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14. 子犬のリコリス

 わたしがわがままな所為で、桜井先生と喧嘩をしてしまいました。

 先生は優しくて、絶対に怒らないとタカをくくっていたのに、わたしを叱り付ける先生の怖い顔と声に、胸の奥に空いた穴が押しつぶされてしまうほど、苦しくなりました。

 ごめんなさい。その一言を言うべきだったのかもしれません。でも、言葉より先に出てきたのは、ポロポロとこぼれる涙でした。

 どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、よく分かりません。本当はわたしが悪くて、泣いちゃダメなんだって分かっています。それに、先生なんて「計画のために利用する駒」くらいに思っていたはずなのに、冷たい言葉と共に去っていく先生の後姿を見つめていると、呼び止めることも出来なくて、どうしようもないくらいの悲しみがわたしに襲いかかってきました。

 とうとう涙をとめることが出来なくて、子どもみたいに泣きじゃくって、大川先生にまで迷惑をかけてしまったわたしは、とても悪い子です……。

 そうして、芳しくない期末試験の結果と共に、暗い気持ちを引き摺ったまま、高校生活最後の夏休みが始まりました。

 夏休みになったら、受験勉強の息抜きとかこつけて、小鳥さんと海に行く約束をしていました。でも、小鳥さんとはあれ以来、口を利いていません。わたしが、彼女を避けるようにしていたからです。すると、自然にわたしと小鳥さんの距離は開いて行って、お互いに気まずい雰囲気だけを漂わせるようになりました。今更、海へ行く、なんて約束は反故同然です。

 そして、園芸部も活動停止となりました。夏は、蝉が鳴くように、動物が生を謳歌する季節でもあるのですが、逆に植物にとっては冬と同じくらい厳しい季節だということは、あまり知られていません。なぜなら、向日葵は、空に向かって太陽のような花を咲かせ、木々の緑はよりいっそう深くなるからです。だけど害になる虫や、照りつける太陽の日差しによる水不足など、わたしたちがちゃんとお世話しないと、花はあっという間に枯れてしまうのが、夏という季節です。

 先生の忠告を聞いていれば、試験中に倒れずに済んだし、園芸部も活動停止にならなかったし、成績だってもう少しマシになったと思います。計画のために、無理をして、結局優しい先生を怒らせてしまったのは、全部わたしの所為なんです。言い訳する余地だってありません。

 気がかりなことは、試験前に植えた種たちが、今も無事でいてくれるかどうかです。それを確かめたくても、中庭を管理する先生を怒らせてしまったわたしは、中庭に立ち寄ることも出来ません……と言うのは、ほとんどいい訳です。教員の先生方は、夏休みでもお仕事があるので、わたしが学校に行けば、間違いなく桜井先生と顔をあわせることになるでしょう。そのとき、わたしはどんな顔をしたらいいのか分からない、というのが本音でした。

 でも、それとは反対に、桜井先生に会えないことが、とても寂しくて、ジレンマみたいなものを抱えたまま、わたしは、受験勉強さえも手に付かない怠惰な夏休みを、クーラーの効いた部屋の中で、鬱々としながら、悶々としながら過ごしていました。そして、先生にもらった麦わら帽子を手にベッドに寝転がり、天井を見上げて一日を過ごしていると、あっという間にアルバイトの時間になってしまいます。 

 その日も、怠惰で無駄な一日を過ごし、アルバイトに行く時間になり、あわてて洗濯したてのエプロンを詰めたバッグを手に、玄関で靴を履いていると、ちょうど部活帰りの汗臭い透が帰ってきました。

「ただいま。姉ちゃん、バイト行くの?」

 と言う、透の問いかけにわたしはこくん、と頷きました。すると、透は少しだけ顔を曇らせました。

「園芸部やめたんでしょ? だったら、もうバイトなんてしなくていいじゃん。お小遣い足りないの? だったら、ぼくのを分けてあげるよ」

 矢継ぎ早に、透はそう言って、何故かわたしを通せんぼします。

 透の言うとおり、園芸部は活動停止になったから、もうアルバイトを続ける理由なんてありません。別に欲しいものはありませんし、お仕事で不在がちな両親は、せめてもの罪滅ぼしと、わたしと徹ににお小遣いだけはきちんと毎月手渡してくれます。だから、お小遣いにも困っていません。

 それでも、わたしがアルバイトを続ける理由は、タカナシさんと働いている時間だけは、先生のことを忘れられるからです。忘れたくないけれど、忘れてしまわなければ、夏休みが終わったあとも、わたしはどんな顔をして先生に会えばいいのか分からなくなってしまうような気がするのです。

 そんなこと、恥ずかしくて透にいえるわけがなく、わたしは少しだけ声のトーンを落として「急いでるの」と、言いました。でも、透はやっぱりわたしを通せんぼします。

「また、ぶっ倒れちゃうよ。姉ちゃんが倒れたって聞いて、父さんも母さんも心配してたんだ。もう、バイトなんか辞めなよ」

「大丈夫だよ。もう倒れたりなんかしない」

 そう言いながら、ふとわたしは、先生の言葉を思い出していました。

 先生と喧嘩した日、先生がこぼすまで、全然知らなかったことです。透はわたしの知らないところで、先生に会っていたみたいです。そして、わたしに園芸部をやめさせるよう、掛け合ったみたいなのです。

 以前のわたしならきっと、余計なお世話だと言って、透を叱り飛ばしたかもしれません。でも、自分でも分かるくらい、以前のわたしと今のわたしは別人です。それは、心に穴が開いた所為なのかもしれませんが、その時わたしは、そんなこと関係なく、何で透が園芸部やアルバイトを辞めさせたがっているのか、透の本心が分からずに、困ってしまいました。

「あのね、透。心配してくれてありがとう。でも、ホントに大丈夫だから。アルバイトするのが楽しいから、行くの。だから、道を開けて」

 ちょっとだけ語気を強めると、透はしぶしぶ道を譲ってくれたので、わたしは夏の日差しが照りつける中へと、玄関を出ました。

「行ってらっしゃい」

 という透の視線が、背中に突き刺さるような気がしましたが、振り返らないように、わたしはタカナシ・フラワーショップへの道を歩き始めました。

 住宅街から公園の中を、鴨の浮かぶ池を横目に素通りに、土手沿いの道を国道へ出て、しばらく歩いて歩道橋を渡った先、表通りから一本入った商店街にある、タカナシ・フラワーショップまでは、徒歩二十分の道のりです。あいにく、わたしは自転車を持っていませんし、家の近くの停留所からバスに乗ると、少し遠回りになってしまいます。なので、たとえアスファルトが溶けてしまいそうな夏の日差しの下でも、徒歩だけがわたしの交通手段でした。

 あたりを埋め尽くす、何重奏もの蝉の鳴き声。街を通り抜けていく、ふわりと湿気を帯びた夏の風。雲ひとつない、昼下がりの青空。通りですれ違う人たちは、みんな汗を流しつつ、まるで日陰を求めているかのように足早です。

 そんな中で、わたしだけが場違いなくらいぼんやりと街並みや空を眺めながら、土手の上を歩いていると、突然背後から声がして、わたしは呼び止められました。

「宮野さん! ちょっと待ってっ」

 聞き覚えのある声にドキリとしながら振り向くと、わたしの思っていた通りの人が、土手をぱたぱたと駆け上がってきます。

「小鳥さん……」

 部活で日焼けした姿が夏に良く似合う、ショートカットの女の子の名をつぶやきながら、わたしは一瞬逃げ出しそうになりました。だけど、小鳥さんは息を切らせながら猛スピードでわたしの元まで駆け寄ってきて、逃げたすチャンスを失ってしまいました。

「リコリスの散歩してたら、宮野さんの後姿が見えたから」

 という、小鳥さんの手にはロープにつながれた、真っ白な毛並みの可愛い子犬がいます。リコリスというのは、きっと子犬の名前でしょう。リコリスは、うれしそうに尻尾を振り回しながら、わたしの足元に擦り寄ってきました。

「これからバイト?」

 思わず、撫でたくなる衝動を我慢しながら、小鳥さんの問いかけに頷きます。すると、小鳥さんは、いつもと変わらない明るい口調で、

「じゃあさ、国道まで一緒に行ってもいい?」

 と言いました。

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