15. 花壇の聖域
理科準備室の前を通る廊下の窓越しに見える、中庭の花壇に、ここ一月あまり毎日のように見かけていた宮野の姿はない。それもそのはずだ。俺が宮野の態度に苛立ちに任せて、彼女を中庭から追い出してしまったのだから。
立ち去る俺の背中に降りかかった、宮野の泣き声は、ずっと頭の中に張り付いて離れない。表情の乏しい、宮野のはっきりと分かる表情が、喜怒哀楽の「哀しみ」であったことは、胸をチクリと突き刺してやまなかった。彼女を傷つけたくない、そう思っていたのに、結局宮野を傷つけてしまったのかもしれないと思うと、俺まで悲しくなってくる。
もちろん、大人として、教師として、倒れるまで無理をした宮野を諌めるのは、当然のことだが、園芸部の解散という伝家の宝刀を抜いてしまったのは、大人気なかった、教師らしくなかったと後悔している。
だから、庭師が不在となってしまった花壇に、毎日水をやることが夏休みの日課となった。教師には、生徒ほど長い夏休みは用意されていない。ところが、授業のない長期休暇の仕事は、それほど多いものではなく、暇をもてあましてしまう。その空いた時間を有効活用するという意味合いもあったが、せめて、宮野の植えた花の種を枯らさないようにすることが、大人気ない態度をとってしまったことへの罪滅ぼしだと考えていた。
「まあ、伝わらなければ意味のないことだけどな」
誰に言うでもなく独りごちながら、中庭に設置された水道管に青いゴムホースをつなぎ、種たちにとっての命の水を撒く。シュッと音を立てて、シャワーノズルから噴出した水道水は、小さな虹を花壇の上に咲かせた。
虹を見つめながら、改めて花壇を前に思う。
花壇は、宮野にとっての聖域だったのかもしれない……。俺の屋上、大川の保健室と同じように。
雑草だらけで、土も乾いてしまった、見捨てられた花壇が、今は誰の目からも生きた花壇となった。崩れかけていたレンガの仕切りはすべて修復され、雑草を抜き去り潤いと栄養の与えられた土壌には、きちんと畝を作り、等間隔に種や球根が植えられている。
さらに宮野は几帳面な性格なのか、花壇のブロック単位に、小さなプラスチックのネームプレートを挿している。それには、如何にも年頃の女の子らしい、丸みを帯びた字で何の花が植えられているのか分かるように、花の名前が記されていた。
ほとんど、俺の知らない花だ。生物科の教師という職業柄、生き物に対する興味はあるのだが、俺の専門は動物であり、植物、とりわけ花には疎い。そんな、名も知らない花たちの中で、宮野が一際こだわりを見せていたのは、花壇の一番端に植えられた、「ヒース」という花だった。
どうして、宮野がヒースにこだわったのか、気になった俺は、学校の図書室で植物図鑑を紐解いた。
ヒースとは、もともとイギリスのとある原っぱの地形を示す言葉だったのだが、いつの間にか、そこに群生する花の名前になっていった。日本では「エリカ」と言う名前で呼ばれることが多い。冬に咲く花のひとつで、とてもポピュラーな品種らしく、一本の茎に小さな粒のような可愛らしい、赤や白の花を沢山つける。その種の植え付けは、大体四月ごろに終えておかなければならないらしい。そうして、半年近くの歳月を費やして、花芽を咲かせるのだ。ところが、宮野が中庭の花壇に、ヒースを植えたのは、七月の末。期末試験が始まる前のこと、つまり、俺と宮野が子ども地味た喧嘩をする前だ。遅すぎる植え付けは、芽を結ぶことはない。
現に、ヒースの植えられたあたりは、まだひっそりと静まり返り、芽のひとつも顔を出していない。
どうして、宮野は時期外れに、ヒースを植えたのだろうか? 他に植えたどの花も、きちんと植え付け時期を見計らっているし、宮野のガーデニングに対する知識は、素人の俺から見ても、確かなもので、勘違いしているとは考えにくい。
何か、考えがあってのことなのか、それを確かめることは出来ない。宮野は、不在なのだから。
もちろん、携帯電話という文明の利器を使い、宮野を呼び出すことは出来る。しかし、あれから気まずいままで、電話をかける勇気はまるでなかった。いい大人が情けないことだとは思う。思うのだが、宮野のことを思い出せば、胸が痛むばかりで、いっこうにダイアルする勇気が持てない。それは、相手が宮野だからなのかもしれない。いつの間にか、宮野の存在が俺の心に開いた穴に入り込んでいた。
だから、せめて今出来るのは、新学期に宮野が落胆しないよう、花壇を守ることだけだ。
そうした決心を胸に秘めた水遣りが終わり、ふと顔を上げると、理科準備室の前を走る廊下から窓越しに、いつの間にか大川がじっと俺を見つめている事に気づき、図らずも驚きの声を上げてしまった。
「やあね、人をお化けみたいに」
カラカラと笑う大川は、確信犯だった。俺が物思いにふけって水遣りをしているものだから、少しばかりいたずら心に火を灯したのだろう。
「まったく、声くらいかけろよ。俺が心臓麻痺で死んだらどうするんだ」
「何言ってんのよ。桜井くんみたいなヘビースモーカーは心臓麻痺より先に心筋梗塞で死んじゃうわよ」
べっ、と舌を出す大川の仕草は、どこか少女のように見える。昔から大川は、宮野と違って喜怒哀楽のはっきりしたやつだ。さらに言えば、口では大川に勝てないのも、昔と変わらない。
「そうしたら、お前の枕元に毎日立ってやるから、覚悟しろよ」
「あら、甲斐甲斐しいこと言ってくれるのね、桜井くん。首を長くして、その日を待ってるわ」
さらりと冗談に冗談で返しつつ、大川は「それにしても」と前置いた。
「毎日、宮野さんの花壇に水遣りしてるところを見ると、園芸部を止めるつもりはないみたいね。良かったわ」
すでに大川も蚊帳の外では居られなくなっている。俺が冷たいことを言って、宮野を泣かせてしまった後、彼女を落ち着かせたのは校医の大川だった。まあ、そのあとで散々愚痴を聞かされたのは、夏休みが始まったばかりのころだ。それからというもの、大川はことあるごとに、宮野と俺のことを気にかけてくれていた。
「良かったって、別に園芸部を再開すると決めたわけじゃない。それは、宮野の態度次第だ」
「今度、倒れられたら、責任問題になるから? 今回だって、教頭先生が目くじら立ててたものね。あの人は、なんでも事なかれ主義だから」
「それもあるけど……」
「あるけど、本気で宮野さんのことが心配なんでしょ。顔に書いてあるわよ」
大川が俺の顔を指し示す。確かにそうなのだが、他人に言われると、これほど恥ずかしいものはない。しかし、否定するには、大川の言うことは的を射ていた。なんだかんだと言い訳しても、俺が苛立っていたのも、大人気ないと分かっていながら、冷たい言葉を投げかけてしまったのも、本気で宮野のことが心配だったからだ。
「ホントはね、宮野さんが泣いているのを見て、わたしは、ちょっぴり安心したのよ」
「はあ? 何言ってるんだよ」
安堵したような声と思いもかけない大川の言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。生徒が泣いているのを見て、安心したとは何事か。俺は、夏休みの間中、宮野の泣き声が頭から離れないというのに。
「いやいや、そうじゃなくって。ほら、もしも桜井くんがあの子と宮野さんを重ねあわせてるなら、やめたほうがいいって、言ったことがあったでしょ。でも、桜井くんはきちんと、宮野さんのことを見てた。だから、安心したのよ」
そういえば、そんなことを言われて、危うく大川と喧嘩しそうになったことがあるのを、俺は思い出した。
「宮野さんはとてもいい子よ。きっと、あなたに心配かけたことを反省しているわ。だけど……宮野さんは、わたしたちの知らない過去に、ずっと縛られてもがいている。それに応えてあげられるのは、多分、同じように過去に縛られているあなたしかいないんじゃないかしら」
大川は意味深な言葉を付け加えると、くるりと踵を返して窓辺から離れた。大川が何を言っているのか、そのときはよく分からなかった。
だが、宮野が笑わないことも、俺が宮野のために園芸部を設立したのも、、宮野が俺と同じように心に穴を持っているからだとしたら、彼女はいったいどんな過去に縛られているというのだろう。それを知りたいけれど、問いただすべきではないと言うことだけは、分かっている。それは、ごくごくプライベートなことだ。
そんな俺に出来ることは、もしも、宮野が素直に反省してくれるなら、園芸部を再開することだけだ。そのために、俺は花壇を……宮野の聖域を守る。
ご意見・ご感想などございましたら、お寄せください。