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13. いさかい

 三日間続いた期末試験の最終日、宮野が倒れたことを知ったのは、その日の午後になってからだった。

 ちょうど、試験監督のシフトを終え、息抜きと洒落込み、大川自慢のコーヒーのご相伴に預かろうと思っていたときのこと。理科準備室に真っ青な顔をして飛び込んできたのは、宮野のクラスメイトだった。確か、生徒たちから「小鳥」と呼ばれている、宮野の友人だ。

 彼女の話によると、三年生に割り当てられた最後の試験科目は、宮野が苦手とする数学だった。最初は問題が解けなくて、うなっているのだと、誰もが思った。ところが、宮野の顔色はどんどん悪くなり、ついには机に突っ伏したまま、動かなくなったのだ。

 宮野のクラスの試験監督を務めていた教員が、心配になって宮野を揺すると、宮野は額に脂汗を浮かべながら、朦朧としており、すぐさま保健室へと搬送されたのだそうだ。

 小鳥から話を聞いた俺は、とるものもとりあえず、理科準備室を飛び出した。ところが、小鳥が付いてこないことに気づく。

「どうしたんだ? お前は行かないのか」

 と、駆け出した足を止めて振り向くと、小鳥は寂しげにうつむいていた。その表情には、先日三階の窓から身を乗り出して、宮野に話しかけた、明るい彼女の「らしさ」がなかった。

「そのっ、わたしは……」

 行けません、と小鳥の唇が動く。それだけで、宮野と小鳥の間に、何かがあったのだと言うことを悟るには、十分だった。あいにく俺は男だから、女の友情については、よく分からない。男には想像も付かないことで、あっさりと友情が瓦解したかと思えば、未練がましいじめじめ男も裸足で逃げ出すほどの、陰湿ささえ兼ね備えているのが、女の友情だ。

 もちろん、その主観さえ、男ならではの勝手な解釈にすぎない。とどのつまり、彼女たちの友情と言うものが、どんなものだったとしても、それは当人たちの問題だ。多感な時期の少女たちに、俺が問い質すようなことは、彼女たちのためにも良くないことだ。

 だが、教師としては放っておくわけにもいかない。少なくとも、小鳥は宮野のことを心配しているということを伝えてやることくらいは、出来るだろう。

「お前が気にしていたって、伝えておくよ。試験も終わったんだ、お前はとっとと家に帰れ」

 と、俺が言うと、下を向いていた彼女の顔に少しだけ「らしさ」が戻った。

 俺は小鳥を残し、理科準備室を後にした。小走りに駆け抜ける廊下の窓越しに見えるのは、中庭の花壇。いや、宮野の花壇と言うべきだろうか。花の種を植えたものの、まだ土の中から芽を出しておらず、殺風景なままだった。

 ただ花が好きだから、園芸部を始めたわけではないのではないか? 

 今更ながらに、窓越しの花壇を横目に思った。園芸部を設立して以降、宮野はどこか駆り立てられるように、部活動に夢中だった。毎朝俺よりも早く登校して朝の水遣り、そして放課後はいたちごっこのように生えてくる雑草と格闘し、アルバイトに出かける。そして家に帰れば、不在がちな両親に代わって家事をこなし、試験勉強に、受験勉強。園芸部が運動部のように体力を使うような部活動ではないにしても、植物を育てると言うのは、思うよりも根気の要る大変な仕事なのだ。そうして、過労はついにピークを迎えてしまったのだろう。

 そんな大変な仕事を、無心になって続けている宮野の姿に、一抹の不安と彼女が園芸部を始めた本当の理由があるのではないかと気づいたのは、最近になってのことだ。

 ようやく分かってきた、表情に乏しい宮野の顔が、趣味に興じている顔ではなく、どこか思いつめたような顔に見えたのが、発端だった。

 部活の顧問である俺に隠し事をしている、というのは気に食わない。

 信用されていないということなのか? だから、再三の忠告にもかかわらず、ぶっ倒れるまで無理な生活を続けたのかもしれない。そう思うと、保健室までの道すがら、だんだんと苛立ちが募ってきた。

 だが、いきなりその苛立ちをぶつけるわけには行かない。ましてや、責任ある「顧問の先生」という立場だけが持つ、伝家の宝刀「園芸部の解散」を引き抜くのは、きっと彼女を傷つけるだけだ。その儚げな印象の少女は、そういったちょっとしたことでも、簡単に砕け散ってしまうような薄いガラス細工のように見えた。

「あら、桜井くん。なあに、とても怖い顔してるわよ」

 保健室の扉を開けた俺を待っていたのは、コーヒーカップ片手に安穏とした口調の大川だった。

「宮野がぶっ倒れたって聞いて……大丈夫なのか?」

「ええ、お薬飲ませて、ぐっすり眠っているから大丈夫」

 と、大川は白いカーテンのかかった簡易ベッドを指差した。

「わたしの見立てだと、試験勉強の寝不足と部活動の過労で板ばさみになって、とうとう電池切れを起こしたみたい」

 想像通りの診断。人間は無理をして体力の限界を超えれば、自分の意思とは関係なく、倒れてしまう。そうして、大事に至ってしまうことだってあるのだ。特に、成長の真っ只中にいる十代の少年少女は、そういったことに気を配らなければならない。それを知っていたから、俺は何度も忠告したのだ。無理はするな、と。

 再び湧き上がりそうになる苛立ちをぐっと抑えつつ、俺は大川の了承を取って、ベッドを仕切るカーテンをはぐった。

 宮野は静かな寝息とともに、真っ白な布団に包まって眠っていた。その姿は、本当に触れただけで簡単に砕け散って消えてしまいそうなほど頼りなく、思わず胸の隙間を締め付けられるようだった。

「先生……」

 宮野が俺の気配に気づいて、目を覚ます。うっすらと開けた瞳の奥が、じっと俺を見つめていた。

「すまない、起こしてしまったな」

 と俺が言うと、宮野は少しだけ頭を左右に振った。

「ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」

「そう思ってるなら、どうして俺の忠告を聞かなかったんだ」

 俺はため息混じりに、ベッド脇に丸椅子を寄せると、それに腰掛けた。

「部活にバイトに家事に勉強なんて、簡単に両立出来るわけがないじゃないか。みんな、少しずつ体を慣らして、きちんとした生活サイクルを身に着けていくものなんだ」

「わたし、体力には自信があったんです」

「元水泳部のエースだったからか? まる三年ほど、水泳から足を洗ったやつが、昔取った杵柄なんていうなよ。お前の弟が心配するわけだ」

「どうしてわたしが、水泳をやってたって知ってるんですか?」

 わずかな驚きの顔とともにそう尋ねられても、さすがに宮野の事を聞きまわったとは言えず、俺は「そりゃ、一応先生だからな」とお茶を濁した。だが宮野はそれほど気に留める様子もなく、

「でも、もうへっちゃらです。もう疲れは取れました。試験も終わったし、明日からもがんばります」

 と言って、ベッドから起き上がろうとした。その顔は、まったく懲りていない、というよりも、無理をすることを厭うつもりがない、と言っているようなものだった。そんな宮野に、折角押さえ込んだ苛立ちが、ふつふつと再沸騰しはじめた。

「だめだ! 今日をもって、部活は無期限の活動停止だ」

 少し怒気を織り交ぜた俺の言葉に、宮野の動きがぴたりと止まり、やや怯えた二つの眼が俺を見つめる。

「どうしてですか?」

「どうしてって、お前が俺の忠告を聞くつもりがないからだ。そもそも、お前の弟から、園芸部を辞めさせてほしいと頼まれているんだ。お前が園芸部を続けることで、しわ寄せが自分に来て、迷惑してるって言ってたぞ」

「透になんと言われようと、わたし、花を咲かせたいんです。咲かせなきゃいけないんです!!」

 今まで聞いた宮野の声とは比べ物にならないほど、はっきりと大きな声だった。きっと、カーテンの向こうで、俺と宮野の分のコーヒーを淹れていた大川にも聞こえただろう。

「それは、今じゃなきゃだめなのか? 卒業までには、まだ時間があるんだ。焦ることなんてないだろう。それとも、焦らなきゃいけない理由が何かあるのか?」

 宮野は、少しばかり複雑な顔をして押し黙った。焦らなければならない理由があることは明らかだが、口を開こうとしない。まるで話したくないと言っているかのようだ。そういう宮野の言葉と態度が、余計に俺を愕然をさせた。

 やや、長めの沈黙が、俺と宮野の間を通り過ぎていく。

「先生には関係ありません……」

 不意に聞こえた、宮野のつぶやきは、俺にとって最後通牒のようなものだった。

「そうか、俺のこと信用できないか」

 それと分かるように、沈黙を破る大げさなため息をつくと、宮野は今にも泣き出しそうになる。それでも、俺が厳しい言葉を連ねたのは、信用されていないという落胆だけではなく、宮野を傷つけたくないと思っていたことを、彼女自身がまったく受け取ってくれなかったことへの、ある種裏切られたような感情があったからだ。

「だったら、俺は顧問を降りる。園芸部も今日限りで解散だ。後は、お前の好きにすればいい。ただし、中庭の使用権は認めないぞ」

 勢いに任せて伝家の宝刀を引き抜き、いくつもの棘が付いた言葉を宮野にぶつけると、俺はカーテンをはぐった。大川がコーヒーカップを三つ、手にしながら、心配そうな視線をこちらに向けてきたが、俺は一瞥をくれただけで、出口の方へ向かった。

 背中に宮野の泣き声と嗚咽が聞こえてくる。

 まるで大人の態度でないことは分かっている。だが、ムキになる宮野の姿に、見たくないものを見せられたような気がした。それは、宮野のことではない……。

『お兄ちゃんには関係ない!』

 宮野に感じた裏切りを、ずっと前に感じたことがある。その瞬間、脳裏でこだまし続ける声と、宮野の言葉が重なり、胸に湧き上がった悲しい気持ちをどうしても、大人の理性では抑え切れなかった。

 俺は、宮野の鳴き声に、後ろ髪惹かれる想いを断ち切って、保健室を後にした。そして廊下に出てから、小鳥が心配していた、と伝えそこなったことを思い出した。  

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