第十八章 その一 アジバム・ドッテルの誘惑
カレン・ミストランは、生まれて初めて、男性とコーヒーショップに入った。もちろん、高校、大学を通じて、美人の彼女は引く手数多であったが、彼の兄であるエスメアルが、決して男性との交際を許さなかったし、彼女自身も男性を恐れていた。しかし、こうして実際に一緒に行動してみると、男性とは恐ろしいものではないような気がして来た。それにドッテルは、見た目もダンディで、身長も高く、所謂腹が膨れた中年の男ではない。その上、ミケラコス財団の幹部である。カレンはそこまで考えてハッとした。
(そうだ。この方には、奥様がいらっしゃるはず……。ミローシャ・ドッテルさん。あのナハル・ミケラコス氏の愛娘……)
カレンはまた恐ろしくなった。こんな人とコーヒーを楽しんでいていいのだろうかと。ミケラコス財団は、ケスミー財団と違い、悪辣だという噂を耳にしている。目的のためには手段を選ばない彼等のやり方は、法学部出身のカレンには、あまり感心するものではなかった。私を一体どうするつもりなのだろう? カレンの心の中に不安の嵐が吹き荒れ始めた。
「どうしました、ミストランさん?」
ドッテルがカップを置いて尋ねる。カレンはビクッとして彼を見た。
「い、いえ、別に……」
「そうですか? 何か悩み事でもあるのではないですか?」
ドッテルはもう一押しだと思っていた。外は日が落ち、すっかり暗くなっていた。
「ああ、もうこんな時間だ。お送りしましょう。ご自宅はどちらですか?」
ドッテルは白々しく言ってのけた。カレンはビックリして、
「結構です。バスで帰りますから……」
と立ち上がる。しかしドッテルは腕時計を見て、
「遠慮なさらずに。お送りしますよ」
「……」
カレンは兄に叱られると思った。仕事を途中で抜け出し、何の連絡もせず、男と二人きりだったなどと知ったら、あの厳格なエスメアルがどれほど怒るか。ドッテルは、そんなカレンの不安を見透かすかのようにニヤリとした。
レーアはカミリアと一緒にシャワールームから出て来た。そして、ナスカートを睨みつけ、
「鑑賞に堪えるほどのものじゃなくて、悪かったわね」
「あれ、聞こえてたの?」
ナスカートは悪びれもせずに言った。レーアはムッとして、
「ええ、よォく聞こえたわよ。お生憎様!」
彼女は髪をタオルで拭いながら、またシャワールームへと戻って行った。ナスカートはピュウと口笛を吹き、
「レーアは着痩せするんだな」
リームはナスカートを呆れ顔で見て、
「お前、彼女を見て、それ以外の事を考えられないのか?」
「ハハハ、惚れちまったらしいよ、レーアちゃんに」
ナスカートはヘラヘラ笑いながら答えた。ディバートは黙ったまま座っていたが、
「悪魔の孤島の件、俺達も情報を入手したいな。何とか現場に行けないかな」
リームがそれに頷き、
「そうだな。しかし、俺達は出られそうにないし……」
「私が行く」
レーアが着替えを終えてカミリアと戻って来て言う。ディバート達は一斉に彼女を見た。
「私も行くよ」
カミリアが言う。レーアはニッコリして、
「美人記者が二人なら、潜入できるんじゃない?」
ディバートは考え込んだ。ナスカートは笑って、
「こりゃいいや。それで行こうぜ、ディバート、リーム。女の方が怪しまれない」
デッバートはナスカートを見て、
「しかし、俺達以上にレーアは顔を知られているぞ」
「大丈夫さ。男の変装は返って目立つけど、女の変装はうまくやれば自然なんだよ」
ナスカートは自信満々に応じる。
「だが、危険だ。見つかった時はどうするんだ?」
するとカミリアが、
「その時はその時さ。先の事を心配していたら、機を逸するよ。やらせておくれよ。頼むよ」
と懇願する。レーアはディバートの顔を下から上目遣いに見て、
「お願ーい、ディバートォ」
と甘えた声で言った。ディバートは赤面して、
「わかった。首領にも話しておかないとな」
「わーい、ディバート、大好き!」
レーアが抱きついたので、ディバートは仰天してしまった。
「羨ましいぞ、ディバート」
ナスカートが悔しそうに呟いた。
カレンは、家の中に入るなり、兄に怒鳴られると思い、怖々とドアを閉じた。しかし兄エスメアルは怒ってなどいなかった。
「お前、ドッテルさんと一緒だったのか? さっき秘書の方から電話があったぞ」
「そう……」
エスメアルは妙にテンションが高くなっていた。
「で、ドッテルさんは?」
「お帰りになったわ」
カレンは、嬉しそうな兄を見て奇異に感じていた。
「どうしたの、兄さん? そんなに嬉しそうにして」
「だってお前、ドッテルさんが声をかけてくれたという事は、お前を引き抜こうとしているんじゃないのか?」
「引き抜く?」
カレンはキョトンとした。エスメアルはカレンの肩を叩いて、
「ドッテルさんはお前の才能を買って下さったんだよ。そうなんだよ。ドッテルさんは、お前を秘書か何かに迎えようと考えているんだよ」
「兄さん……」
カレンは唖然とした。
(どうしたっていうのよ? 何がそんなに嬉しいの?)
「やっと、私達も運が向いて来たんだ。ミケラコス財団の事実上の支配者が、お前に目をかけて下さったんだぞ。政府の秘書などしているより、ずっと給料もいいし、待遇もいいはずだ」
カレンは兄の意外な一面を見て、驚愕していた。