1. 屋上の聖域
初めまして&こんにちわ。
本作を目に留めていただきありがとうございます。
「春になったら、会いに行く」(タイトルが長いので略して「はるあい」と呼んでください)は、約一年ぶりの恋愛小説になりますが、互いの視点を交互に描いていく、など新しい切り口に挑戦した小説です。
奇数回が「桜井先生」の視点、偶数回が「美咲」の視点で進んでいきます。ぜひ、最後までお付き合いいただけたらと思っております。何卒、よろしくお願いいたします。
学校敷地内は全面禁煙。現校長が、校内の風紀を厳しくし、校内の美化を推し進めるために発表した。校門をはじめ、至る場所にプラスチックのプレートに書かれた、タバコ禁止のマークと「No Smoking!」の簡素な文字。
もっとも、高校生は喫煙をしてはならないと法律に書いてあるし、ウチの学校にそういうやんちゃな生徒はいない。県内でも有数の真面目な公立高校として知られているくらいだ。校内の美化どころか、月に一度、生徒たちがお世話になっている地域への恩返しと称して、ゴミ袋片手に町内を練り歩く。
要は、全面禁煙のご命令は、俺たち教師に対する命令である。
折りしも、テレビでは健康志向の高まりを報じ、タバコにかかる税金も上がっているご時世、二十年以上愛煙家だった人まで、喫煙をやめている。しかし、つい数年前にタバコの味を覚えた俺としては、まったく禁煙するつもりはなく、肩身が狭い思いはこの上なかった。
だから、いつも誰にも見つからないようにこっそりと屋上に上がる。屋上は立ち入り禁止の区域。危険な場所だから、生徒たちの安全を思えば当然のことなのだが、おかげさまで俺のような喫煙者には聖域となっていた。さらに言えば、屋上の鍵を管理しているのが、たまたま俺だったことも、ごく自然と俺に喫煙場所を与えた。
そうして、タバコに火をつけて、煙を空に吐き出す。
他人が言うように、美味いものだと思ったことは一度もない。煙なんか吸い込むことに、大した意義は感じられないが、それでもタバコを吸い続けるのは、吐き出す煙と一緒に、この体に鬱積した、「何か」を吐き出すことが出来るような気がするからだ。
その「何か」は、とてもザラザラしていた。砂漠の砂か、それとも砂場の砂か……とにかくそんな感じだ。それは、詰まらない日常とか、単調な日々とか、エネルギーを持て余している中学生みたいな感慨ではない。だいたい、俺は今年で二十六になる。もっと何か、大切なものを失って、ぽっかりと空いた穴に、風に乗せて運ばれてきた砂が、積もっていくようなイメージ。と、言っても本人にしか分からない感覚だろう。それを、タバコの煙にのせて、ふうっ、と空へ吐き出すのだ。
夏の気配とともに青く澄み渡った空に、一塊の白い煙が舞う。しばらくの間それは、俺の前を漂うと風に浚われてどこかへ消えてしまう。そうしたら、また煙を吐き出す。肺が黒くなっていく代わりに、空を白くしていくような作業。もっとも、空はとても広く、俺の灰は小さい。おそらく、俺の肺がヤニまみれでどす黒くなる前に、空が煙で白くなることはないだろう。
いやいや、そんなことは分かっている……。当たり前だ。
「こんなこと考えている時点で、すでに末期症状か」
呟いた俺は、少しばかり腕時計に目を投じ、時間を気にした。昼休憩が終わり午後の授業が始まるまでに、存分に煙を吐き出して、体に付いたタバコの臭いを落としておかなければならない。生徒たちの手前、全面禁煙のルールを守っていないことがバレると、教師の沽券に関わる。これでも、教師であると言う自覚まで、煙と一緒に吐き出したつもりはない。
ただ、何となく、トイレでこそこそタバコを吸っては、大人に見つからないように証拠隠滅を図る、不良高校生の気分だ。
「そういえば、そろそろ中間考査の問題を考えなきゃな」
誰に言うでもなく、また一人呟く。屋上には話し相手がいないのだから、必然的に俺の呟きは、独り言になる。教師になって四年。試験の時に気が重くなるのは、学生の頃と何一つ変わっていない。ただ、学生時代と違うのは、試験が怖いとか面倒というよりも、どうやったら、生徒たちの信頼と、他の同僚たちの信頼を保てるのかが、俺の気を重たくさせるのだ。
マニアックで難しい問題を作れば、生徒から「あの先生意地悪だ」と嫌がられる。一方で、簡単な問題ばかり出せば、同僚たちから「生徒に媚を売っている」と罵られる。ちょうどいい具合の設問を用意するのは、実はタイトロープの上をスキップで渡るくらい難しいのだ。
「いやになる……」
三度呟き、煙を空に向かって吐き出した。背を向ける校庭の方からは、生徒たちが休憩時間を満喫する、楽しげで明るい声と、ボールの跳ねる音が聞こえてくる。青春時代というのは、往々にして元気が有り余っているもので、それが声にも、一挙手一投足にも満ち溢れていて、キラキラと輝いているものなのだ。
若いっていいな、と思う。いや、この国の人口の大半を占めるお年寄りからしてみれば、俺だってまだ二十六なんだから、十分若いのだが、胸の奥にザラついた感覚を感じる俺は、とてもキラキラなんてしていない。
「さてと、そろそろ戻る準備をしないとな」
俺は、タバコの吸殻を携帯灰皿に押し込むと、足元に置いていた缶コーヒーを拾い上げた。コーヒーに含まれる消臭効果を狙って、タバコを吸った後には、コーヒーを一気飲みするのが習慣となっていた。コーヒー通に言わせれば、もったいない飲み方だが、それぼどコーヒー中毒ではない。コーヒーとタバコ、どちらがこの世から消えたら困るか、と言われれば「断然タバコ!」と答える。
なので、今日のコーヒーはミルクで割ったカフェオレだ。
校内には、教師と学生向けに、自動販売機が置いてある。ラインナップはそれほど多くはないが、コーヒーだけは何故か六種類も揃っていて、毎日違うコーヒーを楽しめる。ちなみに、職員室には備え付けのコーヒーメーカーがあるのだが、さすがにコーヒー通でない俺にも、インスタント特有の酸味走った味は、どうにも好きになれない。そういった意味では、自動販売機に六種類ものラインナップがあるのは、嬉しいことなのかもしれない。
俺は、プルトップを開き一気に、コーヒーを流し込んだ。ふと、空を眺めるのも飽きて、コーヒーの缶を片手に視線を落とす。
そこは、俺のいる北校舎と南校舎に挟まれた中庭。ほとんどが日陰になる場所で、芝生が植えられているにもかかわらず、生徒たちの姿は見受けられない。だから、なおさら中庭にぽつんと佇む、その女生徒のことが、目に付いてしまった。
もちろん、地上の彼女は、屋上の俺になんて気付いていないだろう。
「何してるんだ、あいつ……」
空になったコーヒー缶を握ったまま、俺はじっとその女生徒を見つめた。彼女が立つ場所は、ほとんどが日陰の中庭で、日中の間だけ日が当たる場所に作られた花壇だ。
しかし、日陰の中庭に生徒が寄り付かないため、煉瓦で仕切られただけの質素な花壇は、もう長い間放置されたままだ……と言うのは、古参の先生から聞いた話。そんな事を思い出していると、彼女は何を思ったか、おもむろに膝を折り、手が汚れるのも構わずに、土に触れた。
誰も寄り付かない花壇で、あの子は何をしているんだろう……。
一度気になると、問い質さなければ性分。そんな性分が俺にあったとは、などと驚きつつも、俺の脚はすでに階段を駆け下りていた。
よくある話で、俺が中庭に出たら、すでに彼女はいないという、ありきたりなすれ違いというヤツを懸念していたが、俺が中庭に出ると、彼女はまだそこにいて、撫でるように花壇の土に触れていた。その光景は、まるで一枚の絵画のようでもあった。
見るからに大人しそうで、他の女生徒とは明らかに違う。美人と言うには、まだ少女の面影を残し、長い黒髪を初夏の風になびかせるその姿に、触れれば消えてしまいそうなほど儚げな印象を感じる。
だが、受け持ちのクラスの生徒でもなければ、見覚えのないはずの横顔に、俺の心はざわついた。まるで、幻想でも目にしているかのような気分だ。分かっている、あいつじゃないってことくらい。似ているというほど似ているわけでもないし、あいつはもう……。
「桜井先生?」
気づいた彼女は、咄嗟に立ち上がって、俺の名を呼んだ。随分可愛らしい声で、ともすれば校庭から中庭にまで響き渡る、休憩時間を楽しむ生徒たちの声に掻き消されてしまいそうだった。
「そんなところで、何してるんだ?」
俺は幻想を振り払うように二、三度頭を振って、気を取り直すと、女生徒に問いかけた。おもむろに立ち上がった彼女は、少しばかり困ったような顔をして俯く。俺の口調から、怒られたと勘違いしたのだろう。
なにせ、喫煙者の聖域ならぬ屋上の鍵と、中庭の花壇の管理は、俺に与えられた役目だ。言ってみれば、花壇の管理者たる俺の許可なく、花壇に足を踏み入れているのは、彼女の方なのだ。
「べつに、怒ってるんじゃないんだ。誰も見向きしない花壇で、君が何をしていたのか、それを知りたかっただけだ」
なるべく声のトーンを落としてやる。すると彼女は、意を決したかのように、ぎゅっと拳を握り締めた。顔をあげた彼女の口から飛び足した言葉は、俺の予想もしていなかったことだった。
「あの、わたしにこの花壇に花を植えたいんです! お願いします、桜井先生!!」
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また、次回は「美咲」の視点となります。