の花壇は、植物には厳しいとされるこの季節にそぐわないほど、生命の力強さをあふれさせていた。そもそも、宮野は、冬に咲く花を選んで、花壇に植えたのだ。
植え付けの時期、肥料のやり方、世話の仕方。ガーデニングと一口に言っても、その方法は千差万別だ。しかし、宮野はそのすべてを熟知していた。「昔取った杵柄」と言うニュアンスで、宮野は謙遜して見せたが、その知識は、教師の体面丸つぶれと知りながらも、舌を巻くほかなかった。だが、そんな彼女にも、季節外れに植えたヒース、ことエリカが芽生えることは、賭けだったのだろう。
あれからヒースは、すくすくと育っている。根を張り、葉を伸ばし、ついには「ぶどうの房を逆さにしたみたい」と言った、宮野の言葉どおり、無数のつぼみが連なっている。
しかし、何事も順風満帆とはいかないのが、世の中の常。それを不運と呼べば、あまりにも空しく、不幸と呼べばあまりにも悲しすぎることだ。
その事件がおきたのは、十月の六日。放課後の屋上。俺の聖域に人影はあるはずもなく、俺は不良教師の証でもあるタバコを吸いながら、吐き出した白い煙に、そういえば明日の「十月七日」は宮野の誕生日であることを思い出しているときのことだった。
「昔から変わらないわね、高いところが好きなんて……鳥にでもなりたいのかしら?」
突然背後から声をかけられて、心臓が飛び跳ねた。立入禁止の屋上で喫煙禁止のルールを破っている不良教師と言えど、小心者に変わりないと言うことは、自分自身が一番良く知っている。そればかりか、教師の俺が一人の生徒のことばかり気にかけているのは、少しだけ後ろ暗い。前にも言ったが、俺にも教師としてのプライドがあるのだ。
しかし、その声と近づいてくる足音が、大川のものだと知れると、飛び出した心臓は元の場所にすんなりと収まった。
「なんだよ、いきなり。気配が全然しなかったぞ」
冗談交じりに言うと、白衣の裾と、長くしなやかな黒髪を秋風になびかせながら、大川は俺の隣にやってくる。
「別に気配を消したつもりはないわよ。それを言うなら、桜井くんがぼんやりとしていたんでしょ」
大川はにべもなくそう言うと、手すりから身を乗り出すように、眼下に広がる街の景色をぐるりと見渡した。
「初めて、ここの屋上に上がったけれど、見晴らしいいのね。わたしたちの通ってた、高校とは大違い」
「そりゃ、俺たちの母校は街のど真ん中にあったからな」
ふと、十年近く前に通っていた、母校の屋上を思い出す。あのころから、屋上という場所そのものが俺にとって、聖域だった。ただ、屋上へあがるための鍵は、俺の持ち物ではなく、職員室からくすねたものであり、今思えば、立派な軽犯罪だった。
「見えるのは、周りのビルに切り取られた、四角い空だけ。それなのに、桜井くんってば、毎日屋上で寝転がって、四角い空を見上げてたわよね」
「まあな。小さいころは、パイロットか宇宙飛行士になるのが夢だったからな。空を見上げてると、落ち着くんだよ」
「そう言って、授業をサボリまくってたのは、よくないと思うけど。それで、いっつも担任の百合子先生に目の敵にされてたじゃない。そんな桜井くんが高校の教師になった、なんて知ったら、百合子先生、きっと驚くわよ」
クスクスと、声を立てながら昔を思い出す大川。遠い日のことを、懐かしさというオブラートに包みながら語り合えるのは、俺たちが同級生であり、そして俺と大川が恋人と世間で呼ばれるような関係だったことの、何よりもの証だ。
だが、高校時代という遠い日は、俺にとって懐かしいだけのものではない。そこには、思い出したくない瑕も隠れているのだ。
「俺のことなんて覚えてねえよ」
ぶっきらぼうに返すと、大川はため息を吐き出した。
「そうかしら。そうやって、なんでも忘れたフリをしても、結局何も忘れられないことは、あなたもよく知ってることでしょ? だから、ずっとあの子のことを引き摺ってる」
「その話、また蒸し返すのか?」
大川は突然すぎる。話題を振るにしても、もう少しこちらの心の準備が出来るのを、待ってほしい。特に、彼女の言うことは、いつも的を射ていて、且つ、瑕を掘り起こそうとしてくる。
「蒸し返したくはないわよ。今のわたしとあなたの良好な関係を壊したくはないもの。でも、あなたが引き摺らなければ、わたしは無理して未練を断ち切ることもなかったんじゃないかって、時々思うことがあるの」
「未練……。まさか、俺たちが別れたのは、俺の所為だっていうのか? あれは、お互い別々の大学に進学して、ガキのままじゃいられなくなったから、自然消滅っしてしまったてやつだろう?」
大川がそんな風に思っていたなんて知らなかった俺は、驚きと共に釈明を口にした。しかし、大川は再びため息をついた。今度は、酷く重たいため息で、あっという間に、地上へと落下していく。
「意見の相違ってやつか……。でもさ、大人になったからって、相手のことを好きでいる気持ちに変わりはないわ。それが、恋とか愛とか、そういうものでしょ。もちろん、今となっては桜井くんのことを責めるつもりはないけれど、あなたがあのこのことを引き摺っていて、もしも宮野さんとあの子を重ね合わせているなら、それは見過ごせない」
大川の言葉を聞きながら、俺は煙を吐き出した。それも、大川のため息と同じように重たくて、あっという間に地上へと落下して、霧散する。
「前にも言ったけれど、引き摺ってなんかいない。そりゃ、最初に宮野を見たとき、あいつのことを重ねそうになったのはホントだ。でも、今は違うって、確信持って言えるよ。俺は、きちんと宮野美咲のことを見てる」
「あら! それってどういう意味かしら……まさか」
言いかけた言葉を、ごくんと飲み下した大川が、意味深ににやりとする。女という生き物は、時折六感が鋭く反応することがあるらしい。彼女の笑みは、まに六感が直感的に俺の内心を悟ったかのようだった。
俺は、あわてて取り繕っては見たものの、あわてればあわてるほど、ボロが出てしまう。ボロは、大川に確信を与えるだけだった。
「教え子に手出したら犯罪よ!」
大川が力いっぱい俺の背中をはたいた。ちょうど、タバコの煙を肺に吸い込んだばかりだった俺は、思わずむせてしまう。
「手なんか出さねえよ!」
怒鳴り声を上げてはみたが、さすがに、女である大川に手を挙げるわけにも行かない。そういう俺の性分を知る大川は愉快そうに、けたけたと笑った。そうやって、人のことをからかうのは、あのころと変わっていない。
「でも、ちょっと妬けるな。もしも、あなたの心に空いた穴を塞いでくれる人がいるなら、それはわたしだと思ってたのに」
「ずいぶんと、しおらしいこと言うじゃないか」
「あら、これは本心よ」
どこまでが本気なのかよく分からない。大川は訝る俺の視線をいなすと、くるりと踵を返した。
「おい、もう行くのか。一体何をしに来たんだよ、お前」
「暇だから、ダベりに来たの。ほら、いつもはわたしの聖域にあなたが来るばかりじゃつまらないじゃない。だから、今日は、わたしがあなたの聖域にお邪魔しようって思っただけよ」
白衣を翻す大川は、後姿を見せたまま言った。心なしか、大川の声が上ずっていることに気づいたが、その理由はよく分からず、俺は「なんだよそれ」と返すしか出来なかった。
と、その時だった。
大きな音を立てて、屋上の扉が開け放たれる。予期せぬ来訪者の登場に、千客万来なことだなどと、落ち着いている場合ではない。俺の手には、まだタバコが握られている。それを、慌てて携帯灰皿に突っ込もうとした俺の手を、予期せぬ来訪者は声でさえぎった。
「先生っ、桜井先生! 大変ですっ」
肩で息しながら、俺の名を呼ぶ来訪者は、宮野美咲だった。
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