いっしょに図書館
通い慣れた図書館に向かうのがきょうは怖かった。
やましい影を背負うと、いつも心地良く感じる空間も針のむしろに感じてしまうからだ。
「しまった……、うっかりしていた。わたしのバカバカ」
学校のラベルの貼られた文庫本、挟まれた紙に印字された返却期限はきのうのもの。その四文字と期日は、いくらぬぐっても消えることはなかった。
たった一冊なのに、たった二、三日で読み切れるほどの長さなのに、貸し出し期間の二週間を過ごしてしまった失態。あのとき夏の誘惑に負けなければよかったとか、期間限定のパフェのために並ばなければよかったとか、早めに友だちのウチから帰ればよかったとか、後悔しても過ぎ去った二週間は帰らない。
以前から読みたかったこの本。やっと手に取ることの出来た一冊。だというのに、やりたいことが重なって、憧れの本と過ごす時間が削られたことは悔やんでも悔やみきれない。一日が二十五時間ぐらい、いや三十時間ぐらいあればよいのにと思ったことが、今までの人生の中でほかにあるだろうか。セミのうるさい校庭のベンチでわたしは一人で木陰でバッグを抱え込む。
「太田、なにしてんだ?」
聞き覚えのある男子の声。わたしを熟知した言葉のあやつり紐が、わたしの耳にきれいに絡んでくる。
平田だ。こいつは小さい頃から知っている、いわゆる『幼馴染み』ってヤツ。とにかく平田は小さい頃、野原という野原を走り回る『野生児』と言うのに相応しい子だった。短く切った髪に、ランニングの日焼けの跡が、鮮烈に脳裏に焼きついている。確か小学六年生の夏休み、市民図書館からの帰り道にて、平田がセミの抜け殻をわたしに見せ付けて恐怖のどん底に陥れたことはけっして忘れない。以来、セミの声が嫌いになったのだからね。
そんな平田もわたしと同じ高校生。その面影を消すことなく、わたしに小さいときの頃のように言葉をかけてきたのだ。平田の残す面影と同じように子ども扱いされるのは、どうしてもまっぴらだったので一言で返事する。
「教えない」
「なんだよ、折角高校でまたいっしょになれたと思ったのに、太田は小学校の頃から変わらんな」
「中学でやっと離れ離れになったと思ったのにね!」
平田はわたしに対していつまでも子ども扱いをしてくる。お互いもう高校生だというのに、『男の子』『女の子』という呼び方に恥じらいを抱えてくる頃だというのに、平田という男子はわたしの乙女心を逆なでするのだ。だって、四捨五入したら二人とも二十歳だよっ。立派な大人に一歩一歩近づいているんだよっ。
二人揃って同じ高校に進学してクラスも別れ別れになったが、同じ屋根の下で学んでいる宿命は必然的に顔を会わせることとなる。
小さな頃の平田はわたしの顔を見るたびに、いつもちょっかいを出してくるヤツだ。わたしのホームグラウンドが図書館なら、平田のホームグラウンドは昆虫集う森の中だ。そして、お互いの場所は必然的にお互いアウェイとなる。さらに、アウェイに飛び出した平田ほど厄介なものはない。せっせと図書館通いをする幼き日のわたしを「本の虫ー!」と、虫かご抱えて平田は笑っていたことは忘れない。
わたしがお年頃の子が大好きなファッション誌を参考にしてまとめたボブショートも、小学生の頃から付き合っている文学好きの証・メタルフレームのメガネも、ヤツにとってはわたしをおちょくるための道具に過ぎない。
ヤツからわたしに話しかけてくることは、寝ているネコにネコジャラシを仕掛けてくるようなもの。放っておけばおくほどヤツは調子に乗ってくる。だからといって構ってはいけない。しかし、平田の一言でわたしの腹づもりが変わった。
「一緒に図書館行かない?」
小さい頃『野生児』で通っていた平田が、おおよそ口にすることなかったような名称だ。『図書館』だなんて!わたしのメガネにひびが入る。ウソですけど。 行きたい!図書館に行きたい!でも、きょうは行けない。それでも、行かなきゃいけない。
わたしの胸のうちを見通したかのように、平田は言葉で背中を押してくれた。言葉は行動よりも幾らかの勇気を与えてくれる。勇気の受け取り方は人それぞれだけど、平田の言葉は悔しいけれど少なくともわたしを力づけてくれた。でなければ、平田に「いいよ」だなんて言わないからだ。
トートバッグを肩に掛けた平田の顔は、わたしが見慣れた顔をしていた。短い髪も、日に焼けた肌も記憶の底と同じもの。平田とトートバッグのイメージがどうも結びつかなかった。ただ、トートバッグを平田をおちょくるための道具にすることが、わたしには出来なかった。
平田の後について学校内別館にある図書館の入り口をいっしょに潜る。たった一日延滞しただけで、この部屋のすべてのものを敵に回したような気分になる。実際、わたしが延滞していることは図書委員以外の者は知り得ないはず。しかし、本棚の前に立つと他の誰かにわたしの過ちを見透かしているような気がして落ち着かない。
わたしが本を遅れて返してきたというわるい子です。分厚い全集で思いっきりお尻をぶっても構いません。本の神さまの気が済むなら、お好きなだけどうぞ。冷たい蛍光灯の光でさえもわたしに正義の仕打ちをしているかのように感じる。
「おれ、本を返してくるからさ……ちょっと、待ってろ」
平田はわたしが今いちばん近づきたくない『返却カウンター』へと、広い肩を揺らしてのそのそと歩いていった。
わたしは、遠くから平田を眺める。
別に平田のことを蔑むわけではないが、『野生児』が「本を借りていた」のだ、と思うと少し悔しい。セミの抜け殻を携えていたヤツが、驚いたことに本に持ち替えたのだ。
トートバッグから三冊の本を取り出して、返却カウンターに裏表紙を上に乗せた平田の背中は、やけに紳士的だった。会釈までしている。手際よく図書委員が本のラベルに印刷されたバーコードを機械で読み取ってゆく。知らず知らずのうちに、一冊一冊の動きをわたしは目で追っていた。
「三冊ですね」
何気ない図書委員の言葉にわたしは打ちのめされてしまった。
知っている。あの本、わたしは知っている。結構、あの本って分厚かったし内容も濃かったはずだ。でも、キチンと二週間以内で読破してしまっている。おまけに三冊もだ。本物の虫を追い回していた平田が、本の虫になっていたのだ。
平田が返却手続きを終えて、晴れやかな顔つきでわたしの元につかつかとやって来た。直接目を合わせるのは恥ずかしいので、平田を包む白いワイシャツの胸元に視線を向ける。
「結構、あの本……面白かったなぁ」
「そう、なんだ」
「太田も読んでみたら?ははっ、お前は本の虫だから、とっくに読んでいるだろうなあ。ゴメン」
謝りたいのはわたしだ。分厚い三冊どころか、一冊の文庫本さえ軽く扱ってしまったわたしは、地球上に存在する全ての本に土下座しなきゃならない。例え、それで本たちが許してくれても、ちゃんと彼らと向き合うことが出来るかわたしは自信がない。
「ところでさあ。面白い本、知らないか?教えてくれよ」
「なんで?」
「お前、本の虫じゃん」
わたしは返却期限を過ぎたこの文庫本を薦めようとしたが、その前にこの本を持って返却カウンターに並ぶ方が先だと悟り、平田の問いかけを無視した。
今年もセミがうるさい。
おしまい。