11. プレゼント
宮野が大きな青いプラスチックの籠を、重たそうに花壇まで運んできたのは、期末試験が始まる少し前だった。籠の中には、聞いたこともない花の種と肥料の袋がぎっしりと詰められていた。それは、初めてのアルバイト代で、宮野が購入したものらしい。
相変わらず宮野は、疲れた顔をしていたが、それにも増して、ようやく目的のものを手に入れられた喜びに、心なしか嬉しそうでもあり、分かりにくい表情ながらも、そうした顔は夏の景色に良く似合っていると思った。
そう、季節はようやく梅雨の湿り気が消え、代わりに、今年も猛暑を予感させる、夏の熱気と蝉の声がざわめきはじめている。
「そうだ、お前にプレゼントがあるんだ」
俺は籠を受け取りながら少しだけ微笑んだ。ノリのいい近頃の生徒たちなら、「お金くれるの?」などと、可愛いげのない冗談を言うのだろう。しかし、宮野はそういう子ではなく、きょとんと小首を傾げてみせる。
当然のことだが、教師が生徒にプレゼントを渡すのは、あまりよろしいことではない。平等こそが教育の根幹であることは、小学校の教師だろうが、高校の教師だろうが、変わりないことだ。だが、取るに足らないプレゼントなら、たいした問題ではないだろう、と俺はプラスチックの籠を地面に置くと、後ろ手に隠し持っていた帽子を、宮野の頭に載せてやった。白いリボンがあしらわれた、すこし色あせた麦わら帽子だ。
「先生、これどうしたんですか?」
驚きを表情ではなく言葉で表した宮野に、俺はにっこり微笑むと、右手を庇代わりにして、空を見上げた。真っ青な夏空には、雲ひとつなく、西の空に傾き始めたにもかかわらず太陽から、じりじりとした日差しが降り注いでいる。
「期末試験も近いんだ。それに、受験生にとって本番の夏休み前に、熱射病で倒れたくないだろう? 俺や大川が、いくら無理はするなって言っても、聞く耳持たないみたいだし」
苦言を呈するつもりはなかったが、宮野はうつむいて「ごめんなさい」小さく言った。
「そう思ってるんだったら、せめて部活動の間だけでも、麦わら帽子を被ること。いいな? 約束だ」
「でも、こんなもの頂くなんて……悪いです」
宮野は明らかに恐縮したようだった。たかが、麦わら帽子のひとつで、遠慮するなんて、本当にいまどきの高校生とは思えない。それが、宮野らしい、と言えば宮野らしいところなのかもしれない。最初は、ずいぶんと根暗で、何を考えているのか分かりにくい子だと思ったが、こうして共に園芸部の部活動をするようになって、少しずつ宮野のことがわかってきたような気がする。
「いいんだ、そいつは妹のお下がりだ。だから、遠慮しないで使ってくれ」
「え? 先生って、妹さんがいらっしゃるんですか?」
「ああ、まあな」
当然の質問に他意はないのだろう。しかし、急に胸の奥がザラザラし始める。その話題に触れたくない……。
「お前だって、弟がいるじゃないか。世の中、一人っ子ばかりとは限らないぞ。さあ、そんなことより今日はどうするんだ? 早速、花の種を植えるか? とっととやらないと、あっという間に下校時間になるぞ」
「そうですね」
宮野は頷いて、用具入れから手鍬を取り出す。俺は、そんな宮野の後姿に、ほっと胸をなでおろした。わざと妹の話題を避けるようにしたことが、宮野にバレたかと思った。だが、俺の内心など宮野が知るはずもなく、彼女は振り返ると、帽子の鍔を持って、
「先生。麦わら帽子、ありがとうございます。妹さんにも、お礼を言っておいて下さい。大切に使わせていただきますって」
と言う。再び胸をなでおろした俺は「ああ」と、あいまいで短い返事を返した。
本当は、妹のことを口にするつもりはなかった。ただ、遠慮する宮野の顔を見ていて、つい口走ってしまったのは、多分俺のミスだ。俺に妹がいることを知っているのは、この学内で大川だけで、特別秘密にしているつもりもないが、話したくもない。大川の言うとおり、やっぱり俺は引き摺ったままなのか……。そう思うと妙に、心に開いた穴が、ざらついてくるのだ。
その乾燥した感覚を押さえ込むように、俺は花壇を耕した。
園芸部設立から、花壇を荒らす雑草を抜き、何度か土を掘り返し、水を与え、俺の心と同じようにカラカラ乾燥した土に、元気を取り戻させてきた。そうして、ついに花壇に花の種が植えられる……と、思ったのだが、その前にきちんと肥料をやって、土に栄養を与えなければならないらしい。
そもそも、長い間放置された花壇の土は、とてもやせ衰えていた。それこそ、雑草に養分を吸い上げられ続けていたのだ。しかし、人間ず思うよりも自然と言うのは逞しいもので、宮野がこの中庭の花壇に花を植えようと思い立ったのも、花壇の土に再生の余地があると思ったからだそうだ。
もっとも、その土を掘り返し、栄養を与える俺と宮野には、この土ほどの再生力があるかどうかは疑問だ。俺の心に穴が開いているように、宮野も何かしら、俺の知らないものを抱え込んでいる。そんな風に見えるのだ。
その根拠は、少し前に遡る。
まだ、宮野美咲という生徒のことがよく分からなくて、教師としてどう接してやるべきか悩み、名簿で調べた、彼女の中学時代の同窓生たちに、宮野のことを尋ね回ったたことがある。その生徒たちは、それほど宮野と親しかったわけではないらしい。しかし開口一番、
「宮野さんって、なんだか中学のころとすごく変わった」
と俺に話して聞かせた。
「中学のころの宮野さんって、水泳部のエースで、明るくてよく喋る子だった」
「そうそう、高校に上がる前くらいから、別人みたいになったよね」
「根暗で喋んないから、違う人かと思った」
口々に、生徒たちの言う言葉に、耳を疑いかけた。宮野が明るくて、よく喋る? 口数が少なく、表情にも乏しい、今の宮野からではとても想像できない姿だ。
しかし、園芸部の活動を始めてから、宮野の言動の端々に、彼女がどこか自分を押さえ込んでいることに気づいた。それは、心の中に穴が開いて、ザラザラした不快な感覚を押さえ込もうと、屋上にばっくれて、タバコを吹かす俺とよく似ているような気がする。
まちがいなく、俺は引き摺っていても、身勝手に他人と重ねて宮野を見ているわけではない。似ていると言うのなら、宮野はあいつにではなく、俺に似ている。それこそ、俺と宮野は似たもの同士なんだ。
「先生? どうしたんですか。ずっと、わたしの顔を見て」
突然、麦わら帽子の下に、怪訝な顔の宮野が現れる。思わずぼーっとして、花壇に肥料をやる、宮野の横顔をじっと見つめていた。これじゃ、ただの変な人だ。
「いや、なんでもないよ。ただ、宮野がなんだか嬉しそうにしてるのが、可愛かったから」
空笑いしながら取り繕うと、宮野はすこし恥ずかしそうにほほを染めた。多分、今までで一番分かりやすい表情の変化だったと思う。
「先生って、そういう冗談言うんですね。先生、熱射病にならないでくださいね」
ぷいっ、とまるで赤く染まったほほを隠すかのように、宮野はそっぽを向いて作業に戻った。そんな宮野のことを見ていると、俺の発言にも他意があったわけではないが、さすがに恥ずかしくなってきた。
ちょうどそのとき、天の助けとばかりに、空から声が降ってきた。
「おおーい、宮野さーん!」
声に呼ばれて、宮野と俺が顔を上げたのは、ほとんど同時だった。きょろきょろと見回して、三階の教室から身を乗り出して、こちらに手を振る女の子を見つけた。
確か、彼女は宮野と同じクラスの生徒だ。宮野とは好対照なくらい、顔一面に笑顔の花をさかせていた。名前はなんと言ったか……みんなから、小鳥と呼ばれていることは知っているが、授業受け持ちの生徒ではないため、それ以上は思い出せない。
「宮野さーん! もうじき下校時間だよ。一緒に帰ろう!」
そんなに大声出さなくてもいいのに、小鳥の良く通る声は、反対側の校舎にまで反響して、中庭全体に響き渡った。
「今からそっち、行くね!」
宮野が何の返事を返していないにもかかわらず、小鳥はそう付け加えると、窓辺から姿を消した。しかし、宮野に話しかける生徒がいるというのは、驚きだ。もちろん、宮野にだって、友達がいてもおかしくはない。しかし、宮野がいつも一人ぼっちだったのも事実だ。
「今の、友達?」
園芸用具を片付けながら、俺が尋ねると、宮野は頭を左右に振った。その直後である。少し息を弾ませながら、パタパタと足音を響かせて三階から降りてきた小鳥が、俺たちの前に現れたのは。
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