金銭感覚
彼ら夫婦は、何でもフルローンで買っていた。
家もフルローン。
車もフルローン。
家具もフルローン。
新婚旅行もフルローン。
欲しいものがあれば、買う。
それを借金して払っていく。
「今しかできないことってあるじゃん?」
それが、妻の口癖だった。
子どものための習い事も、旅行も、欲しがったものは何でも借金して支払った。
「子どもに我慢ばかりさせたくない」
そう言いながら、夫婦は収入以上の生活を続けた。
貯金はほとんどない。
それでも、何とかなってきた。
正確には、何とかしているつもりだった。
足りなければ借りる。
払えなければ分割する。
欲しいものは、未来の自分たちに払わせる。
そんな生活を、夫婦は長年続けてきた。
やがて、二人は離婚。
夫は数年後、再婚した。
新しい妻との生活は、以前とはまるで違っていた。
欲しいものがあっても、すぐには買わない。
大きな出費があるなら、先に貯める。
収入が減れば、生活を見直す。
借金が残っているなら、新しい借金はしない。
派手ではない。
けれど、穏やかな生活だった。
そんなある日、元妻から連絡が来た。
『留学することになったから』
夫は、子どもの進路が決まったことを喜んだ。
『そうか。おめでとう』
『一年間の留学』
『すごいな』
しばらくして、元妻から次のメッセージが届いた。
『費用、全部で三百万円くらい』
夫は画面を見つめた。
『そうか』
『あなたも半分出して』
夫は、少し考えた。
『いくら出せばいい?』
『百五十万円』
夫は、思わず画面から目を離した。
百五十万円。
今の自分の生活からすれば、簡単に出せる金額ではない。
まして、夫にはまだ以前の結婚生活で作った借金の返済も残っている。
子どもの学費と養育費も毎月欠かさず支払っている。
元妻から、さらにメッセージが来た。
『子どもの将来のためだよ?』
『あなたも父親なんだから、当然でしょ』
夫は、スマートフォンを置いた。
その夜、今の妻に話した。
「元妻から、子どもの留学費用を半分出してほしいって言われた」
「いくら?」
「百五十万円」
妻は、少し黙った。
「留学って、一年間?」
「ああ」
「本人が行きたいって言ったの?」
「そうみたいだ」
「それは、応援してあげたいね」
夫は少し安心した。
しかし、妻は続けた。
「でも、百五十万円は出せるの?」
夫は黙った。
「……無理だな」
「じゃあ、どうするの?」
「借りるしかないかもしれない」
その瞬間、妻の表情が変わった。
「また?」
夫は、黙り込んだ。
「また借りるの?」
「子どものためだぞ」
「うん。留学は応援したい」
「だったら……」
「でも、あなたが借金をしてまで払う必要あるの?その相談、されてたの?」
夫は何も言えなかった。
妻は、静かに続けた。
「あなたたちは、今まで何でも借金で買ってきたんでしょ?」
「……」
「家も、車も、旅行も、欲しいものも」
「そうだ」
「それで、今も借金が残ってる」
「……」
「その借金を返しながら、毎月の学費も養育費も払ってて、今度は留学費用のために、百五十万円借りるの?」
夫は、答えられなかった。
「あなたたちは、離婚したんだよね?」
「ああ」
「家計も生活も別で、何の相談もなかった元妻とお子さんたちが決めた三百万円の留学費用を、あなたが半分払う義務があるの?」
夫は、俯いた。
「子どものためだ」
「子どものためなら、子どもが決めたことなら、何の相談もなくても、言われるまま、また借金するの?」
その言葉に、夫は黙り込んだ。
かつての妻なら、きっとこう言っただろう。
「今しかできないんだから」
「子どもの将来のためなんだから」
「親なら当然でしょ」
そして夫は、また借金する。
しかし、今は違った。
夫は、初めて立ち止まった。
元妻に連絡した。
『留学の件、応援する』
『行ってほしいと思っている』
『ただし、百五十万円は出せない』
すぐに電話がかかってきた。
「あなた、父親でしょ!?」
「父親だよ」
「だったら半分払ってよ!」
「俺が出せるのは、三十万円まで」
「三十万円!?」
「それ以上は無理だ」
「あなたは再婚して幸せに暮らしてるんだから、それくらいの額、出せるでしょ!」
夫は、しばらく黙った。
「俺が再婚したことと、あなたが三百万円の留学費用をどう工面するのかは全く関係ない、別の話だろ」
「子どものことなのよ!?」
「分かってる」
「分かってないからそんなこと言えるの!」
「じゃあ聞くけど」
夫は、初めて元妻の言葉を遮った。
「三百万円かかることは、俺に相談したか?」
電話の向こうが黙った。
「留学先も、期間も、費用も、俺に相談したか?」
「子どもが行きたいって言ったから」
「それを決めたのは、あなたたちだろう」
「あなたも父親でしょ!」
「だから三十万円は出すと言ってる」
「少なすぎる!」
「俺が子どもに対して今支払える金額はその額だからだ」
「そんなの、あなたの気持ちがないだけじゃない!」
夫は、目を閉じた。
その言葉は、かつて何度も聞いたことがあった。
お金を出さない。
我慢する。
買わない。
借りない。
それらは、元妻からは、すべて愛情がないことにされてきた。
しかし、今の妻は違った。
「あなたが留学を応援したい気持ちは分かってる」
「……」
「でも、元妻が決めた三百万円を、あなたが借金してまで払う必要はない」
「……」
「あなたが払える金額を、あなた自身が決めればいい」
夫は、その言葉を聞いて、ようやく気づいた。
自分たちは、離婚した。
けれど、まだ元妻の価値観の中で生きていた。
欲しいものは、先に手に入れる。
払えない分は、誰かが何とかする。
「子どものため」という言葉を使えば、誰かが負担してくれる。
その誰かは、いつも自分だった。
元妻は、さらに言った。
「あなた今の奥さんに洗脳されてるんじゃない?」
夫は、思わず笑った。
「何が?」
「子どもの将来より今の家庭がそんなに大事なの?」
「そういう話じゃないだろう」
「じゃあ何?」
夫は、ゆっくり答えた。
「俺は、留学には反対していない」
「……」
「応援もする」
「……」
「でも、払えない金額を、借金してまで払うつもりはないだけだ」
「学費も養育費も渡している、足りない分は、その中で遣り繰りしてくれ」
「なにそれ?足りないから言ってるんでしょ」
その言葉に、夫は黙った。
元妻との結婚生活で、
家も買った。
車も買った。
新婚旅行にも行った。
欲しいものは全て買った。
だが、そのすべてが借金だった。
そして今も、その借金を返している。
夫は静かに言った。
「俺は今も、あなたとの生活で作ってきた借金の返済が残ってるんだ、その返済が終るまで、これ以上の額は出せない」
電話の向こうが静かになった。
「俺たちは、その時払えないものまで当然のように買ってきてた」
「……」
「子どものため、家庭のため、家族のためだと言って、何でも借金してきた」
「……」
「もう同じことはしない」
「あなた、冷たくなったわね」
夫は、少しだけ苦笑した。
「そうかもしれないな」
「昔はもっと家族のことを考えてくれたじゃない?」
「昔は、俺が無知で馬鹿だった」
元妻は、何も言わなかった。
夫は続けた。
「子どもには、俺から直接話す」
「あなたが何を言うつもり?」
「留学を応援する」
「……」
「俺が出せる三十万円は出す」
「……」
「足りない分は、奨学金や教育ローン、留学先や期間の見直しも含めて、よく考えてくれ」
「そんなの、可哀想でしょ!」
「俺にまた借金をさせてまで、一年間行かせることが、必ずしも正解とは限らないんじゃないか?」
「子どもの夢なのよ!」
「だったら、夢を叶えられる方法を一緒に考えていけばいい」
「……」
「俺に、あなたが勝手に決めた三百万円の請求書を渡すな」
電話を切った。
その後、夫は子どもに連絡した。
『留学のこと、応援している』
『父さんもできる範囲で協力したい』
『ただ、費用については、父さんが無理なく出せる範囲で協力する』
しばらく返信はなかった。
やがて、短いメッセージが届いた。
『ありがとう』
それだけだった。
元妻は、最後まで納得しなかった。
「父親なら百五十万円くらい出すもの」
「子どもの将来のためなら、借金してでも払うもの」
そう言い続けた。
しかし、夫はもう借りなかった。
留学費用として、三十万円を出した。
それ以上は出さなかった。
そして、元妻との間で初めて、はっきりと線を引いた。
子どもを愛していることと、
元妻の無計画な金銭感覚に、
今も付き合い続けるのは、
全く別の話だ。
かつて夫婦だった二人は、何でもフルローンで手に入れた。
家も。
車も。
新婚旅行も。
欲しい生活も。
元妻は、「子どもの将来のため」という言葉を使って、また元夫に当然のように借金をさせようとした。
しかし、夫はもう、同じ場所にはいなかった。
「今しかできない」
「子どものため」
「親なら当然」
その言葉に押されて、借金をする人生をとっくに終わらせていた。
子どもの未来を応援する。
けれど、自分の生活を壊してまでは払わない。
それは冷たいのではない。
ようやく夫が、
自分の人生の責任を自分自身で引き受け始めた、それだけだ。
元妻にはこれからもきっと理解できないだろう。
元夫の財布は、自分の管理する家計からはとっくに離れていた、ということを。




