17. 夏の終わり
水遣りを終えて、ホースを収めるため、校舎裏にある倉庫へ向かっている途中だった。
「桜井先生!」
と俺を呼ぶ息を切らせた声と、駆け寄ってくる足音が、宮野のものだと気づいた俺は、片付けの手を止めて振り返った。目にも鮮やかな、淡い白色のワンピースは、宮野の儚い印象に似合いすぎていて、思わず声を失った。
正直に言えば、蝉の鳴き声と夏の風にゆれるワンピース姿の宮野は、草原にぽつんと咲く一輪の小さな花を思わせるほどに美しく、見とれてしまったのだ。そもそも宮野の私服姿を見るのは、これが初めてだ。思えば、出会ってからずっと、いち生徒である宮野のイメージは制服姿に固定されていて、宮野が普段どんな服装をしているのかなんて、考えたこともなかった。
「先生、それ……」
何をそんなに緊張しているのか、ずいぶんと声を震わせながらも、宮野は目敏く俺の手に握られた、水遣りのホースに気づいた。
「もしかして、先生。ずっと花のお世話をしてくれていたんですか?」
「世話って言っても、水遣りだけだ。それに、お前のためじゃなく、折角、味気ない中庭の花壇に植えた花のためだ」
俺は、内心を悟られたくない一心でうそぶいたのだが、宮野は深々と頭を下げて「ありがとうございます」と慇懃な礼を返してくれた。
数十分前、大川と話をしていたときには、後期の始まる九月を前にして、こんなにも早く宮野と再会し、言葉を交わすことになるなんて思いもしなかった。それだけに、宮野の私服姿以上に俺は驚きに包まれ、それを覆い隠すので一生懸命だった。だから、つい嫌味他らしく聞こえるような言葉が、零れ落ちる。
「そろそろアルバイトの時間じゃないのか? こんなところで油売ってると、遅刻するぞ」
「アルバイトは、小鳥さんに変わってもらいました」
「小鳥に……?」
予想外の返事に小首を傾げると、ちょうど俺が大川と話しているそのとき、宮野は小鳥との間にあった出来事を聞かせてくれた。
小鳥の本名が小鳥遊花乃だということは、少し前、夏休み中の職員会議で、全校生徒の名簿を閲覧した際に知った。同時に、彼女が宮野のバイト先、つまりタカナシ・フラワーショップ店長の娘であることにも気づいた。もちろん、宮野はつい先ほど小鳥自身の口から聞くまで、その事実を知らなかったわけだから、タカナシ・フラワーショップをバイト先に選んだのはほとんど偶然だっただろう。
そして、小鳥との和解……そもそも喧嘩はしていないが、それによって誤解が解け、二人の間に真の友情が芽生えたことを語る宮野は、心なしか声が踊っているようだった。
「で、お前はなにをしに来たんだ? まさか、そのことを俺に教えるために、わざわざ来たのか?」
「そのっ、小鳥さんに教えてもらったんです。アルバイト店員なんて、他に代わりならいくらだっているけれど、先生にわたしの気持ちを伝えられるのは、わたししかいないって」
「気持ち? それで、私服のまま校門をくぐった、てわけか?」
とんだ不良だな。茶化すつもりで付け加えると、宮野は眉をハの字にする。彼女のわかりにくい顔色を、あえて確かめるまでもなく、夏休みにわざわざ校門をくぐって、俺の前に現れた理由くらい、すでに察しついていることだ。しかし、俺の言い草でその決意をくじくのは、教師である以前に、だいの大人として認められることではないだろう。
「いや、冗談だ。お前が真面目すぎるほど、真面目だってことは、よく知ってる」
「そんな、真面目なんかじゃありません……」
少しばかりの微笑を浮かべてやったものの、謙遜のつもりなのか、宮野は肩を落とした。
「受験勉強にバイトに部活、ほとんど三重生活を、ぶっ倒れるまで、ひとつも手を抜かないなんて、真面目過ぎるだろう? 俺にはそんな真似できないな」
「だって、わたしのわがままではじめたことだから、わたしがやらなきゃいけないことなんです。そうしなきゃ、わたしは前に進めない……」
「そう思うことが真面目だってこと。言い換えれば、肩に力が入り過ぎてる。何事も、がむしゃらにやって、自分を追い込むのも、いいけど、二十四時間そんな体育会系じゃあ、ぶっ倒れるのも無理はない。そうだろ?」
俺の問いかけに、宮野は何も答えなかった。どう答えていいのか分からないのだろうか。沈黙が、宮野の心境を表して、さわさわと揺れる裏庭のポプラの木立が、宮野の白いワンピースに柄をつける。
「先生は、どうしてそんなに優しいんですか?」
唐突な宮野の言葉に、今度は俺が答えを失う番だった。宮野に優しくしているつもりはなかったが、宮野の目には、俺が優しい先生と映っていたのを、そのとき初めて知った。
「別に、優しいつもりはないんだけどな。でも、お前の弟じゃなくても、お前のことが心配になるさ」
俺はホースを倉庫に片付けると、改めて棘のない言葉を選ぶように言った。
「なあ、宮野。お前の言う、やらなきゃいけないことって、何なんだ? ただ花を植えて、中庭の花壇を綺麗にするだけじゃないよな? それって、倒れるくらい自分を追い込まなきゃいけないことのか?」
彼女がどう思おうとも、宮野に問いたださなければならない。なぜなら、彼女が園芸部の活動を始めたいといったことも、弟に迷惑をかけながらも倒れるまで無理をしたことも、ただ庭造りや花が好きだから、という理由だけではないような気がしてならないからだ。もっと他の理由……それが「やらなきゃいけないこと」という言葉に集約されているのなら、園芸部の顧問となってしまった俺には、知る義務がある。
だが案の定、宮野は口を真一文字に結んで、何も答えない。そこで、俺は核心を突くつもりで、その花の名を口にした。
「エリカ……」
中庭の花壇、その一番端に植えた、季節外れのヒースは、別名そう呼ばれている。しかし、そのエリカにいったい何があるのかは、宮野だけが知っていることで、おおよそ見当が付くようなものではない。
「たしかに、エリカはこれからの季節に花芽を咲かせる花だが、植え付けの時期が遅すぎたな。きっと芽吹きはしない……」
「いいえきっと、芽吹きます。わたしの想いが届いたら、きっと花が咲くはずなんです!!」
俺の言葉をさえぎるように、宮野は声を荒げた。そこには、いつもの頼りなさは微塵もなかった。
カマをかけたわけではなかったが、どうやら彼女には図星だったようだ。それと同時に、俺の予想通り、ヒースの花こそが、中庭の花壇……「宮野の聖域」の主役だった。
「そうしなきゃ、わたしは前に進めない! もう後ろを振り向きたくないんですっ。だから、花が咲かないなんて、言わないでくださいっ!!」
畳み掛けるように口走った宮野に、俺は小首をかしげた。
「想いが届いたら? 前に進めない? それはどういう意味なんだ?」
ありがちな、青春の悩み。少なからず、誰もが通る、とても抽象的で筆舌しがたく、非常に曖昧模糊としているが、高校生という多感な時期を過ごす本人たちにとって、切実過ぎる苦しみというものがある。それを乗り越えるのは、時間がすべて解決してくれるもので、大人になれば、そういう悩みはすべて忘れてしまうことが出来る、というよりは、もっと現実的な悩みや、乗り越えなければならない社会の壁にぶち当たるもので、そういう曖昧な感傷に浸っている余裕なんか、なくなってしまうものだ。
なにあろう、この俺自身も十年ばかり昔、通ってきた道だ。
だが、違う。宮野の青春を包み込んでいるのは、そういうありがちなものとは少し違い、夏風のさわやかささえも、どんよりとした梅雨に変えてしまうような、現実的な輪郭を帯びているようだった。
「言わなきゃ、ダメですか?」
質問に質問で返す宮野は、先ほどの勢いを失った。ただ、宮野の言葉の裏には、あの時と同じく「先生には関係ない」というニュアンスが含まれていることは、明らかだった。
「お前が何を思ってるのか、俺には関係ないことかもしれないけど、でも俺は、園芸部の顧問だ。そして、お前の先生だから、全く関係ないわけじゃないだろう?」
俺は、短くため息を吐き出すと、宮野に近づいて、彼女の頭にごんっ、と拳骨を落とした。ご時世がご時世だけに、そんなことをすれば教師としての資質を疑われかねないし、本格的な生徒と教師のトラブルに発展しかねない、と言う危惧があるから、普段なら生徒に手をあげたりはしない。
特別、と言えば語弊があるかもしれないが、すでに宮野は俺にとって特別な生徒であることだけは間違いなかった。だから、あえて彼女の頭をたたいてやった。もちろん、かなり手加減してやったから、宮野は痛みよりも、当惑した視線をこちらに向けてくる。
「ごめん、宮野。あのとき、むやみに怒鳴ったりして、大人気なかった」
「先生……?」
「でも、心配してるんだってことだけは分かってほしい。それと、お前が何を思って花を植えたのか、それは『やらなきゃならないこと』が実ったときに教えてくれれば、それでいい。それから、バイトは今日限り止めろ。教師として、これ以上生徒が日常生活や受験勉強に支障をきたしてまで、校則違反を続けることを見逃すわけには行かないからな」
どのみち、宮野のバイトは、店長の娘である小鳥が引き継ぐことになるだろう。そうなれば、宮野に出番はなくなる。本人もそのことが分かっていたから、小鳥にフラワーショップのエプロンを託したのだろう。
宮野はこくんと頷くと、小さな声で俺に言った。
「先生、ごめんなさい」
その一言で、俺と宮野の夏の間の短い諍いは幕を下ろした。それだけで、宮野という女の子の気持ちや考え方が、すべて分かったわけではない。あいも変わらず、笑顔の一つ見せない表情は、どこか固くこわばっているままだ。しかし、少しだけ、ほんの少しだけ俺と宮野の距離が縮まったような気がした。
「お互い様だよ」
と、言いながら俺は、先ほど拳骨を落とした宮野の頭を、軽くなでた。そんな宮野の、長い髪を揺らした風は涼しく、いつの間にか季節が夏から秋へと変わろうとしていることを、俺に知らせた。
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